【資料】米国各地にある幕末・明治初期日本人の墓について
霞関会会員 竹内春久
はじめに
本稿は、2020年8月に本ホームページに掲載された「【資料】欧州各地にある幕末・明治初期日本人の墓について」に続いて、米国各地にある幕末から明治20年前後までの日本人の墓を概観しようとするものである。
この種調査では現地に足を運ぶのが定石であるが、コロナ禍の影響もあり実現は難しい。ここでは先行研究、ネット情報に依拠して記述を進める。
黒船来航から幕末の激動期を経て明治初期に至る時代、幕府、明治新政府の使節、公私の留学生、曲芸師、そして移民など、数多くの人々が万里の波濤を超えて新大陸を目指した。これらの人々の中には帰国して明治国家の建設に貢献した者、新天地で地歩を固めた者がいる一方で、道半ばで異国の土となった者、米国滞在中に病を得てやむなく帰国した後ほどなくして死亡した者も枚挙にいとまがない。過酷な長旅、西洋文明の重圧、不慣れな生活習慣、現在とは比較にならない医療・衛生水準―当時の死の病は肺病であったー、劣悪な労働環境など、当時の海外渡航は危険に満ちたものであった。
本稿では、まず、黒船来航以前に海上で遭難し救助された漂流民のうち、その墓に関する情報があるものについて触れ、次いで、米国各地にある幕末・明治初期の墓について、米国西部、ハワイ(含むグアム)、米国東部の順で記述する。
以下では墓の所在地を示すことを主眼とし、各人に関する記述は最小限にとどめ、詳細は文末の引用文献に委ねることとした。また、各人の死亡時の年齢については資料により異同があり、確定できないことがままある。ここでは各人の概ねの年齢を示す趣旨で記述する。
本稿作成に当たっては、在サンフランシスコ日本国総領事館、羅府新報社、在ホノルル日本国総領事館、関克久氏(掲載順)から写真の提供、使用許可を得た。記して御礼申し上げる。また、各項目中*印が付してあるものについては、文末の参考文献で*印を付したウェブサイト、ブログに該当する墓の写真が掲載されているので、参照願いたい。
1.前史:漂流民
四方を海に囲まれた日本では古来海難事故が絶えず、数知れない人命が失われたが、中には海流に流され陸地に漂着した者、あるいは洋上で漂流しているところを通りかかった外国船に救助された者がいた。これら漂流民のその後の歩みは様々で、その消息が不明であることも多いが、紆余曲折を経て鎖国下の日本に生還した者もいた。
ここでは黒船来航以前に海上で遭難した漂流民のうち、現在の米国(ハワイ)にその墓が所在するとの情報があるものについて、宮永孝氏の研究(文末参考文献参照)に依拠して記述する。
【平四郎】
1838(天保9)年、越中の長者丸は金華山沖で遭難し、太平洋上を漂流、米国の捕鯨船に救助され、ハワイに上陸した。
乗組員のうち、沖船頭の平四郎は1839(天保10)年、オアフ島で病死した。平四郎は、平四郎らの世話をしていたハイラム・ビンガム師の3人の子供たちの墓の傍らに葬られた。墓所は明らかになっていない。
1843(天保14)年、生き残った乗員は帰国した。遭難当時10名であった乗員は4名になっていた。
【重助】*
1841(天保12)年、土佐の人、筆之丞、重助、五右衛門、寅右衛門、万次郎(ジョン万次郎)は漁に出て遭難し伊豆諸島の鳥島に漂着、約4か月後米船に救助されホノルルに上陸した。これら5名の内、重助は1846(弘化3)年に病没し、オアフ島カネオヘの「パレカ教会」墓地に埋葬された。この墓地は現存しない。
現在、カネオヘには重助の墓とされる墓石がある。後年に作られたものと思われるが、設置の経緯に関する資料は見当たらなかった。なお、墓石では没年が1841年とされている。
万次郎、筆之丞、五右衛門は、1850(嘉永3)年、ハワイを出発し琉球、鹿児島、長崎を経て、1852(嘉永5)年、土佐に帰着した。寅右衛門はハワイの女性と結婚し帰国しなかったという。
【万蔵】
1851(嘉永3)年、摂津の栄力丸は紀州熊野浦の沖で遭難し、太平洋上を漂流していたところをアメリカの商船に救助され、サンフランシスコに上陸した。遭難時の乗員は、船頭万蔵、彦太郎(浜田彦蔵、ジョゼフ・ヒコ)など17名、ハワイ、香港を経て日本に生還した者は11名であった。
