<帰国大使は語る> ウィーンにおけるマルチ外交:その意義、苦心と喜び


前在ウィーン国際機関日本政府代表部大使 引原 毅

ウィーンの国際機関にはどのような機関があり、その特徴はどのようなものですか。

(写真)議場での協議(米国(左)、イスラエル(中央))(日本政府代表部提供)

(1)ウィーンには約10の国際機関及び国際規制レジームが本拠を置いています。主要なものとしては、核不拡散防止と原子力の平和利用を担うIAEA(国際原子力機関)、核実験禁止を担保するCTBTO(包括的核実験禁止条約機関準備委員会)、犯罪司法や麻薬問題を所掌するUNODC(国連薬物犯罪事務所)、産業開発を専門とするUNIDO (国連工業開発機構)、民間宇宙活動を担当するUNOOSA(国連宇宙部)等があげられます。これらの機関はいわゆる技術的・専門的事項を扱っており、専門家間の共通理解に基く建設的な議論が行われる傾向があります。コンセンサスの追求に徹する“Vienna Spirit”は同地の外交官達が好んで口にする言葉ですが、その背景に議論の専門性があります。

(2)専門的議論に政治的応酬が混入してくることは従来からありました。特にイラン、イスラエル、パレスチナといった中東の諸問題を巡る関係国のやり取りは、多くのフォーラムでの「決まり事」です。しかしこれは非難の応酬自体を目的としており、それが一段落すれば本来の専門的な議論や合意を妨げることは殆どありませんでした。

(3)こうした状況はロシアのウクライナ侵攻によって一変し、機関の如何を問わず、ロシア非難とそれに対する反論の応酬が繰り広げられるようになりました。「専門的」たるウィーンの特徴を一応踏まえ、本来のテーマに即した議論とすることが好まれます(ロシアの侵攻がウクライナの「原子力安全」悪化や「人身取引」の活発化に繋がっている、云々)。それでも従来と異なり、こうした論点を巡って双方が自らの主張をあくまで貫き、決議案や報告書案の合意が見送られることが頻発しました。

(4)こうした議論の「政治化」はウクライナ問題を超えて一般化する傾向にあり、イラン等が自ら好まない課題の議論を最後までブロックすることが散発するようになりました。アルメニア・アゼルバイジャンの対立が全体の合意を阻害することもありました。現在進行中の中東情勢も様々な議論に大きな影響を及ぼしています。

(5)それでもなお個人的には、結果を追求する機運(Vienna Spirit)はウィーンで失われてはいないと考えています。私の任期中にも、いくつものフォーラムで困難と思われた様々な合意が成し遂げられてきました。従来以上の手間、スキル、忍耐心が必要ですが、合理的な成果を生み出すことは今でも不可能ではありません。

大使として在任中、特に力を入れて取り組まれたことは何ですか。

(1)ウィーンの国際機関はそれぞれの分野で日本の国益に深く関わっています。そこで日本のプレゼンスを高めることが恒常的な課題であり、事業計画策定、予算獲得、邦人職員の増強等に尽力しました。その中でも、私の在任中には特に二つの大きな課題に多くの時間とエネルギーを割くことになりました。

