第3弾 トルコについて 政治情勢

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前駐トルコ大使 田中信明

トルコについて公平に書くのは難しい。各種制約、タブーがあるからである。ここで述べるのは全くの個人的意見である。 最初のページへ戻る

政治情勢
この様な経済ダイナミズムを支えてきた政治的安定は、与党AKPによってもたらされて来た。「トルコで三回選挙に勝ち抜いた政党は無い。」という専門家の御託宣をあざ笑うようにAKPの得票率は35%(02年)→47%(07年)→50%(11年)と増大した。AKPの沿革はエルバカン率いる宗教政党からの派生である。よって、イスラム色があり、社会文化的には保守的な政党であるが、宗教政党ではない。私はこれを宗教保守と位置付けている。トルコはそもそも世俗主義の国と言われて来た。其れが何故に宗教保守政党が覇権を握る事になったのか?其れを理解するにはトルコ建国の歴史を紐解く必要がありそうだ。

アタテュルクは1923年の革命において、イスラム教の中心的帝国であったオスマントルコを、近代化への足枷であり重荷であると考えた。イスラムの地にあってイスラムを否定する、これは大冒険である。それを国家権力によって強要し、近代化=西洋化=世俗主義という国の形を作り上げ、爾来国民に押しつけてきた。アタテュルクの目指していた国の在り方は明らかであった。しかしアタテュルク革命以来80年をもってしても、成功率を計れば、今でも人口の約1/4程度しか世俗主義に感化されておらず、残りの3/4の国民は相変わらず土着的、遊牧民族的、イスラム的国民性を有したままである。つまりアタテュルク革命では、このような国民文化を根本的に変える事が出来なかった。過去、総選挙が比較的自由に行われて来た時はこのような保守的な声が反映され、あるいは冷戦たけなわの時には左翼勢力が国政に躍り出たが、その度に軍のクーデターで引っ繰り返されて、結局は強権的世俗主義が権力を握り続けて来た。ところが現在のトルコでは、残りの3/4の保守的な国民が、グローバライゼーションの下での自由・民主主義政治を通じて声を挙げ、選挙で現政権のAKP政権を樹立したのである。いわば西洋化、脱宗教に向かったアタテュルク時代の反動として、逆の動きを欲したのである。従って、現在のAKPの内政も外交も民主主義原則の下では必然的に起こった現象と捉えることが出来る。欧米もその様に歴史の必然と捉えており概ね肯定的な評価であった。又、AKPが3度の総選挙に耐え、下野しなかったのは、最早軍によるクーデターが時代錯誤であり、政治的選択として不可能となったためである。過去に軍のクーデターを支持してきた米国も、かかる暴力が国際的に通用しない事を理解しており、容喙する意図は無い。

AKPは所謂イスラミスト(原理主義者)ではない。しかし国内的にはその宗教的色彩の濃い政策を指向したため、過去権力の座にあった世俗派からは可なり手厳しい批判を受けている。彼らは多くのインテリを含むために、欧米への影響力もあり、最近、欧米の論調もAKPに警戒心を持つ向きも出て来た。AKPの政権運営は手堅いものであって、経済的には自由開放経済を指向して、既述のような繁栄をもたらした。外交的にはそのイスラム嗜好があるためアラブ諸国との関係がずいぶん改善され、全方位外交に貢献した。EU加盟問題についても、欧州の大国がトルコ加盟にあからさまに反対するにも拘らず、トルコは批判されても交渉を打ち切ることなく、粘り強く交渉に参加している。政治的には多数の暴力で何が何でもイスラムのアジェンダを通そうという強権的やり方では必ずしもなく、熟柿が落ちるのを待つというやり方で、多分に狡猾である。総選挙と言うモメンタムを上手く利用しつつ最終目的の(軍の起案になる)82年憲法の改正に向け一歩一歩前進している。

