トルコについて

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前駐トルコ大使 田中信明

トルコについて公平に書くのは難しい。各種制約、タブーがあるからである。ここで述べるのは全くの個人的意見である。

トルコを理解する
2007年、大使として赴任する前に日本にいるトルコ人と日本の友人からトルコ料理を御馳走になった。彼曰く「トルコ料理は世界の三大料理ですよ。」自称グルメの私は当時、無知を恥じたものだった。任期を終えた今、そのような流言飛語に動じなくなったが、彼の言葉はトルコ人の気質を良く表している。彼らは、多分に「自己中」の気の良い人達が一杯いる地中海、エーゲ海、黒海という美しい3つの海と、「ノアの箱舟」が漂着したとされるアララット山に囲まれた「島国」(その理由は後で述べる)に暮らす人達なのだ。敢えて「島国」と書いてみたのは、トルコ共和国のあるアナトリアの地が、アジアとヨーロッパ、中東とロシア・コーカサスが交差する要路にあって、最古の文明時代から「文明の交差点」として、今日に至るまで一貫して主要な役割を演じてきたにも拘らずとの意味合いが込められている。

この「島国と文明の交差点」という矛盾は外から中々理解し難い。ここ日本においてトルコに関する知見は乏しく、殆ど白紙と言って良い。世界的に見てもトルコについて今は余り良く知られてない。その理由の一つは、この地は長い歴史の中で主役を演じて来たにも拘らず、今では偶々、最も些細な脇役に甘んじているからだろう。日本がトルコに関して知見不足である事は、日本がグローバルプレーヤーではなく、リージョナルプレーヤーに過ぎない証左でもある。それはさて置き今、グローバライゼーションという世界的流れの中で、全ての民族と国家が国境とイデオロギーの縄縛から解放され、歴史と文化、宗教そして経済活動といった古来の要素が世界政治の主軸となって現れてきている。そうなると、この地が近い将来、再び主役に躍り出ないとも限らない。長い歴史から見ると、トルコが脇役であることは「異常」である。時代の流れと歴史に裏付けられた明日への希望があるゆえ、今アナトリアの地に新興国というレッテルが張られたのであろう。

この国は、「文明の交差点」であったが故に余りにも多くの事が起き、「歴史の頚木」に挟まれた状態にある。そのため、この国を理解するには幾つもの切り口を探さねばならない。トルコの知識人から何度となく「トルコを理解するなんて、無理ですね。日々、次々と不可解な事象が沸き起こるのですから」と釘を刺されてきた。確かに、トルコを理解した、と思った次の日に理解しがたい不可解な事象に御目にかかる事が多かった。民族が交差し、文明が何重にも重なったことで、その気質は「複雑骨折」を起こしているのだ。

大使としての仕事は、先ずトルコを理解したいという強い衝動から始まった。

エルトルール号遭難事件
私の任期中に120年前の「エルトルール号遭難事件」を記念する「トルコにおける日本年」を企画、実施するという至上命令が与えられたため、赴任する前から、この事件が日土関係において重要になっている背景に関心を持った。「日本年」自体は、小泉首相訪土の折にエルドアン首相との間でエルトルール号事件120周年を記念して合意されたことに端を発している。日土関係に携わってきた人々と話していると、彼らの口から必ず「エルトルール号」が飛び出してくる。何故其れ程重要なのかなという思いがぬぐえなかった。

「エルトルール号」は美談である。しかし、120年も昔の話である。私も日米関係に長年携わってきたが、日米の関係者が事ある毎にペリーの黒船来襲に言及する事は無い。色々調べていくと、要は、 (イラン・イラク戦争の時のトルコ航空機による日本人救出劇もあるが)、「エルトルール号」の他に日土関係について語るべき新しい物語がこの120年の間、何も無かったのである。その時私は、大使としての最大の使命は、グローバル化したこの時代に、日土両国民の間に「エルトルール号」事件に代わる新たな物語の誕生を助ける事だと直感した。日土関係の新たな章を開かねばならない、そのためにはもっと良くトルコを知る必要がある。これがその後の私の原動力となった。

