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サンフランシスコと近郊にある日本ゆかりの地【米国だより】


在サンフランシスコ総領事 宇山 智哉

 私がサンフランシスコに赴任して、1年半になる。毎週のように管轄地域(特に北カリフォルニア)で姉妹都市交流、ビジネス交流、桜祭り、盆踊り、和太鼓、生け花、空手大会など様々なイベントが行なわれる。町にはトヨタやホンダの車が溢れ、驚くほど高価な寿司バーが満席になり、人気ラーメン店は常に長蛇の列だ。スタジオジブリのコンサートが開かれると会場は連日ファンで埋め尽くされる。日本の文化は、アメリカ社会に受け入れられ、その多様性の一端を堂々と担っている。

 カリフォルニアがこのような形で日本との関係を深めている背景には長い歴史がある。咸臨丸が勝海舟や福沢諭吉を乗せてサンフランシスコに到着して来年で160周年、我が総領事館も明年は開設150周年の節目を迎える。その間、多くの先人たちが人種差別や戦時中の収容所生活など苦難を経験し、乗り越えて来た。その歴史を知れば知るほど、日系人の皆さんへの敬意の気持ちが強くなる。

 サンフランシスコへの旅行や出張といえば、ゴールデン・ゲート・ブリッジやフィッシャマンズ・ワーフといった観光地や、ビジネスマンであれば近郊のシリコンバレーを思い浮かべられる方が多いと思う。ワイン好きの方は、ナパやソノマに行かれる方もおられるだろう。その一方で、当地にある我々日本人にゆかりのあるところは、日本ではあまり広く知られていない。

 本稿では、これまでの駐在生活で知りえた日本人に縁の深い場所をいくつかご紹介させていただきたいと思う。読者の中には、サンフランシスコ勤務をされた方など、私よりももっと深くご存知の方もあるかと思うが、私の誤解や不勉強の部分は率直にご指摘いただければ幸甚である。

1.コルマ日本人共同墓地 (The Japanese Cemetery in Colma)

場所:1300 Hillside Blvd, Colma, CA 94014
電話:+1-650-755-3747

 サンフランシスコの南にあるコルマという町に、日本人共同墓地がある。太平洋を渡ってきた日本人移民の慰霊のため、明治天皇からの御下賜金によって1902年に設立された。ここには、1860年に江戸幕府が遣米使節の随行艦として派遣した咸臨丸の乗組員3名の墓がある。咸臨丸といえば、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎などが有名であるが、連日の荒天で3名が病死したことはあまり知られていない。これ以外にも、当地で活躍された多くの日本人、日系人の方々がここに眠っている。

 昨年2月に総領事として赴任した際には、家内とともに空港から直行してこの墓地を訪問させていただいた。また、年1回、企業駐在の方や日系人グループの方がボランティアで墓掃除をし、メモリアル・デイに備えるのが恒例の行事になっている。要人の方々も時折訪問されており、例えば昨年は河野太郎外務大臣(当時)が訪問されている。

河野外務大臣(当時)のコルマ墓地訪問
(提供:外務省)

2.若松コロニー(Wakamatsu Colony)

場所:941 Cold Springs Road, Placerville, CA 95667
連絡先:American River Conservancy (ARC)
Email: wakamtasu@ARConservancy.org
Phone: +1-530-621-1224

 今年の6月8日、州都サクラメントからさらに東に車で2時間ほど移動したプラサビルにある会場は、多くの人々の熱気に包まれていた。日本人が最初にアメリカに移住した日から150周年を祝うイベントが前後4日間の日程で開かれていた。主催者によれば、集まった人は4,000人に達したという。

 戊辰戦争で敗れた会津若松藩の藩主松平容保が、軍事顧問を務めていたプロイセン出身のジョン・ヘンリー・シュネル(日本名:平松武兵衛)の提案で、当時ゴールドラッシュに沸くアメリカ・カリフォルニアで、お茶と絹の生産を行う農園を始めることを決意。こうして会津藩のサムライからなるコロニストたちこそが米本土に渡った最初の日本人移住者となったのである。5万本の桑の木、カイコ、6万のお茶の種を持参したという。5,000ドルで土地を購入し、その地を「若松コロニー」と名付け、1869年6月8日に到着する。