世俗派との対決が最も厳しいのが社会・風俗面での宗教嗜好である。私のトルコの友人たちには世俗派が多い。彼らはAKPを毛嫌いしている。「トルコがイランのようになるなら他の国に行きたい」「AKPの下では髭を生やさなければ(奥さんがスカーフを被っていないと思われ)公職につけないし、仕事ももらえない」「スカーフなんか被っている人たちと同席したくない」「断食なんか絶対にしない」等々、感情的な反発が相当強い。世俗派と宗教保守は住む区域も全く異なり、習慣も異なる。AKP施政下で、アタテュルクだったら絶対に許容しなかったような宗教的雰囲気が国民の生活の中に出てきていることも確かだ。ギュル大統領夫人はスカーフを被って大統領府に入った最初のファーストレーディーとなったが世俗派はこれに抵抗して大統領夫妻主催のレセプションをボイコットするなどした。確かに私の3年半の在任期間中に、アルコール飲酒は次第に出来にくくなり(例;イスタンブールで飲酒のパーティーを画廊が開いていたら、そこに宗教保守的やくざ者が乱暴狼藉に入ったとの事件もあった)、スカーフの姿が増え(例;ファッションショーもスカーフ関係者用の物まで出現したし)、モスクも急速に建造され(例;任期中にアンカラの中心部で4~5つも増えた)、最も先端ファッションの避暑地でも海水浴場が男女別というのが出現したし、AKP批判の新聞論調も影を潜め始めた(例;ドアン・グループへの巨額課徴金でグループが潰れそうになっているし、トルコはメディア関係者の投獄数で世界一)。イスラムは「行為」の宗教であって第三者は人の行動から信心深さを推し量る事が出来る。それ故に他人の干渉を許してしまう素地がある。スカーフを被り、一日五回礼拝し、布施をし、ハッジに行き、アッラーを声に出して崇める事をしない者は信心深くない。信心深い人から見ると、不信心者なのである。イスラムは心だけに留まらないところが特徴である。だからこそ脱宗教の環境で育ってきた世俗派インテリは生活の自由を奪われると心配する。両派の葛藤はこれからも続く。しかし私にはトルコがシャリア法支配の社会になるとは思えない。アタテュルク革命がその程度の抵抗力をトルコ社会に植え付けることに成功したと思う。このように抵抗力のある社会であるが故に、トルコ社会はアラブの春が目標とする社会なのだ。そうは言っても強制的な脱宗教から出発し、その後再び自然と宗教色が出て来たトルコの例が、他のアラブ諸国に適しているとも思えない。アラブ諸国はシャリア法の世界から出発して宗教の影響力を弱体化しようとする全く逆の流れだからである。

AKPの覇権
世俗派を代表するのは軍である。その他にも官僚、高等教育関係者、司法、大手財閥といったところが其れに当たる。しかし、ここ10年で大手財閥に対抗するAKPと極近い財界人勢力も出て来た。司法も、検察・各種裁判所のうち上級審の極く一部を除き、AKPに近い人たちで占められるにいたった。警察は完全にAKPが掌握した。大学関係者も既に牙は抜かれた。官僚も、教育相、司法省、内務省と言った主要官庁は既にAKPが抑え、最後の砦の一つ外務省もダヴトール外相の下で人事の大幅な改革を行っている。軍ですら、数年前からのエルゲネコン捜査等々でクーデターを謀議した門で元参謀総長まで逮捕される前代未聞の事件に発展し、AKPの軍門に下った。民主化と言うEU加盟交渉での条件を逆手にとって、軍からクーデターと言う牙を抜き取ってしまったのである。

 エルドアン首相は実に徳川家康的である。AKPは政党と言うマシーンを合理的に改善し、その戦略は立体的で奥が深い。押してダメなら引いてみると言う硬軟両様戦略を使う。従って、エルドアン首相がいなければAKPひいてはトルコの政治的安定はどうなるのかと言うのが内外投資家の投げかける疑問である。

 昨年末エルドアン首相が大腸がんの手術を受けた。これで党内の規律が一瞬乱れたが、同首相の病床からの鶴の一声で収まった。エルドアン首相の夢は憲法改正により民意で選ぶ大統領制にトルコを変えて、(現在は国民議会で選出)、2014年の大統領選で大統領になり、2023年の建国200周年では、共和国史においてトルコの国威発揚に貢献した中興の祖になることである。将来のトルコの運命は、エルドアン首相の帰趨にかかっている。