複雑な歴史認識
最初の疑問は「トルコにおける歴史の断絶」であった。私はビザンティン文化に惹かれてトルコに行った。ひょっとしたら栄華を極めたビザンツの遺産が此処彼処に残っているのではないかと想像していた。アヤ・ソフィアは流石に圧巻であるが、美術史的にも貴重なはずのモザイクの多くがその漆喰壁の中に埋もれたまま放置されている。周辺にはビザンティン帝国の首都が誇った宝の山が眠っているはずだが、発掘されることなく放置されている。トプカプ宮殿の下にも想像を超えるような美術品、遺跡が山と埋もれているに違いない。ローマ遺跡の傑作であるエフェソスは、未だに世界遺産に登録されていない。聖母マリアが亡くなった場所であるがゆえに、キリスト教の聖地とされる事を恐れているかのごとくだ。

あれ程の遺跡が世界遺産に指定されてない事について国内では批判の声は上がってこない。ビザンツへの一般的歴史観は、ビザンツ皇帝は江戸時代の悪代官のようでいつもトルコ人を苛めている、というものであり、これがソープオペラの代表的筋書きにもなっている。ローマ・ギリシャの遺跡は「彼ら」が作ったものでトルコ人が作ったものではないのだ。それではオスマン帝国に対してはどうか?国民の世俗派はアタテュルクの教えに従い、オスマン帝国は負の遺産だと考えている人が多い。他方でAKP政権は宗教保守政権らしく郷愁を持ってオスマン帝国を眺めており、その栄光を復活させようと努めている。ヒッタイト文明に対しては、血は繋がっていないにも拘らず全ての人が誇らしげに見ている。

着任当初、メルシン(地中海に面した南部の港町、エルトルール号記念碑がある)の座談会で「あなた方は長い世界史に輝くビザンツを始めとする諸帝国を作り上げた。あなた方の血は素晴らしい遺伝子を持っている」と賛辞のつもりで述べたところ、杖を突いた老人が立ち上がり「自分の中にはビザンツのような汚れた血は流れていない!」と叫んだのには驚かされた。これは一体どういうことだろう。日本では、歴史は万世一系の天皇制の下、この島国の全ての歴史を自分のものとしてきた。

王朝、帝国が何度も入れ替わった中国においても、中国の地にあるものは全て中国人の歴史として誇りにしている。それなのに何故トルコでは、アナトリアを中心に五千年以上に亘り繰り広げてきた世界有数の歴史を自分のものと考えないのだろうか?矢張りモンゴル平原から駆け抜けて来た遊牧民の血が、途中イスラム教を吸収してきた魂が、そしてヨーロッパ文明の中心を征服したとの自尊心が、キリスト教・ヨーロッパ文明の過去を拒絶しているのではないだろうか。

ある時、トルコ外務省の局長が、「ヨーロッパは長らくオットマン帝国(トルコ)の事を「欧州の病人」と呼んできたから其の論理からしても、当然トルコはヨーロッパに属する」と言うので、「ではあなたはヨーロッパ人ですか」と尋ねると「自分はトルコ人だ」と答えた。ここにトルコ人の内枷があるのであり、だからトルコのEU加盟は遅々として進まないのかも知れない。

歴史の断絶は文字の分野にも明確に表れている。アタテュルクはオスマン帝国時代に使われていた文字(アラビア文字)を強制的に廃止し、ローマ字へと変更させた。明治時代の文明開化時に漢字・仮名をローマ字で書けと命ぜられたようなものである。ローマ字で教育を受けて来た大部分のトルコ人はオスマン帝国の書物を読めない。歴史と言うものは常に継続性を持って流れていると思いがちな日本人の私にとって、(パキスタンも同様であったが、)トルコの経験は新鮮であった。日本は例外的存在であり、文明の十字路に位置する大陸国家においては、長い歴史の中で、異民族のせめぎ合いによって文化の断続が起こる事を思い知らされた。