 しかしながら、農場経営はすぐに行き詰まる。気候があまりにも違いすぎ、干ばつに苦しむ。ゴールドラッシュの時代で、農業に使うはずだった水は汚染されていた。お金にも苦労したようだ。コロニーが危機を迎える中、リーダーのシュネルは「しばらく日本に行ってくる」と言って妻子とともに農地を離れ、消息不明に。コロニーは2年足らずで崩壊した。

16歳でシュネル家のお手伝いとしてアメリカに渡った「おけいさん」は、コロニー崩壊後、現地のアメリカ人家庭(ビアキャンプ家)に引き取られたが、19歳で病死。同じくアメリカに残った櫻井松之助の尽力で作られた「おけいさんのお墓」が今も残っている。

 長らくビアキャンプ家が所有していた若松コロニーの土地は、2010年に環境NGOであるARC(American River Conservancy)が購入し、この歴史的な価値を高く評価し、保存活動を行なっている。去る6月の150周年イベントもARCが準備し、実施した。

 このイベントには、会津松平家・徳川家の次期当主、コロニストで日本に戻った方の子孫、米国に残り現地のアメリカ人と結婚された方の子孫らが参集。この歴史的再会に集まった人々からは熱狂的な拍手が送られた。

会津松平家他若松コロニー関係者の子孫の方々

 ともすれば疎遠になる米国在住の日本人と日系人であるが、若松コロニーは歴史をたどって行き着く共通の出発点であり、その意義は大きい。

3.チャイナ・キャビン(China Cabin

場所:52 Beach Rd, Belvedere Tiburon, CA 94920
電話: +1-415-435-1853

 サンフランシスコの北にティブロンという美しいこじんまりとした港町がある。ここに19世紀にサンフランシスコ、横浜、香港を結んで運行していた米国のパシフィック・メイル・スティームシップ社の「チャイナ号」という船のキャビンの一部が保存されている。ファーストクラスの社交場として使用されていたところで、近年補修がなされ、至る所に金箔を施したきらびやかな部屋が甦っている。

 若松コロニーのために渡米したシュネル率いる会津若松藩のサムライ一行はこの船のまさにファーストクラスで横浜からサンフランシスコに渡航し、船を乗り換えて、サクラメント方面に向かった。本年6月に若松コロニー150周年のためアメリカに来られた会津訪問団の方々と、チャイナ・キャビンを訪問した時には、当時のチャイナ号の写真や船で出された食事のメニューなどを見ることができた。当時、まだ冷凍施設がない時代であり、船内には家畜が生きたまま飼われており、横浜からの長旅の中、客はこうした肉料理などを振る舞われたようだ。

 部屋から外に出ると、サンフランシスコ湾が眼下に広がり、晴れていれば、遠くにサンフランシスコの高層ビル街を一望できる。チャイナ・キャビンは、パーティや食事会などのイベントのために借りることもできるようである。

4.エンジェル・アイランド(Angel Island

電話: +1-415-435-1915

 仕事で親しくなった中国系アメリカ人の友人のご招待で、エンジェル・アイランドを訪問した。20世紀のはじめ(1910年から)、サンフランシスコからアメリカに入国しようとする外国人はまずここに連れてこられ、入国手続を行った。日系人を含む多くのアジア系アメリカ人の祖先が通って来た関所のようなところである。

 エンジェル・アイランドはサンフランシスコ湾に浮かぶ島である。チャイナ・キャビンがあるティブロンからフェリーが出ていて、10分ほどでエンジェル・アイランドに到着する。観光地として有名な元刑務所のアルカトラズ島の隣にあるが、それよりもはるかに大きな島である。

 当時の入国審査は出身地による違いが大きかったようで、ヨーロッパから来た人々に比べて、アジアからの入国者に対する審査は厳しく、待たされる期間も数カ月から1年以上になる場合もあったようだ。とりわけ中国人は中国排除法(1882年)の影響で対応が厳しかったし、すでに反日的なムードが強まっていた当時、日本人の入国も厳しく審査された。当時審査待ちの人々を収容していた施設が残されており、彼らの落書きも壁に残されている。中には美しい文字で書かれた格調高い漢詩もあった。これらは歴史的な価値があるものとして大事に保存されている。