1852(嘉永5)年、万蔵はサンフランシスコからハワイに向かうセントメアリー号の船内で死亡し、マウイ島コロ郊外に埋葬された。63歳。墓所は明らかになっていない。
2.米国西部
【コルマ日本人共同墓地:咸臨丸乗組員】
1860(万延元)年、日米修交通商条約の批准書を交換するため幕府遣米使節団が派遣された。その際、正使一行が乗艦した米国軍艦の随伴艦として幕府の軍艦咸臨丸が派遣された。
同艦の乗組員であった岡田源之助、平田富蔵、峰吉は、サンフランシスコに到着した後、同地で病没し、サンフランシスコ市ローレル・ヒル墓地に埋葬された。
岡田源之助 塩飽広島青木浦出身 水主 25歳
平田富蔵 塩飽佐柳島出身 水主 27歳
峰吉 長崎籠町出身 蒸気方(火焚) 37歳
3名の墓はその後顧みられることがなかったが、1887(明治20)年に富藏、峯吉の墓が、1898(明治31)年に源之助の墓が発見され、再整備された。
幕末から明治初期にかけてサンフランシスコで死亡した日本人の多くは、ローレル・ヒル墓地またはマソニック墓地に埋葬されたが、1901(明治34)年、サンフランシスコ郊外のコルマに日本人共同墓地が設けられ、これらの墓地にあった日本人の墓が移設された。これに伴い3名の墓もコルマ日本人共同墓地に移され、現在に至る。
【万屋常次郎】
1870(明治3)年、万屋常次郎はサンフランシスコで病死し、ローレル・ヒル墓地に葬られた。23歳。常次郎は江戸南新堀の回漕問屋万屋庄兵衛の次男で、1869(明治2)年、渡米しサンフランシスコで勉学していた。
【ワカマツコロニー:おけい】
1869(明治2)年、会津から渡米した移民団はカリフォルニア州エルドラド郡コロマのゴールドヒルにワカマツコロニーを築いた。その事業は約2年後に失敗に終わり、団員は離散した。
1871(明治4)年、移民団の一員であった会津若松出身のおけいはゴールドヒルで病死、同地に葬られた。19歳。おけいの墓は移民団の一員桜井松之助の尽力で建てられた。
移民団の人々のうち桜井松之助(1834-1901)、高須清次郎、田中久蔵はコロマの共同墓地に埋葬されたという。この内、桜井については2017年に至りコロマにあるパイオニア墓地で墓所が特定され、墓石が設置された。また、同じく移民団の一員であった増水国之助(1849-1915)の墓はカリフォルニア州コルサにある。
【練習艦筑波】
日本海軍は、1875(明治8)年、遠洋航海を開始した。
1875(明治8)年から翌年にかけ、サンフランシスコ方面に遠洋航海した練習艦筑波では、以下の乗組員が死亡し、サンフランシスコのマソニック墓地に葬られた。また、この航海では、サンフランシスコからの帰途、ハワイに寄港した際にも乗組員1名が死亡した。(*ハワイの項参照。)
稲垣釣次郎 1875(明治8)年 一等若水兵 新潟
伴壽三郎 1875(明治8)年 一等歩兵 石川
松島文蔵 1876(明治9)年 一等若水兵 山口
鈴木亀吉 1876(明治9)年 木工次長 東京
1880(明治13)年、筑波は再びサンフランシスコに寄港した。この時、二等水兵的場由松が死亡しマソニック墓地に葬られた。
これらの墓は後にコルマの日本人共同墓地に移葬された。
【佐藤元狩】
1876(明治9)年、京都府大属佐藤元狩は、同年に開催されたフィラデルフィア万国博覧会に赴く途中、サンフランシスコで病死し、マソニック墓地に葬られた。38歳。後にコルマの日本人共同墓地に移葬された。
佐藤は肥前長崎出身、長崎の英語伝習所で学び通詞となる。明治維新後は新政府に出仕、1873(明治6)年京都府に転じ勧業、学務を所掌した。フィラデルフィア万博へは審査官として渡航した。
【松平忠厚】
1888(明治21)年、松平忠厚(1851-1888)はコロラド州デンバーで死去した。松平の墓は、デンバー市リバーサイド墓地にある。現在の墓碑は1988(昭和63)年に建立された。
松平は信濃上田藩藩主松平忠固の次男。1872(明治5)年に渡米、ラトガーズ大学で学んだ後、ニューヨークのブルックリン・ブリッジの建設にかかわるなど米国で土木技師として活躍した。1886(明治19)年、コロラドに移住、松平はコロラドに移住した初の日本人であった。