要するに歴史の作り方が違うのであって、トルコの地では異なる文化、民族を積み重ねていくことによって歴史が作られている。継続性が大切なのではなく、必要に応じ変化させ、変化に適応していくことが大切なのである。

トルコ人の定義
第二の疑問は、トルコ人とは一体誰かということであった。トルコ人は強烈なナショナリズムを持つ。小学生からの暗唱させられる朗読文には、アタテュルクの「トルコ人として生まれて何と幸せなことか!」というセリフが登場する程である。そこで彼らのルーツを知るべく、多くの友人に其々の生い立ち、家系を問うてみたところ、おじいさん、ひおじいさんの代に旧オスマン帝国の各地域から移住してきた人たちが多いことに気付く。人々の顔を見てもイギリス人のような顔立ちから中国人のような顔立ちまで無段階に変化しており正に人種の坩堝である。遊牧民のせいかもしれないが土地を移動することに対して抵抗感が少なく、まるで移民の国アメリカ人のようだ。

旧帝国の各所から集合した人たちだから、時たま、出身の民族を意識することがある。未だ独立運動を続けているクルド人は例外的にトルコ(人)への帰属を拒んでいるが、それは後述するとして、「自分はチェルケーズ(コーカサス)系のトルコ人」とか「アラブ系、アルメニア系、ユダヤ系、ブルゲール(ブルガリア)系、ラズ系」等々、30余の民族の名前が出てくる。

実はオスマン帝国にはその30余の民族が雑居し、彼らは税金さえ払えばかなりの(宗教的にも、文化的にも)自由を享受出来たのである。それが20世紀初頭、ナショナリズムの嵐となり、帝国の末期には、各民族が列強と組んでオスマン帝国に反旗を翻した。その辺の事情を描いたのが、ご存じの通り「アラビアのローレンス」である。このため一時期、帝国は虫食い算のように分断、寸断され、いわば「清朝末期」の中国の様相へと陥った。この様な歴史的背景の下、トルコ人は中国人同様「領土一体性、内政干渉」に対して過剰なまでに神経質なるのである。

この国土分断状態を跳ね除けたのがアタテュルクであり、その原動力が「トルコ民族主義」であった。トルコは他民族の血が無数に流れる混血文化である事を十分に意識しつつ、アナトリア(と若干のヨーロッパ部分であるトラキア)にいる人たちは皆、トルコ人と再定義した上で、そこにナショナリズムを植え付けたのがアタテュルク革命であった。(憲法前文、同第66条)。オスマン帝国末期までに所謂「少数民族」とローザンヌ条約(注;1923年にトルコ共和国が日本を含む列強と結んだ平和条約)で定義された「異教徒(キリスト教徒)」については、実のところその殆どは、(民族交換、殺戮、追放等により)その前後に浄化されており、残った殆どの人はイスラム教徒だった。

トルコを取り巻く異教徒の列強と戦うには、イスラム教徒が団結する必要があった。そして残った人々は殆どがトルコ人を自負していた。その中には同じイスラム教徒であるクルド人、アレヴィー教徒なども含まれており、彼らも同朋意識を持ってトルコ人と共に列強と戦ってきた。ところが革命の後、現在までの80年余の間にトルコ・ナショナリズム教育が(私に言わせればアタテュルクの思いとは必ずしも合わない形で)強烈に進んだ結果、クルド人は疎外感を感じ、自分たちの文化が失われつつあると危機感を募らせた。またアレヴィーはスンニ派の教義を押し付けられることで閉塞感を感じ始めた。クルド人もアメリカの対イラク戦争が起こりあわよくば宿願の独立が出来るのではないかとの幻想を抱いた事もあろう。

