「アラブの春」とイラク情勢

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前駐イラク大使 小川 正二

イラクの現状と将来」2011-4-11 論壇も合わせてお読みください。(霞関会編集部)

1. 「アラブの春」の歴史的意味
  昨年末にチュニジアにおいて政府への抗議行動により始まった中東における民主化要求運動、所謂「アラブの春」はその後エジプト、リビア、シリア、イエーメン、バハレーン、ヨルダン等の諸国へと次々に広まっていったが、今回の政治的な運動は従来の中東には見られなかった歴史的な意味を持つものと言えよう。中東諸国の伝統的統治形態、即ち独裁体制(個人的独裁か王制による独裁)かイスラム宗教支配かという2つの選択肢しかなかった政治体制に初めて非宗教的な民主体制への明確な要求が具体的な政治運動として中東の政治舞台に現れてきたわけである。

  この動きの歴史的な意味については現時点で明確な判断を下すことは尚早かも知れず、また専門家の間でも意見が分かれているが、筆者は中東の政治形態、地域情勢に大きな影響を与える出来事であると考えている。今回の運動の背景には情報のグローバル化とアラブ諸国の青年層、それも一定以上の教育レベルを持った青年層のフラストレーションという社会、政治、経済分野での基本的な変動が背景にあり、この流れはアラブ諸国の政治形態に大きな変動をもたらす可能性がある出来事と考えている。

  現在のところ変化はチュニジア、リビア、エジプト、シリア、イエーメン等の個人独裁の諸国において最も激しく起こっており、バハレーンを除いては(これもサウジの介入により鎮静化)王制の湾岸諸国では激しい騒乱は今のところ起きていない。然しながらこれら諸国においても早晩変革への動きが出て来るのは避けられず、王制側かこれに如何に対応するかで、これら諸国の運命は大きく変わっていく可能性があると考える。

  何れにせよ、今回の動きは未だ進行中であり、各国において最終的にどのような結果(どのような政治体制になり、どのような政権が生まれるのか)になるのかは現時点では明確ではない。各国において反政府運動の主体となった青年、無党派層は組織化されておらず、今後行われるであろう選挙において政党(乃至政治グループ)を結成し、議会において多数を占めるのは容易ではなく、組織化に優れるイスラム主義政党が有力な政治勢力として発言力を持ってくるのは明らかである。このようなイスラム主義政党がどれだけの力を持ち、またどのような政治路線(国内においては宗教色の強さ、対外的には反米、反西欧的姿勢の強さ)を取ってくるのかによって情勢は大きく異なっていくことになり、今後の情勢を見通すのは極めて困難である。何れにせよ、今後はこれらイスラム主義勢力をどのように関与させていくのかが、米国の対中東政策の大きなチャレンジとなろう。

2. 中東情勢全体への影響
  今回の中東民主化への動きは各国の国内政治における変革、影響と共に地域全体の地政学的なバランスにも大きな影響を与えつつあり、今後中東地域の政治的バランスがどうなっていくのか注目する必要があろう。


その際にポイントとなるのは、次のような点てある。
 (1)イスラム勢力と世俗的勢力とのバランス
 (2)スンニー派とシーア派との勢カバランス
 (3)反イスラエル色の濃淡
 (4)対米姿勢
 (5)イランとアラブとのバランス
 (6)パレスチナ・イスラエル和平への影響

  主要なものは以上であるが、何れにせよ、イスラエルにとっては極めてやりにくい地域情勢になることは確実。米及び西側諸国にとっては、議会及び新しい政権において存在感を増すイスラム主義政党とどういう関係を構築していくかいくか(これまでのような無視の姿勢は取れない、取れば政策が進まない)が最大の課題となろう。今後の中東政策は政治的プレーヤーの増加によりこれまで以上に複雑なものとなり、実効ある政策遂行のためには極めてニュアンスに富んだ政策とその実効が要求されよう。