(2)その一つは、第14回国連犯罪防止刑事司法会議(京都コングレス)です。これはUNODCの活動方針を定めるため5年に一度閣僚レベルで開かれる、刑事司法分野で最も権威ある会議です。UNODCは「法の支配」を正面から扱う唯一の国連組織で、その活動は「法の支配」を外交の主要命題として掲げる我が国にとって極めて重要です。
 もともとこの会議は日本が2020年にホストする予定でしたが、コロナのために開催が延期され、紆余曲折を経て翌2021年3月に開催されました。本件はパンデミック下において国連都市の外で開催される初めての大型国連主催会議として、感染症防止に万全を期しつつ世界各国からの代表者を迎えて会議を運営するという、全く前例のない取組になりました。そのためのロジ・サブロジの詰めは、当初の国連側の硬直的対応もあって困難を極めました(国連本部の要求と日本側の渋い回答の板挟みになったUNODCのベテラン担当局長が、交渉現場で号泣するという場面すらありました)。それでも次第にお互いが抱える制約への理解が進み、ギリギリのタイミングでホスト・カントリー取極の合意にこぎ着けました。こうした努力もあり、会議開催中に一人の感染者も出さずに済んだのは誠に幸いでした。
 また私は、この会議の成果文書たる「京都宣言」の交渉議長を務めました。刑事司法に対するアプローチが全く異なる国々(一方にイラン、エジプト、ロシア、中国、他方に英米仏、さらにその向こうに北欧諸国など)が一同に集まり、様々な課題を議論します。その中には、テロ・過激主義、ジェンダー等、各国の政治体制や文化・伝統に直結する問題も含まれます。特にコロナ下でオンラインでの交渉を余儀なくされてからは、妥協に到達するのにとんでもない時間と労力を要しました。議論が行き詰まっても、別室での関係国間の打ち合わせなど出来ず、議長が各国代表一人一人に電話するしかありません。2021年2月、もうこれ以上遅れると国連公用語への翻訳が出来ないと事務局から泣きが入ったタイミングでようやく交渉が妥結しました。交渉会議終結の際に、慣習として唱えられる議長の手腕への評価に加えて、各参加者から一様に本使の「忍耐心」への賛辞が寄せられました。この部分だけは自分でも額面通り受け取っても良いと思っています。翌2023年には、私はCCPCJ(国連犯罪防止刑事司法委員会)の議長を務め、京都宣言のフォローアップに尽力しました。

(写真)CCPCJ議長を務める(日本政府代表部提供)

(3)もう一つは福島第一原発のALPS処理水の取り扱いです。2019年9月、私が着任すると時を同じくしてIAEAの場での議論が浮上しました。日本が放射能汚染水を海中に投棄しようとしているという根拠のない批判が、理事会や総会の場で中国、韓国等からなされ、私はその都度反論しました。2021年4月に日本が海中放出の方針を決定して以降、これらの国からの批判は一層強くなりました。
 同年7月に日本とIAEAとの間でALPS処理水海洋放出の安全性レビューに関するTORが結ばれ、放出作業の安全性をIAEAが確認、担保するスキームが確立されました。IAEAは原子力安全に関する国際的権威を専有する唯一の機関です。これにより処理水問題は一人日本の問題ではなく、日本とIAEAが共有する課題となりました。このスキームは、本件に関する主要関心国である韓国、中国、太平洋島嶼国等との間で極めて有効に機能し続けています。
 韓国との関係では、前政権時代には様々な軋轢が生じましたが、尹錫悦新政権の誕生と共に、IAEAの権威を正面から認めてそれに依拠するという明確な立場が打ち出され、同国とIAEAとの間で情報共有メカニズムが合意されました。
 中国は政治的動機に基づく対日批判を続けています。この批判の撤回如何は、恐らくウィーンでの専門的作業を超える次元の判断となるでしょう。ウィーンで出来ることは、①ディフェンスラインを固める、②中国の主張への同調者の出現を防いで孤立化させる、③その上で、日中間でいずれ生じるであろう本件解決の機運に備えて、その道筋を専門的観点から構想する、ことでした。①は、先のIAEAとのTOR締結によって基本的構図が構築されました。②については、ウィーンでの活動に加え、外務省の在外公館ネットワークをフル活用した取組により、IAEA理事会及び同総会、さらには2022年のNPT再検討会議及び2023年の同準備委員会においても、中国の主張への同調者はロシアを除いて殆ど居ないという状況が定着しました。③はまさに現在動いており、詳細は控えますが、検討の進捗を期待しています。
 核実験のレガシーを抱える太平洋島嶼国に対する取組はもっともデリケートなものでした。これら諸国はウィーンには代表部を置いておらず、もっぱら外務本省及び同諸国駐在諸大使の御尽力に頼ることになりました。そのご努力の結果、これら諸国の間にも次第に正しい理解が広がりつつあります。