現在、彼らはトルコへの同化政策に抵抗している。ローザンヌ条約で規定された3少数民族は例外的に今でも極少数存在するものの、トルコにはトルコ人しか住んでいないし、住み得ないのが憲法上の建前である。トルコ人からすると、トルコに住んでいながら、自分達はクルド人だからその帰属(たとえば独立)をはっきりさせてくれと言う主張は、憲法にある「民族の一体性、不可分性」に背く言語道断、あり得ない主張と言う事になる。此処にクルド問題を解決するにあたっての根本問題がある。トルコ人とはいかなる人を言うのか、「トルコ人であるべきクルド人の文化を尊重しつつ、トルコ人の一体性を損なわない」という命題に新たな解を与えなければクルド問題の解決策は見いだせない。これが現下の憲法改正論議の中核となっている。

鮮烈な愛国心
第三の疑問点はトルコ人の愛国心の強さである。どこの国でも愛国心はある。しかしトルコ人のそれは凄い。自画自賛とはこのことかと思う。ネムルート山と言う世界遺産の巨大石像が残るトルコ東部の、アデュヤマン市の市長さんは、車中ラジオを聴きながら「トルコ音楽は本当に素晴らしい。世界で一番美しい音楽だ。」と旋律を口ずさんでいた。ローマ時代の浴場は旧オスマン帝国の時代にハマムとして引き継がれているがこれもトルコ人の発明ということになっている。上述の通り、トルコ料理は世界三大料理であるというのもトルコではしばしば耳にする。友人の一人は可なり国際人だが、私に「トルコ料理は好きか?」と聞くのに「Do you LOVE Turkish food?」と聞くほど情熱的だ。

トルコに赴任して、同僚の各国大使から異口同音に助言されたのは「トルコ人に対して批判的なことを言っては絶対にだめだ。トルコ人は、おだてなければいけない。煽てればトルコ人は一生懸命やるようになる気質だから注意するように」ということであった。実際彼らの一人は、ちょっとしたトルコ批判を展開したところ「嫌ならトルコから出て行ってくれ」と言われたと嘆いていた。トルコ批判が許されないのは、外国人だけではない。トルコで唯一のノーベル賞受賞者(文学賞)のオルファン・パムークは、アルメニア人虐殺に関し、2005年の外国メディアとのインタビューにおいて、「100万人のアルメニア人が殺害されたことをトルコ政府は認めるべし」と発言したためにトルコ国内に猛烈な反発を招き、一時は国家侮辱罪で起訴される騒動も起きた。彼は今もってトルコに戻れない。これほど強烈な愛国心の源は矢張り歴史と教育の違いであろう。

中等教育の歴史の授業において、半分は1923年のアタテュルク革命以降の歴史を教えられ、後の半分弱はオスマン帝国について教えられる。それ以前のビザンティン帝国、ギリシャ・ローマ文明、あるいはヒッタイトと言った歴史は殆ど出てこない。アンカラのアタテュルク廟を訪れると献花するのだが、この愛国心を良く理解できるコーナーがある。全体主義時代の巨大建造物の一角には戦争博物館があり、巨大なスペースを割いてアタテュルクがいかにして列強を撥ね退けたか、その武勇伝が「光と音」と人形で展示されている。これを沢山の小学生が熱心に見ている。トルコにとってオスマン帝国崩壊時に列強に侵略されながらも、偽善と欺瞞に満ちた列強との外交の中で、血で勝ち取ってきた領土と安定こそ、最も崇高で死守しなければならない財産なのであり、その歴史と戦闘魂を未来永劫受け継ぐ事がトルコ国民に課された使命なのである。それゆえ、日本人のように血で手を染めることなく天から与えられた土地に住み、無意識に育まれた愛国心を持っている人たちとは愛国心の鮮烈度が違うのである。違いは両国の国旗にも象徴されている。日の丸の朱色は太陽の赤であり、明日の、希望の赤である。これに対しトルコ国旗の赤は血染めの赤である。トルコの土地は血で購った国土なのだ。これほど過酷な環境にありながら、トルコの現実をより客観的に直視できるトルコ人は実に勇気がある。私の経験では、そういう人達は概して海外でのトルコに関する議論を熟知している人たちだった。