なお、リバーサイド墓地には松平の墓のほかに多くの日系人の墓がある。
3.ハワイ
ホノルル市マキキ墓地はハワイ王国時代の1877年に開設された墓地で、当初はハワイ人のための墓地とされたが後に他のエスニックグループにも開放され、日系人が数多く眠る。同墓地内には、一般の墓地のほか、明治元年渡航者之碑、日本海軍墓地、ハワイ日系人移民慰霊碑がある。
【明治元年渡航者之碑】
1868(慶応4・明治元)年、153名の移民集団がハワイに渡航した。のちに「元年者」と呼ばれるようになったこれら渡航者は、その後さらに米国本土に移った者、ハワイに残った者、帰国した者に分かれた。1927(昭和2)年、これらの渡航者を記念して明治元年渡航者之碑が建立された。
【日本海軍墓地】
日本海軍墓地は海外における日本海軍最初の墓地で、海軍関係者16名が眠る。
(筑波乗組)
荒川又十郎 若水夫二等兵 1876(明治9)年没
(龍驤乗組)
古川森吉 三等水兵
浦山弥五郎 一等水兵
井出五郎 二等水兵喇叭兼務
澤勝次 水夫長
藤本喜市 二等木工長属
山田嘉六 二等水兵
岩崎三郎 四等水兵
橋本清太郎 三等水兵
本山喜之助 一等水兵
平山松喜 三等水兵
和田吉次郎 二等水兵
山根和蔵 二等水兵 いずれも1883(明治16)年没
(筑波乗組)
村生準造 二等水兵 1890(明治23)年没
(高千穂乗組)
原亀太郎 少尉候補生 1894(明治27)年没
(比叡乗組)
池川惣太郎 一等看護 1899(明治32)年没
日本海軍は、1875(明治8)年、遠洋航海を開始した。練習艦筑波は、米国西海岸、ハワイに寄港したが、サンフランシスコ寄港中に4名、ハワイ寄港中に1名が死亡した。(*米国西部の項参照)
筑波では1890(明治23)年の寄港の際にも1名が死亡した。
1883(明治16)年、練習艦龍驤が南米に遠洋航海した際、脚気により多くの乗組員が死亡した。チリ訪問中に四等水兵猪股孝之進が死亡、バルパライソ郊外の墓地に葬られた。龍驤艦はその後ペルーを経てハワイに向かったが、航海中に水葬者13名、ハワイに12名を葬ることとなった。
本稿の対象とする時期からは外れるが、日本海軍墓地には、真珠湾攻撃30周年に当たる1971(昭和46)年に建立された鎮魂碑がある。
【ハワイ日系人移民慰霊碑】
1885(明治18)年、ハワイ王国との間で日本・ハワイ渡航条約が結ばれた。これを受け、日本からの正式な移民が開始され、1894(明治27)年までの間に約3万人がハワイに移民した。これらの移民は官約移民と呼ばれる。1986(昭和61)年、オアフ島官約移民100周年委員会が建立したハワイ日系人移民慰霊碑には289名の官約移民が眠る。
【グアム】
1868(慶応4・明治元)年、約40名の移民集団が当時スペイン領であったグアムに集団移住した。しかしながら現地での労働環境は劣悪で、1872(明治5)年の引き揚げまでの間に10名が落命した。これらの人々の氏名、墓所は不明である。
4.米国東部
【マサチューセッツ州モンソン:木藤市助、国友瀧之助】*
マサチューセッツ州モンソンのヒルサイド墓地には、以下の2名の墓がある。モンソンには当時多くの日本人留学生が学んだ私立アカデミー、モンソン・アカデミーがあった。
1867(慶応3)年、薩摩藩の木藤市助は同地で死亡した。木藤は、1866(慶応2)年、米国に派遣された薩摩藩第二次米国留学生6名の一人であった。
1873(明治6)年、海軍兵学生徒国友瀧之助は傷寒症により死亡した。国友は1872(明治5)年、海軍省から派遣され米国に留学していた。
【早竹虎吉】
1868(慶応4)年、曲芸師早竹虎吉は、ニューヨークで病没し、グリーンウッド墓地に仮埋葬された。最終的な墓所は不明。早竹は京都出身で、幕末の大阪、江戸で人気を博した。早竹の芸は歌川国芳、二代歌川国貞ら当時の浮世絵師に取り上げられている。
1867(慶応)3年、早竹は一座を率い渡米、サンフランシスコ、ニューヨークで興行したが、ニューヨーク滞在中に体調を崩し、死去した。
早竹の野辺送りの模様は、1868年2月29日付Frank Leslie’s Illustrated Newspaperにイラスト入りで報じられている。(三原文『日本人登場 西洋劇場で演じられた江戸の見世物』(松柏社、2008年)には同紙に掲載されたイラストおよび虎吉が渡米後に撮った写真が収録されている。)