3. イラクの現状と将来:民主主義は根付くのか?
  上記のような変化しつつある中東にあって、イラクは一応民主化の路線を少しずつではあるが前に進みつつある。イラク戦争後の政治の主導権を握ったシーア派のみならず少数派たるスンニー派、ケルトも一応現在の政治体制にコミットし閣僚を参加させ、政権運営に参加している。一時は政治路線をボイコットしていたシーア派の反米強硬派のサドル派も昨年末に発足した第2次マリ牛政権には多数の閣僚を出して参加している。問題は大連立による政権運営が必ずしも効率的に運営されず、経済・社会開発の遅れにより国民のフラストレーションが溜まりつつあることである。但し、大多数の国民は現在の政治路線を基本的に支持し、漸く民主主義が根付き、中東においてはある意味で最も民主化が進んでいる国と言えよう。

  但し、新しい国造りのための課題は山積している。大きな問題として政府組織の非効率と腐敗がある。中東諸国或いは途上国においての共通の問題であるが、これは一朝一タに克服することは不可能であろう。しかし、希望は民主体制の中で国民或いは自由なメディアの監視が強まっており、問題の深刻さは認識されつつあり、徐々にではあるが改善への動きは進みつつある。イラク戦争後はシーア派の政治グループ主体の連立政権であるが、イラクのシーア派の政治家の多数は宗教的には比較的穏健な人々であり、原理主義、イスラム主義の色彩は薄い統治体制となっている。また、イラク国民は比較的教育水準が高く優秀な国民であり、また、石油を始めとする資源にも恵まれていることから、今後の国家の運営次第では、経済的に豊かな、穏健なそこそこの民主国家として再生する可能性は十分あるように思われる。

  但し、イラク・米間の駐留延長に関する交渉がうまく行かず、米軍は予定通り本年末までに全面撤退することにより、治安、国防について若干の懸念が残る。国内治安については既にイラク軍、警察が全面的に担っており、米軍の完全撤退が直ちに国内治安の不安定化を引き起こすことはないであろうが、イラクの国境警備、防空体制等は未だ脆弱であり、国外からのテロリスト等の不安定分子の流入が不安要因である。イラク治安部隊の能力向上が必要である。

4. 「アラブの春」とイラク情勢
  最後に、今回の中東民主化の動きとイラク情勢について若干触れたい。イラクは多国籍軍の侵攻により上からの体制変換と民主化が行われ、その過程で宗派間の血で血を洗う激しい内部闘争が起こった。現在進行中の中東における民主化の過程で、中東諸国がイラ
クのような状況に陥らないかどうかはその国の状況や外部勢力の関与等様々な要因にも依るが、中東の国は何れも程度の差はあれ、複数の宗派、民族、部族など複雑な社会構造を抱えていること、容易に武器の入手が可能であり、一種の「暴力の文化」、「力の文化」が
存在することから、体制の変換が平和裏に円滑に行われることは極めて困難であるが、この点て今回チュニジア、エジプトにおいて選挙が円滑に行われ、その結果が尊重されて新政権が樹立されれば、平和的な体制変換の例となり、中東の政治に新しい風を吹き込むこととなり、注目される。

  また、このような状況下にあって、強権政治ではなく、合意形成や政策の実施に時間や一定のルールの下での行動が要求される民主政治を根付かせていくのは時間を要し、大多数の国民の強い支持が無ければ実現が難しいことも事実である。イラクにおいては米軍(多国籍軍)という圧倒的な抑制的軍事力があったにも拘わらず一時は内戦に近い状況に陥ったが、そのような力の存在しない国において自主的な体制変革が如何に進むのかは予断を許さないであろう。

  イラクにおいては、4、5年に亘る混乱と暴力の期間を経たが、ここに来て漸く民主政治がそれなりに機能し始めた訳であり、他の諸国においても程度の差はあれ同様な混乱を体験することは確実ではあるが、そのような時期を乗り切り、国民が新しい体制への基本的な支持を維持すれば民主政治が定着していく可能性は、希望は十分にあると思われる。わが国や米国等、中東地域の安定に大きな関心を有する国としては、民主化のプロセスには時間がかかり、必ずしも西欧的な民主政治がそのまま実現することはなくても各国の方式に適合した形での民主政治の定着は可能であるとの認識の下に忍耐を持ってこれら諸国の努力を支援していくことが重要である。

以上

(2011年11月7日寄稿)