世界に遍在するトルコ人
この様に日本とは正反対ともいえる国家の生業であるにも拘らず、トルコは、親日的で日本外交の宝である。歴史上一大帝国を築いた国民は矢張り大した資質を備えている。日本は戦前大帝国を構築しようとして失敗した。戦後は経済力で伸長しようとしたが、高々20年程のささやかな「Japan as No.1」であった。其れに引き換え、例えヨーロッパ列強のバランス・オブ・パワーの産物ではあったものの、広大な領土を、500年の長きに亘り、つい最近まで支配しえたのだから、其の底力には目を見張るものがある。各国に散ったトルコ人の末裔にもその一端を見る事が出来る。

トルコ人の元と言えば突厥及びその祖先に辿り着く。そこからイラン、アフガニスタンを含みアナトリアの土地辺りまでにはトルコ系が非常に多く存在するのは当然としても、ロシア、ウクライナ、ブルガリア、北アフリカ等々にもトルコ系民族広がっている。それらを勘案すると、トルコ共和国内の7400万人と同等以上のトルコ系民族が広範囲に存在する。在京トルコ大使館の臨時代理大使は、次のポストはロシアのカザンの総領事とのことで、「トルコ系が数10万人いてその世話が大変だけれど次の任地が待ち遠しい」と嬉しそうに話していた。友人のカザフスタンの前トルコ大使は、イスタンブールが最も落ち着き、ロンドン、NY以上に魅力のある都市だと言っている。モスレムとしてエザンの調べが耳に心地よいそうだ。彼はイスタンブールを甚く気に入ったために大層な邸宅を構えて、他国に赴任しても年の半分近くはそこに居る。トルコ語とカザフ語は標準語と方言のような関係にあるため、流ちょうに操れる。

親類縁者や同じ民族同士で、また言葉も通ずる関係にあれば外交やビジネス上大きなメリットがあり、自ずと上手くいく。近年、ダヴトール外相が主導している「近隣ゼロ・プロブレム政策」は正にこれを地で行く政策である。

トルコを取り巻く外交事情
トルコは、オスマン帝国盛衰の歴史と新共和国建国の経緯を引きずっている関係上、周辺諸国とは仲が悪い。これは日本を含めて版土を拡大しようとした国には共通して言えることである。(ヨーロッパだけはそうした敵対の時期を乗り越えつつある人類史の例外である。) トルコにとって、ギリシャは宿敵、ロシアは露土戦争以来の敵で、アルメニアは独立を画策する反乱分子の国、シリア、イラクは反乱分子クルドを匿う毛叱らぬ国である。そしてオスマン帝国が作り出したバルカン問題は今でも旧ユーゴ諸国の紛争の種であり、当事国からは旧宗主国トルコが胡散臭い存在と見られている。イランとは国境線が500年間変わらない比較的安定した仲ではあるが、スンニ派とシーア派だけに関係が良い訳ではない。モッテキ前イラン外相(前駐日、駐トルコ大使)は、トルコ大使時代に宗派対立を煽った角で国外退去にあっている。