この他、一座の子方トミは、サンフランシスコからニューヨークに向かう船中で死亡、また、早竹が死亡した後、帰国の途に就いた一座の一人がサンフランシスコで死亡したと伝えられる。いずれも墓所は不明。
【ニュージャージー州ニューブランズウィック】
ニュージャージー州ニューブランズウィック市ウィローグローブ墓地には以下の8名の墓がある。以下、没年、死亡時の年齢、出身はそれぞれの墓に刻まれたものによる。ただし、入江の年齢は日本側の資料によれば23歳とされている。
日下部太郎 1870(明治3)年、26歳、越前、福井藩留学生、ラトガーズ大学卒
長谷川雉郎 1871(明治4)年、23歳、姫路、大学南校派遣留学生
松方蘇介 1872(明治5)年、22歳、薩摩、岩倉遣外使節団に随行し渡米、留学
小幡甚三郎 1873(明治6)年、29歳、小倉縣、旧中津藩主奥平昌邁に随行渡米
入江音次郎 1873(明治6)年、19歳、長州、勧農寮派遣留学生
川崎新次郎 1885(明治18)年、21歳、鹿児島、Eastman Business College留学
阪谷達三 1886(明治19)年、26歳、備中、起立工商会社ニューヨーク支店勤務
上記7名のほか、この墓域には、1877(明治10)年、生後まもなく死亡した高木三郎ニューヨーク領事・須磨夫人の長女の墓がある。
【広沢健三】*
1873(明治6)年、広沢健三はニューヨークで病死した。19歳。墓所はニューヨーク市グリーンウッド墓地にある。
広沢は広沢直臣の子。1872(明治5)年、欧州経由で渡米し、ブルックリン効果学校(現在のニューヨーク大学タンドン校)に学んだ。
【名和道一】
1873(明治6)年、名和道一はボストンで病死した。36歳。墓所は不明である。
名和は周防国出身。禁門の変に参加するなどしたのち、明治新政府に出仕した。新潟県参事を経て1871(明治4)年、少弁務使森有礼に同行して渡米、民法学を学んだ。
【江木高遠】
1880(明治13)年、在米公使館書記官江木高遠はワシントンで死亡した。31歳。墓所はジョージタウンのオーク・ヒル墓地にある。
江木は福山藩出身。開成学校、慶応義塾を経て、1870(明治3)年、華頂宮博経親王の随員の一人として渡米、1874(明治7)年に再渡米し1876(明治9)年コロンビア法律学校(Columbia Law School)を卒業した。1879(明治12)年、外務省に出仕し、翌年ワシントンに赴任した。
【馬場辰猪】*
1888(明治21)年、馬場辰猪はフィラデルフィアで肺病により死亡し、ウッドランド墓地に埋葬された。38歳。
馬場は土佐の人、1869(明治2)年英国に留学し、帰国後は急進的な自由民権思想を主張し、当局に拘留されるなどしたのち、1886(明治19)年、渡米した。当時米国に留学中であった岩崎久彌らが馬場の最後を見守った。
【おわりに】
日米交流の歴史は深く、広い。本稿で触れたもの以外にも全米各地に幕末・明治初期の日本人の墓があるのではないかと思われる。
さらに、しかるべき墓すら建てられることなく異国の土となった数知れない無名の人々がいる。今日の日米関係は、これらのすべての人々が築いた礎の上に成り立っていることに改めて想いを致したい。
冒頭でも述べたとおり、本稿には調査の行き届かない点が多々ある。大方のご叱正ご教示を得られれば幸いである。そのうえで、今後の調査研究に期待したい。
(参考文献)
・永井松三編『日米文化交渉史』第5巻移住、原書房、1981年
・石附実『近代日本の海外留学史』、中公文庫、1992年
・宮岡謙二『異国遍路旅芸人始末書』、中公文庫、1978年
・大植四郎編『明治過去帳-物故人名辞典』、東京美術、1971年
・手塚晃・石島利男編『幕末明治海外渡航者人物情報事典』(CD-ROM)、雄松堂、2003年
・冨田仁編『新訂増補 海を越えた日本人名事典』、内外アソシエーツ、2005年
前史:漂流民
・宮永孝「北米・ハワイ漂流奇談(その1)、(その2完)」、『社会志林』60巻1,2号、2013年
(平四郎)
・宮永前掲論文pp156-157
(重助)
・宮永前掲論文pp141-142