日土関係
さてそのトルコと日本との関係はどうなっているか?
120年前のエルトルール号事件とか、イラン・イラク戦争に際してのトルコ航空機によるテヘラン在留邦人の救出と言った美談は残っている。しかし両国民の間で相互理解は極めて断片的かつ皮相的であり、両国間の貿易投資は極めて限定的かつ些少の額である。これらの現実を踏まえてどうするかが現在問われている。

「トルコにおける日本年」
 2010年の「トルコにおける日本年」はそういう文脈で行われた。小泉・エルドアン間での合意を踏まえて行われた周年行事で、トヨタの張会長を委員長とした募金委員会を作り、そこでトルコ関係日系企業を中心に1億円を集めて頂いた。イヴェント内容については現地の邦人の意見を基に企画し、トルコ全国32都市において通年、節目、節目で合計191のイヴェントを開催した。トルコ観光も上向きになりつつあったので、一旦日本年が喧伝されると、日本の此処彼処から私もぜひ参加したいとの希望も寄せられ、その輪が大きく広がって行った。イヴェントのジャンルも千差万別で日本の古典から現代、芸能芸術音楽から投資まで幅広く紹介できたと思う。又日本メヂィアのトルコへの関心が高まり、その影響で日本人観光客も増えるようになった。三笠宮寛仁殿下は、御自らツアーガイドと称し、大勢の観光客やカマン遺跡への寄付をした方々を連れて来られ、カマン・カレホユックの博物館を案内しておられた。

 その一年前には、皇太子殿下が世界水会議御出席のためイスタンブールにお越しになった。2008年、ギュル大統領が訪日し、その際、天皇皇后両陛下主催の午餐会が催され、両陛下に親しく接せられたことで、大統領が痛く感銘を受けたという経緯がある。爾来、大統領は日本の皇室、取分け両陛下と皇太子殿下御夫妻を自ら御もてなしたいと大変熱心に繰り返し述べられていた。そのため水会議の様な好機会を得て、大統領は各国の王室、首脳が数多いる中でも皇太子殿下への心配りは格別なものがあった。皇太子殿下も異国情緒あふれるイスタンブールに感銘を受けられた御様子であった。

 日土関係を支える人たち
 日土関係は両国の潜在力から見ると余りにも希薄であるが、さりとて今日までこれを支えて来たのは両国の草の根のレヴェルでお互い大変温かく親しみの情を持った大勢の人たちである。在トルコ日本人は1500名程度、在日トルコ人は2500人程度と小さいコミュニティーではあるが、日本人観光客は年々増加し、20万人規模まで達している。JICAの日本人専門家も1200人、トルコ人研修員受け入れも4700人いる。日本語学習者も常時1200人程いる。どの人もトルコに、そして日本に大いに好感を抱いて、その後の両国間交流に貢献している。

国際交流基金とか公的支援を全く受けず、自分達だけでトルコの各地方都市と交流するために10人規模で毎年のようにトルコに来てくれる方々がいる。リーダーの石本さんの像が建っている都市まである。脳溢血で倒れ言葉が多少不自由になりつつ、「日本年」事業のために、身を押して来てくれた。長年の交流で身に付けたトルコ語で挨拶をされるのを見て、感銘を受けた。

アンカラには土日基金という立派な建物がある。私は当初日本政府がこれを建てたのかと思ったら、とんでもない。9割をトルコ側が出して建てて、運営は全くトルコ側が行ってきた。これだけ日本へ投資をしようとしたのは日本経済が90年ごろは「Japan as No.1」であったからだが、残念ながら日本政府として、運営費への協力はおろか、殆ど資金的協力が出来ていなかったため、彼は基金の建物を結婚式場として使うなど汲々としており、これを見ていると気が重かった。そこでは日本語教室とか日土関係での素晴らしい貢献を毎日のようにやっている。

アンカラからカッパドキアへの中間点、カマン・カレホユックにはこれも立派な博物館、研究棟のある遺跡発掘現場がある。ここでは大村教授が20余年心身を注いできた成果が陳列されている。三笠宮殿下がここで発掘を始められたのを現場で支えている人だ。欧米が考古学の発掘を独占している現状に楔を打って、日本は自分のためでなく、トルコのために発掘しているという基本的な事をトルコ人に印象付けた。ギュナイ文化大臣は欧米の大使に対して、常にカマンへの日本の協力を惹き合いにして釘をさしている。