此の様な四面楚歌の中にありながらも、建国以来、キプロス侵攻、クルドとの衝突を除けば周囲と余り武力紛争がなかった。それは、冷戦の時代にはNATOの枠組みにガッチリと組み込まれており、それが接着剤となっていたからであった。国内的にもいわゆる世俗派の代表格である軍部が権力の中枢に常にいたため、米国をはじめとする西側との関係は良好に保たれていた。経済的にもEUに依存していた。しかし頼みの米国との関係は、湾岸危機、イラク戦争を機に急速に悪化していく。対イラク経済制裁で最も対米協力をしたにもかかわらず、最も被害を受けたのはトルコであった。世論調査によると、80年代までは8割近いトルコ人は米国が好きという結果が出ていたが、最近は一割を切って、世界で最も嫌米国民の一つとなった。欧州に関してもEU加盟交渉が始まった当初の欧州観は良かった。

しかし加盟交渉の大幅な遅延、加えて仏、独といった域内大国の首脳から露骨な嫌トルコ発言が繰り返された事により、ここ五年程で嫌仏、嫌独感情がかなり高じて来た。但しイタリア、スペイン、イギリスと言った西欧の幾つかの国は大好きな国となっている。イスラエルとも中東では珍しく仲が良い。国民の個人的感情はさて置き、欧米からするとトルコは安全保障体制に組み込まれているため素直な頼もしい同盟国だったので、外交上の問題は少なかった。

冷戦後における外交の変化
しかし、こう言った図式は変わった。冷戦の軛から開放されたトルコは行動の自由の範囲が格段に増した。今まで注意を払ってこなかった地域に対し目が開いたのである。それを可能にした内部からの変化は、第一にトルコ経済の急速な発展、第二に自由選挙で出て来たAKPの宗教保守志向である。詳細には後段で述べるが、この結果トルコ外交は欧米偏重から全方位へと変わって行った。これを理論的に主導したのがダヴトール外相である。AKP政権になって首相補佐官となったダヴトールは2009年に外相に就任した。それ以前から、AKPの外交は、エルドアン首相、ギュル大統領(元外相)そしてダヴトールの3者で主導されていると言われてきた。彼の持論は、「トルコが東西の架け橋とか、イスラムと西欧の架け橋とか、他国の道具として行動するのは御免だ。トルコは中東だけの国ではない。ヨーロッパ、バルカン、コーカサス、中央アジアの一国でもある。オスマン帝国と言う遺産を引き継ぎ、「戦略的深度」(分りやすく言えば戦略的遺産)を持っている。これらのソフトパワーを利用して主体的外交(紛争予防解決等々)を展開すべし」と言うもので、近隣諸国とのゼロ・プロブレム政策を謳っている。これは巷間、「ネオ・オットマン主義とか外交」とか呼ばれており、「昔の栄華よ、もう一度」と夢見ているとも言われている。外相となったダヴトールの活躍は目覚ましく、アンカラを殆ど留守にするぐらいの飛び回り方をして、あっという間にトルコをこの地域(上記の諸地域)の主要外交プレーヤーにしてしまった。中東情勢に関しては、米国、イスラエル、石油、パレスチナと確かに世界戦略の大枠は固定している。しかし、その中で実に速い動きが起こっており、あっという間に主要プレーヤーは変わっている。今やエジプト、サウジと言った国よりトルコ、カタールと言った国の動きが目立つ。そうは言っても、その成果や如何に、となると多分に疑問符がつくと言うのが大方の見方だ。ダヴトールはアルメニアとの和解、シリア、イランとの関係改善、イラクとの蜜月、EU加盟交渉の進展、ロシアとの協調等を目指しているが、中々うまくいかない。「ゼロ・プロブレム政策を目指して、ゼロ・フレンド政策になってしまった」とトルコの評論家が嘆いていた。成果のほどは兎も角、外見にはその外交が目立つ事は確かである。