在外勤務を通じて強く感じられたことはありますか。

(1)私がマルチの現場で勤務するのはOECD代表部以来ほぼ25年ぶりでした。かつて担当書記官として見た情景と、館長/日本政府代表として見る情景にはとの大きな違いがありました。それは、マルチ公館の館長の機能には、他の加盟国同僚との間で同志関係を深め、あるいは合従連合を繰り返すマルチ的関係と、担当国際機関との間のバイラテラルな関係の両面があることです。
 前者については京都コングレス、ALPS処理水の双方で十分堪能しましたが、改めて述べるまでもありません。後者についてユニークな点は、国家間の二国間関係とは異なり、当方は先方への資金等リソースの提供者、言わば「株主」であることです。日本は既に殆どの機関で米国に次ぐ第二株主の地位から滑り落ちていますが、それでも有数の大株主であることに変わりはありません。当方は特にその自発的資金提供によって、自らの政策目的に沿った活動を支援することに注力します。IAEAはALPS処理水という日本の最重要課題において鍵となる役割を担っていました。私はIAEAを率いるグロッシー事務局長と日本との信頼関係を強化するため、彼の活動に対するできる限りの支援に努めました。

(2)そうしている内にロシアのウクライナ侵略が起き、我彼の「ナラティブ」の争いが発生して、「グローバル・サウス」の国々の間にダブル・スタンダート論が広まりました。さらに中国の主導により、先進国は自らの都合で作ったルールを「既存の国際秩序」として途上国に押しつけている、との議論が拡散し始めます。どんな理由にしろ現状に不満をもつプレーヤーが多数を占める世界では、新秩序の創設を謳いあげる側の議論が耳に入りやすく、護る側は構造的に不利な立場に置かれます。

(3)ALPS処理水を巡る中国のIAEA及びグロッシー同事務局長に対する批判は、こうした雰囲気の中での議論の一環でした。先進国が支配するIAEAが日本を不当に擁護しているという主張です。それに対してグロッシー事務局長が、IAEAに与えられたマンデートと権威の中立性と独立性を再三にわたって強調したのは当然です。そこにはIAEAの「存在理由」がかかっていました。
 しかしIAEAの最高意思決定機関である理事会は、支持国の多寡が論理を凌駕しうる多数派工作の場です。そこで私は、IAEAが日本にとって役に立つだけでは不十分であることに気がつきました。IAEAは、世の中に不満をもつ多数の途上国にこそ役に立つ機関であってもらわねばならない、それによって初めてIAEAの権威とその活動に対する尊重の念が育まれる、日本はIAEAがそういう存在となるよう育成すべきで、株主としてそのツールを持っている、と考えるようになりました。
 そこで私は、殆ど我が子の成長を見守る親心のような感情をもって、グロッシー事務局長が次々に打ち出すイニシアティブの支援に努めました。あるいはまた、二カ年予算の作成過程で中国が理不尽な事務局批判を強め、一部の国がそれに同調したことがありました。その際私は、担当部局の作業に若干の不透明さや乱暴さがあったにもかかわらず、事務局擁護の論陣を先頭に立って展開しました。このときの心境も「我が子かわいさ」でした。

(写真)グロッシー事務局長との協議(日本政府代表部提供)

(4)なお、既存の国際秩序に対する支持と批判のどちら側につくか、多くの国々の立場は既に明らかになっている中で、最大の不確定票田はアフリカ地域でしょう。それ故、国際機関がアフリカ諸国からの安定的な支持を得るよう努めることは、自らの存立基盤を護る上で投資効率の高い活動です。グロッシー事務局長が打ち出したRays of Hope(がん対策) やAtoms4Food(食糧生産・供給支援)はまずアフリカ諸国を念頭に構想されました。実際のニーズがあることは勿論ですが、この票田を自分への支持で固めたい、という意識もあったでしょう。

(5)私はウィーンで多くの優れた諸大使及び事務局幹部をカウンターパートとする幸運に恵まれました。特にグロッシー事務局長とほぼ4年間にわたって緊密に連携・協力したことは、誠に得がたい経験でした。同事務局長の柔軟な構想力、軽快なフットワーク、手を変え品を変え難題に取り組む執拗さ、そして類い希な発信能力には、事あるごとに驚かされました。彼はALPS処理水に対して極めて強いコミットメントを維持し続けています。彼以外の誰が事務局長であっても、現在のような展開を実現することは難しかったように思われます。

 そうした人物が自ら代表する組織の利益と日本の国益をほぼ同一視して、時には個人的なリスクを取りつつ、それらの擁護に邁進する姿を目の当たりにしました。私はそれに呼応すべく微力を尽くすのみでした。私のウィーンでの活動が我彼の共通利益に多少とも寄与できたとしたら、この上ない喜びです。

(写真)グロッシー事務局長との握手(日本政府代表部提供)