我々二国間の関係はこの様な熱心な人たちに支えられて来た。


日土経済関係
 さて日土関係の屋台骨ともいうべき経済関係だが、統計を見る限り到底G3 とG17の間の経済関係とは思えないほどの希薄さである。過去に、80年代末と記憶するが、金丸信代議士がジャンボ機2機で政財界の有力者、文化使節団を引き連れてボスフォラス第二橋の竣工式に参加した。何とまあ派手な事をやるものか、トルコがそこまで重要なんだ、と印象付けられた記憶がある。今でもトルコにはトヨタやホンダ等の工場が有り、合計10万台弱をも生産しているものの、そのような経済依存関係やトルコの重要性というのは、現時点での貿易投資統計には見えてこない。統計では輸出入が昨今40億ドル規模(10対1で日本の出超)しか無く、日本の姿は全く見えないと言って良い。トルコも日本で同様である。この昔の記憶と現在の統計のギャップが私には腑に落ちなかった。

 どうやらこれは2国間経済関係の栄枯盛衰の物語でもあった。80~90年代、日本経済が日の出の勢いにあった時には、動きの速いトルコ財閥が日本に対して何度も誘いの手を差し伸べた。これにほだされてトヨタ、ホンダ他が対トルコ進出を決めた。ところが、いざ進出してみるとトルコ市場は所得の低くさから来る小規模、労使環境も硬直的で、ビジネス方式も異質であったためかなり苦労していた。そこに96年、EUとの関税同盟が結ばれ、爾来、対EU輸出基地としての性格に変わった。これで進出していた邦人企業は息を吹き返した。しかし90年代後半は日本にとって資金の引き上げ、デフレの時期と重なり、トルコから多くの企業、銀行が撤退した。日本の対トルコ援助も、無償は打ち切り、円借款も可なり難しくなった。その後、両国経済関係が低迷する一方、その間トルコでは1人当たりのGDPが1万ドルを超えるほどに成長し、上述の如くトルコの経済活動はこの地域一帯に拡大し始めた。日本が低迷している間にトルコは躍進を遂げたというのが2国間経済関係の実態であった。

 20年近く失われた時を過ごした両国関係であるが、ここ数年、変化しつつある。インフラ推進関係閣僚会議の立ち上げからも分るように、日本が官民挙げて海外ビジネス展開を積極化させたからである。日本年を境とし、トルコの大型インフラ案件への参加を始め、M&A案件、事務所開設等々、日本企業が躍進するトルコに改めて関心を払い始めた。私の任期中に、原子力発電所建設、イズミットの吊り橋を始めとする道路建設といったPFI・PPP案件にも関心が出て来た事は大きな肯定的変化である。何故なら、あの慎重極まりない日本企業が長期にわたってリスクを取ると言う意思表示をしたからである。勿論、親日的なトルコはこれを大歓迎している。両案件とも韓国、中国勢と競い合って勝ち取ったのだからその価値は一層高まる。日本がその覚悟をすればトルコも応えてくれる。Turksatの通信衛星受注では宇宙開発協力のAからZまで引き受けるという日本の姿勢にトルコが共感し日本が受注した。また損保もトルコ企業を買収して進出を決めた。日本の三大銀行も漸くイスタンブールの駐在事務所が全部揃うこととなった。病院コンプレックスの建設についても日本がコンサル契約を受注し、PPPへの参画を計っている。又、進出企業数も増えており100を超えた。日本人学校も満杯の状況にある。

  トルコから日本への輸出は、金額こそ少ないが、面白い品目がある。イズミール、アンタリア沖でマグロの養殖が可能になり、今や対日輸出の主要産品だ。煙草の葉も航空貨物での主要産品だ。トルコの不満は片貿易にあるが、トルコが完成品の対EU輸出を増やせば増やすほど日本からの中間財輸入が増えていく図式になっている。最近エルドアン首相は新たな投資促進策を打ち出した。トルコでの中間財の生産に税の減免等優遇策を講じるもので、正に経常収支赤字解消策の一つである。