 多くの中国人は、すでに商人などとしてアメリカに居住している人の息子を装って入国しようとした。これらをペーパー・サン(paper son)と呼んでいる。「書類上の息子」という意味である。私を招待してくれた方の先祖もペーパー・サンだったと教えてくれた。展示の中に、当時の入国審査官が入国しようとする子供に投げかけた質問が残されていた。自分の家の間取りや、階段の場所や入り口などを細かく質問している。本当にその家の息子であれば、答えられるはずだ、ということである。審査を受ける子供も、事前に想定問答を準備してよく勉強していたようで、初めて来るアメリカの「自分の家」の様子を、あたかも住んでいたかのように質問に答えて、審査をすり抜けたようだ。

 日本人の審査で有名なのが、ピクチャー・ブライドである。先に渡って来た男性の日本人移民の奥さんが来訪するのであるが、結婚自体は写真で決めているだけで、ご主人には会ったことがない。そのことを確認するやりとりも残されている。

 エンジェル・アイランドには、こうした審査を待つ人々の収容施設の他、病気になった人を医師がチェックするための病院もあった。病気と判定された人は本国に送還になった例もあったという。病院の建物は、劣化が激しかったが、今寄付や補助金を財源として大規模な補修工事が進められている。

エンジェル・アイランドは、南北戦争や冷戦時代には軍事施設としても使われたようであるが、ここでは割愛する。今ではカリフォルニア州が管理する公園になっており、ハイキングやキャンプなどで多くの観光客が訪れる。

5.サンノゼ日系アメリカ人博物館(Japanese American Museum of San Jose)

場所:535 N. Fifth Street, San Jose, CA 95112
電話: +1-408-294-3138

 ロサンゼルスの全米日系人博物館よりは小ぶりであるが、充実した内容の博物館だ。かつては農業地帯であったサンノゼも、今や100万人を超えるシリコンバレーの中心都市となっており、その規模はサンフランシスコを凌ぐ。その中にあって、ロサンゼルス、サンフランシスコと並んで存続する日本人町の中に、この博物館を見つけることができる。

 中に入ると、日系人の移民の歴史から始まって、サンノゼ日本町にあった豆腐屋さんの道具、日本人医師の仕事場、野球の道具など当時の日系人の生活の様子を窺い知ることができる。また、戦前の日系人農家が所有していた自動車(フォードのT型モデル)、農機具などが置かれており、成功した日系人家族はかなり裕福な生活をしていたようだ。

 1941年12月の真珠湾攻撃により、12万人にも上る米国西海岸在住の日本人・日系人は米国各地に収容される。博物館には主要なものだけで10箇所に及ぶ収容所の場所や、部屋の様子を展示しており、収容所での過酷な生活を垣間見ることができる。

 日系一世の親や兄弟が収容所での生活をおくる中、多くの日系二世の若者が様々な葛藤を経た後、米軍への入隊を志願した。彼らは主として欧州戦線で勇敢な戦いをし、差別に苦しんでいた日系人の地位を押し上げた。また、戦後しばらく公表されていなかったが、日本語に堪能な日系二世を中心に、MIS(Military Intelligence Service)が組織され、通信の解読や沖縄での投降の呼びかけなどで成果をあげた。

 第二次大戦後、こうした日本人・日系人を人種によって差別し、収容したことが誤りであったことを国に認めさせる闘いもあった。これには、収容の違法性を法廷で争ったいわゆる「コレマツ裁判」や、連邦議会で審議され、レーガン大統領によって署名された「市民の自由法(Civil Liberties Act)」の成立、それに続く連邦政府の謝罪と一人2万ドルの補償などが含まれる。博物館では、苦労して今の地位を勝ち取った日系人が大切にしている歴史を知ることができる。

6.MIS歴史学習センター(Military Intelligence Service Historic Learning Center)

場所:640 Mason St., San Francisco, CA 94129
連絡先:National Japanese American Historic Society電話: +1-415-921-5007

 日米関係が極度に悪化していた1941年の11月、米国陸軍は58人の日系米国人をサンフランシスコに密かに集めて日本語の訓練を開始した。日本との戦争が起こった際に、通信傍受等の任務にあたるMIS(Military Intelligence Service)という組織を立ち上げるためである。米国が真珠湾攻撃以前にこのような周到な準備をしていたことに驚かされる。