・永井前掲書p8
・ジョン万次郎資料館ウェブサイト、 https://www.johnmung.info/
*リアルETの英語学習「ジョン万次郎と仲間たち(3)重助編」
https://studyenglish.at.webry.info/201803/article_18.html
(万蔵)
・宮永前掲論文pp99-100
米国西部
・宇山智哉「サンフランシスコと近郊にある日本ゆかりの地」、霞関会ホームページ
https://www.kasumigasekikai.or.jp/2019-09-25-1/
・「ベイエリアの日系人が辿って来た道:日系人強制収容、コルマ日本人共同墓地の歴史」、J weekly、04/17/2020
https://jweeklyusa.com/
(咸臨丸)
・石井研堂『明治事物起原』第三篇国際部、ちくま学術文庫、1997年
・文倉平次郎『幕末軍艦咸臨丸』(上)(下)、中公文庫、1993年
・宮永孝『万延元年の遣米使節団』、講談社学術文庫、2005年、pp311-315
・咸臨丸子孫の会ウェブサイト、「咸臨丸関係資料」の項
・佐伯有清「広開土王碑研究者の伝記拾遺(上)—―横井忠直と佐藤元狩の墓碑――」、『成城文藝』192号、2005年
・加藤三明「咸臨丸(上)」、立ち読み慶応義塾史跡めぐり第44回、『三田評論』、2010年3月号
(万屋常次郎)
・永井前掲書p25
・宮岡前掲書p225
(ワカマツコロニー)
・永井前掲書pp24-25
・千野境子「米国への女性移民第一号おけい」、『日本人の足跡 世紀を超えた「絆」求めて1』(産経新聞ニュースサービス、2001年)所収
・会津若松市ホームページ、会津人物伝、「アメリカ移民日本女性第一号 おけい」の項
・吉田純子「アメリカ本土初の日系移民、入植から150周年:夢と希望胸にカリフォルニアに来た先駆者」、The RAFU SHIMPO、posted on Jan. 1, 2019 https://www.rafu.com/
(練習艦筑波)
・佐伯前掲論文
・宮岡前掲書p192
(佐藤元狩)
・佐伯前掲論文
・宮岡前掲書p227
(松平忠厚)
・関克久「ブルックリン・ブリッジ建設の陰に日本のプリンス?名門ラトガーズに学んだ幕末の獅子たち」、https://blog.looktour.net/matsudaira/
・「コロラド事情2020」、在デンバー日本国総領事館ホームページ
ハワイ
(マキキ墓地)
・“State’s old cemeteries allowed to languish”, August 20,2002, the.honoluluadvertiser.com
・在ホノルル日本国総領事館公式YouTubeチャンネル、【ハワイ案内企画①】マキキ墓地Part1,2
・「ハワイ日本人移住150周年 最初にハワイに移住した「元年者」たちの軌跡」、海外移住資料館だよりNo.50、JICA横浜 海外移住資料館、2018年10月
・「マキキ海軍墓地」、ハワイ明治会資料
(龍驤艦)
・『脚気病調査書』、海軍省、1883年
・宮岡前掲書p195
(グアム)
・宮岡前掲書p214
米国東部
(マサチューセッツ州モンソン)
*Staasi Heropoulos, “Hillside Cemetery in Monson”
https://www.masslive.com/living/2012/11/hillside_cemetery_offers_glimpse_of_monson_history.html
(木藤市助)
・犬塚孝明「仁礼景範航米日記」その二、『研究年報』第14号、鹿児島県立短期大学地域研究所、pp15-16
(国友滝之助)
・「米国留学生国友滝之助死去の件」(明治6年11月19日)、アジア歴史資料センター Ref.C09112027400
(早竹虎吉)
・三原文「早竹虎吉の最期―描かれた野辺送りと虎吉の肖像画について」、『藝能史研究』175号、2006年10月
・三原文『日本人登場 西洋劇場で演じられた江戸の見世物』松柏社、2008年
(ニュージャージー州ニューブランズウィック)