 トルコでのビジネスに当たって、特に注意すべき点と落とし穴は何か?
トルコ人の特性を理解しそれに合わせる事だと思う。陳腐だが敢えて3つのSで表すと、Seniroity (Top down), Speed, Safety netが重要であろう。これらは別にトルコでなくても中東、アジアの各地域で共通するものであろうが、トルコのような遊牧民族では族長が無能では荒野で民族全体が野垂れ死にしてしまう。第一のTop downの意味は、判断の全プロセスと決定権は族長に属する。族長の命令一下、方向を決めるのである。トルコ企業の歴史は短い。殆どの企業が1923年のアタテュルク革命から出発して発展を遂げた。従って財閥と言っても未だにオーナー一族が牛耳っている。まず役員に話さなければ事は進まない。逆に、役員やオーナーから話が来ればそれは先方の意思決定事項と受け止めても良い。翻って日本は組織で物を決める事にかけては極め付けで、そこに日土間の掛け違いが常に潜んでいる。

  第二のSpeed。意思決定が少数に集中しているため、次々に判断、決定、実行されていく。日本企業の大体がそのスピードに付いて行けない。又そこにはリスク計算の仕方の違いが見受けられる。「石橋を叩いて尚渡らない」日本人と「石橋を渡った後でも叩きもしない」トルコ人の差である。トルコ側は十分な情報を与えたにもかかわらず日本人は決断をしないと言う。日本人はそのような情報では十分なリスク計算が出来ないという。

 第三にSafety netの必要性である。日本企業がどう逆立ちしてもトルコの地で事業を単独で立ち上げるのは難しいであろう。大概、日本の企業は、十分な事前調査を行い、失敗した時のリスクを回避するよう準備するものである。しかし其れでもなお馴染みのない土地での商売は失敗の可能性が高い。よって始める前からその手当てをしておくことが肝要である。特に肝要なのは、時の政権に影響力を行使しうるトルコ人や地場の会社と組むのが一つの選択肢であり、もしくは、そういう人たちをいざという時に動員できる体制(弁護士、コンサル)を作っておくことが重要である。

 もう一つ注意点を付け加えるならば、パートナーシップの考え方である。離任時にトルコの財閥の長から忌憚の無い意見を聞いた。「自分は90年代から日本とのパートナーシップを作ろうと大変努力してきた。そのため随分トルコの政官民を説得してようやく合弁事業をする事になった。日本人は、最初、地場の問題を教えてくれと言うから教えてあげた。暫く経つと、自分達で出来るようになったから合弁はいらないと言う。排除の論理だ。自分は相当努力したが、それにタダ乗りされた挙句、日本人だけでやろうとした。そんな日本人とは仕事が出来ない」と。彼はその後、韓国と手を結んだ。この話は日本人商工会議所にも伝えたが、ここには日本のビジネスモデルの基本的問題が潜んでいるのではないかと思う。

  この様な様々な観点から、トルコとの事業を考える時に当り、是非取り組んでほしいのは、第三国における日土協力だ。トルコは旧オスマン帝国の広大な版土に知見とコネを持っている。例えばトルコのジェネコンの競争力はこれらの地域で日本よりはるかに強い。日本には資本と技術がある。そこでこの二つを結びつければ最強の軍団になるだろう。既に中東、中央アジアでこのパートナーシップは始まっている。アスタナ、ドーハの空港、ドバイの地下鉄等々成功例は積み重なっている。

 日土は、国民性も、歴史も両極端と言って良いほど異なっている。しかしお互いに近隣諸国との葛藤の歴史を抱えて友邦国が少ないという共通点を持ち、お互いにとても親しみの情をもっている。こういう国はとても大切だ。両国の国旗は、歴史的背景の違いを示すと述べたが、その一方で、見方を変えれば日土のパートナーシップの可能性を象徴しているかの様である。トルコの国旗は赤地に白。日本は白地に赤。意匠は月と星に対し太陽。それぞれ共通点を持ちつつも全く逆の性格を持っている。でも片方だけでは半日にしからならず、両方あいまって一日が出来る。お互いに協力すればきっと大きな仕事が待っているに違いない。その様な共同作業をするときに、日土の新たな章が開かれて、新たな物語が語られるであろう。(寄稿2012年5月6日)