 この時の訓練場跡が、ゴールデンゲート・ブリッジの近くにあるプレシディオの中に残されている。ここで日本語の授業を行ったほか、訓練生はここで寝泊まりしていた。訓練生は、ここで日本帝国陸海軍が使用する軍隊用語を含め日本語が理解できるよう徹底的に訓練されたのである。

 このセンターには、当時の教室が再現されているほか、当時使われていた辞書なども展示されている。また、日系人収容の歴史や第二次大戦でMISや日系人部隊が果たした役割がわかりやすく解説された展示もある。

 訓練が開始されてまもなく、1941年12月の日米開戦を受けて、西海岸の日本人・日系人は全て収容所に入れられることになり、MISの訓練も場所をミネソタ州に移して続けられた。ここで訓練を受けた日系人は、対日戦争の遂行、投降呼びかけ、捕虜のコミュニケーション、戦後の占領政策の遂行などに大きな役割を果たした。

 昨年8月、この場所を河野外務大臣(当時)が訪問された。その場で、MISや日系人部隊で戦った高齢の退役軍人およびご家族と懇談していただいた。日系人の方々は米国側に立って戦争に加わったが、心の中では「日本のために」という思いが強く、実際彼ら二世たちの勇敢な行動が、戦後アメリカにおける日系人、日本や日本人の地位を高めたことは間違いない。

7.USS ホーネット(USS Hornet)

場所:707 W Hornet Ave., Alameda, CA 94501
電話: +1-510-521-8448

 先日、第二次大戦で日系人からなる442部隊で活躍されたローソン・サカイ氏(96歳)のご招待で、サンフランシスコの近郊のアラメダにある米海軍の退役空母USS ホーネットを視察した。ローソンさんが所属した442部隊はフランスのブリュイエールを開放したほか、「失われた大隊」で有名なテキサス出身の部隊を、多くの犠牲を払って開放した。彼らはアメリカ軍の歴史上最も勇敢な部隊と言われており、アメリカのヒーローである。1946年戦地から帰還した彼らに対し、トルーマン大統領(当時)は、「諸君は敵のみならず、偏見とも戦い勝利した」と述べたことは、あまりにも有名である。

 ローソン氏は、米国からパープル・ハート・メダル、議会勲章、フランスからレジオンドヌール勲章を受章。日本からも昨年旭日双光章を受章した。

 ホーネットは米国海軍所属の空母であるが、第二次大戦で戦艦大和を撃沈するなど、対日戦争に使われた後、戦後、月面着陸を果たしたアポロ11号が地球に帰還した時、北太平洋の着水地点に迎えにいったことでも有名である。訪問したときも、ホーネットの館内には多くの子供達が来ており、ちょうど50周年を迎えるアポロ11号帰還に使われたヘリコプターや、アポロの乗組員が念のため2週間を過ごしたとされる検疫のための巨大なカプセル状の施設を興味深そうに見学していた。

 同じ館内の少し奥まったところに、日系人部隊の活躍を展示するスペースがあり、様々な書籍や当時の欧州戦線や太平洋戦線を描いた模型や地図など貴重な品々が所狭しと展示されていた。

USSホーネット内で、ローソン・サカイ氏(中央)
とともに

あとがき

 昨年、プレシディオのMIS学習センターで開催された日系の退役軍人のためのメモリアルディ・イベントで、VIPとして参列された元442部隊のローソン・サカイ氏は笑顔で短く次のようなスピーチをされた。

 「442部隊をはじめ、多くの日系2世の仲間が第二次大戦を戦った。その仲間も少なくなっている今、アメリカの道路では、トヨタの車が走り、街には多くの寿司バーがある。この光景は、日系二世の勇敢な戦いがなければ、ありえなかったことであり、このことを忘れないでいただきたい。」

 気候もよく、美しいサンフランシスコであるが、ご紹介した史蹟を訪問し、歴史を振り返ると、多くの先人の努力と犠牲の上に今の良好な日米関係があることを深く感じる。機会があれば、是非訪問していただきたい。なお、施設によっては訪問できる時間が週末等に限られているところもあるので、訪問される際にはHP等で開館時間を確認していただくようお願いしたい。