・Sue Kaufmann, “The Japanese at Willow Grove Cemetery: revealing New Jersey’s role in modernizing a nation”
http://www.hiddennj.com/2013/10/the-japanese-at-willow-grove-cemetery.html
・塩崎智「ブルックリンに死す」、『清淵』第705号、2007年
・「海を渡った日本人、歴史を開封」、週刊NY生活ウェブ版、2020年12月17日
https://www.nyseikatsu.com/ny-news/12/2020/31503/
・関前掲記事
(日下部太郎)
・”Taro Kusakabe Funeral”, RUcore: Rutgers University Community Repository
https://rucore.libraries.rutgers.edu/rutgers-lib/21026/
・福井市公式ホームページ、「ニューブランズウィック市の紹介」
(長谷川雉郎)
・龜山節宇「長谷川君父子瘞髪碑」、日本漢文の世界 https://kambun.jp/、名家短文集の項所収
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
(松方蘇介)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
・「明治150年インターネット特別展 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~」、アジア歴史資料センター
https://www.jacar.go.jp/iwakura/index.html
(小幡甚三郎)
・山内慶太「アメリカに眠る義塾の「亀鑑」-小幡甚三郎と馬場辰猪の墓所山」、立ち読み慶応義塾史跡めぐり第27回、『三田評論』、2008年8-9月号
https://www.keio-up.co.jp/mita/r-shiseki/s0808-9_2.html#story
・塩崎前掲記事
(入江音次郎)
・塩崎智「1872年3月26日横浜発サンフランシスコ行きアメリカ号日本人渡航者の調査 -先行研究発表後四半世紀の関連研究成果のまとめ―」、『拓殖大学論集. 人文・自然・人間科学研究』第44号、2020年10月
なお、入江と同じ船で渡米した三井家派遣留学生三井貞次郎は1873(明治6)年、ニュージャージー州ブランズウィックで死亡、遺体は遺族の希望により日本に移送された。
(川崎新次郎)
・前掲『明治過去帳-物故人名辞典』
・手塚前掲CD-ROM
(阪谷達三)
・前掲『明治過去帳-物故人名辞典』
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
(高木三郎・須磨長女)
・鶴岡市公式ホームページ、「国際姉妹都市・ニューブランズウィック市(アメリカ・ニュージャジー州)」
(広沢健三)
*重松優「広沢真臣の子, 健三のアメリカ留学について」、『学苑・英語コミュニケーション紀要』第930号、2018年
(名和道一)
・前掲『新訂増補 海を越えた日本人名事典』
(江木高遠)
・オーク・ヒル墓地ウェブサイト、Burial Records「T」の項
https://www.oakhillcemeterydc.org/app/themes/oakhill/assets/records/187e.pdf
・『明治奇聞 第六編』宮武外骨編、半狂堂、1926年、pp37-38
・福山誠之館同窓会ウェブサイト、誠之館人物誌の項
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/egi-takatoo/egi-takatoo.htm
(馬場辰猪)
・萩原延寿「馬場辰猪の墓」、『自由の精神』(みすず書房、2003年)所収
・永井前掲書p54
・山内前掲記事
*結城大祐「【福沢諭吉をめぐる人々】馬場辰猪」、三田評論ONLINE
https://www.mita-hyoron.keio.ac.jp/around-yukichi-fukuzawa/201610-1_2.html