ネオ・オットマン外交と評されるように旧帝国版土への関心を以前より飛躍的に増大させた。これら諸国はイスラムの地でもあるので、言ってみればトルコの国民感情からは親和性が高い。この心理現象を私は宗教保守指向と名付けている。こうして相対的にではあるが従来の欧米依存外交から脱却したように見える。欧米の核心的利益のミサイル防御では配備を認めて西側に立ち、その一方でイラン制裁決議では欧米と袂を別った。イスラエルとの関係を決定的に悪化させたが、アラブ民衆の中ではエルドアン首相は随一の英雄となった。欧米からはイスラム回帰と警戒心を持って見られつつも、アラブの春ではトルコ・モデルという民主化路線が持て囃された。G20の一員としての存在感を増すトルコは相対的に欧米軽視の様相を深めているにも拘らず、米国は、内心では兎も角、表面上はこの路線を支持している。そもそも欧米一辺倒というのが異常だったのであって、トルコのように各地域に跨っている国が四方八方に関心を広げることは、特にそれらが旧領土であれば尚更、至極当然のことである。独自外交と言えば独善的響きがあるものの、外交において主権的判断を下すのは独立国として当然である。

もし日本がトルコの様な外交路線の転換を図ったならば米国は最大限の圧力をもって翻意を促したであろうし、国内では其れを持って倒閣運動に転化していたであろう。そもそも日本人の中に、独立の外交政策を模索する人は多くない。昔は「東西の架け橋」「米中の架け橋」と言った荒唐無稽な標語が日本の役割として外交場裏を飛び交ったが、今や「寄らば大樹の陰」で米国に擦り寄る他は無い有様では到底トルコ外交の足元にも及ばない。何故日本においてこの様な外交が取れないのか?何故、国際情勢判断が斯くも無邪気で微細に拘り、大局的判断が出来ないのか?何故、決断が下せず延々と議論で失われた時を過ごさざるを得なかったのか?何故、トルコは可能なのか?そこには500年の長きに亘り一大帝国を築き上げたトルコ国民の矜持が見て取れるのである。

トルコと言う「気配りのない国」「猪突猛進の国」「妥協は弱き者のする事と言う国」「夜郎自大の国」において、その「変化を恐れない勇気」、「機敏な判断」、「強いリーダーシップ」を始めとする尊敬すべき、素晴らしい長所を見て取る事が出来、羨ましく思った。日本の弱点を補ってくれる国と組むことこそが真のパートナーシップではあるまいか。日本には日本外交の長所がある。忍耐、コンセンサス、資金・技術力、有言実行等々。それらを持ち寄ってユーラシアの東西の端に位置する国家同士がパートナーシップを築くことこそ日本の明日を開く一つの扉であろう。

トルコの経済事情
冷戦後からの全方位外交を支え、推進してきた内なる背景は、何といっても経済力の飛躍である。G20入りを果たし、2023年の建国100年祭にはG10入りを目指している。今世紀に入ってから、年成長率は実質平均5%を上回り、実にGDPが4倍(2001年$196Bから2011年の$821B)へと膨れ上がった。南アの2倍の経済規模である。この五年の成長率をみると中国、インドには及ばないが、ブラジル、ロシアと肩を並べている。1人当たりのGDP(PPP)は14,000ドルを超え、ロシアに匹敵する。人口は7千4百万人で、国民の平均年齢は29歳(日本は43歳)だ。エルドアン首相は一家に子供3人を呼び掛けている。離任挨拶の際、ユルマーズ中央銀行総裁に、トルコ経済躍進の秘訣を問うと「財政規律、財政規律、財政規律」と語っていた。2001年の経済危機の反省からAKP政権はIMFの下ではあるが財政規律を保ち、IMF監視の離れた後もその路線を維持してきた。この5~6年の財政赤字は対GDP比で(リーマンショックを含む)平均3%以下に抑えられており、日本の8%、独4%に比しても、増してやポルトガル9%、ギリシャ10%、スペイン9%に比して優秀である。公的債務もGDPの42%と比較的マネージしうる範囲に抑えて来た。銀行の数も前世紀末の79行から現在の46行まで減らし、BIS基準も19%と日独の12%、14%を超えている。この努力の結果、リーマンショックを乗り越え、2010年にはGDPが9.2%増と反転した。

トルコ経済の強みは、1996年のEUとの関税同盟を生かした輸出拠点としての優位性と中間層の台頭による旺盛な内需である。トルコの世界の輸出入に占める割合は、90年の0.5%から2010年には1.1%へと倍増し、その存在感を高めつつある。欧州が圧倒的に大きな貿易相手であり、数年前まで対欧州輸出が対世界の半分以上を占めていた。トヨタ、ホンダと言った企業が対欧州輸出の拠点としてトルコを活用しているが、その反面、未だ裾野産業が育っていないために中間財、資本財の輸入が総輸入の7割を占め、トルコの経常収支を制約してきた。(勿論、エネルギー非産出国としてエネルギー輸入も制約要因になっている。)この経常収支の慢性的赤字体質(概ねGDPの1割)がトルコ経済の脆弱性となっていることは間違いない。また貯蓄率の低さも投資のボトルネックになっている。素晴らしい地中海性気候の下でエメラルド色のエーゲ海、地中海に囲まれていれば貯蓄するより消費の方に気が向くだろう。その御蔭で国内消費が他国と比しても大きく、景気の牽引車となっているのだから痛し痒しと言うところかもしれない。

リーマンショックはトルコの対欧州偏重を是正する機会となった。時を同じくしてダヴトール外相の全方位外交が活発化した。リーマンショックの前後の2年間で世界に占める対欧州輸出は約55%から約45%と実に10ポイントも激減した。その代わりに中東、中央アジア、マグレブ、ロシア、中国と言った地域への輸出ドライブがかかり、同時に、中東のオイルマネーがトルコに一層流入し始め、これらの地域からの対トルコ投資も増加した。多国籍企業もトルコにこれらの地域の統括支店を設けるケースが多くなっている。コカコーラ、マスターカード、ユニリーバ、マイクロソフト、DHLと言った企業が上記の地域をイスタンブールから監督している。不思議な事に米国の経済上の存在感は其れ程大きくは無く、輸出入の数%を占めるにすぎない。そのことも米国の対トルコ外交の梃子を小さくしている。米国との関係は安全保障、戦略的なものへと偏っている。この事実は、イラン制裁安保理決議へのトルコの反対投票を止められなかったことが物語っている。

トルコの経済攻略は性急果敢であり、ギュル大統領、エルドアン首相が外国訪問する時には必ず数百人の経済人が同行して商談を活発化させている。リビアと、ロッカビー制裁からカダフィ政権制裁に至る短い期間にトルコの投資が50億㌦、在留トルコ人が2万人にまで拡大したのにトルコの勢いを感じる。イスタンブールから4時間の飛行距離圏内に人口12億の大市場がある。欧州を除けばその大部分がオスマン帝国の版土であった。トルコ経済の力が此処に及ぶのは歴史の必然であろう。

もう一つトルコ経済を考える時、交通の要所、文明の交差点といったトルコの地政学的位置が特筆に値する。マルコ・ポーロの昔に遡ればアナトリアの地を経由せずして東西の交易は成り立たなかった。しかしその後のオスマン帝国は東西交易の妨げになってしまった。これを回避するためヴァスコダ・ガマが喜望峰経由の海上輸送路を発見し、それ以降、アナトリアの地が交通の要路と言う意味合いは薄れたと言って良い。しかし一産品だけはこの地を通過することを今でも必要としている。それはカスピ海周辺や、ロシアからの石油、天然ガスである。これだけは最終消費地の西欧に運送するにはどうしてもトルコを通過する必要がある。その事実は、既存のBTCパイプラインの他にナブッコとかサウス・ストリームと呼ばれるパイプラインがアナトリア経由であることからも明白である。この地におけるエネルギー回廊の争奪戦こそ21世紀経済の中核であり、トルコはその帰趨に大きな影響力を持っている。 次のページ 政治情勢