余談雑談(第164回)五重塔

元駐タイ大使 恩田 宗

 大田区池上の本門寺に立派な五重塔があり遠くからもよく見える。徳川二代将軍秀忠の建立で戦災を免れ築416年と関東では最も古く重要文化財に指定されている。参詣者の多くは本堂では手を合せるが五重塔には近づき見上げるだけで去って行く。しかし五重塔は仏舎利(ほとんどの場合宝石や硝子玉で代替)を納めたお釈迦様の墓であり本堂と同じ神聖な施設である。仏教伝来後最初に建てられた飛鳥寺では塔を中心に三棟の金堂が取り囲んでいた。法隆寺は門を入ると塔と金堂が左右に並んでいる。五重塔の地位が下がったのはその姿が目立つため寺の飾りとし又寺の目印ともするため寺域の中心を外れた所に建てられるようになったからだという。
 
 五重塔の原型は釈迦の遺骨を祀るためインド各地に造られたストゥーパ(土饅頭型供養塚)だという。サンチーの代表的ストゥーパは直径37メートル高さ17メートルで表面は石板で覆われている。それが西域・中国・朝鮮に伝わる過程で各地の習俗や自然環境に合せ煉瓦や石の高楼に変形し日本には木造・多重の塔になって到達した。文化が地域を越えて伝播するときは変化を免れない。釈迦の教えも元のままでは伝わらなかった。釈迦は苦行六年で悟りを開き以後入滅するまでの45年を伝道に費やした。主に出家修行者に対し戒律を守り修行に励めと説いた。身近の世話をしていたアーナンダに息を引取る最期の時に遺した言葉も「努力して修行を完成しなさい」であった(「原始仏教」中村元)。精進して煩悩を消滅し解脱せよとの自力救済の教理が日本の浄土宗になると、阿弥陀仏を信じ南無阿弥陀仏と唱えれば煩悩まみれのままでも救われる、と他力本願に変質している。

 明治日本の西洋文化の吸収も西洋はあまりに遠く生半可なものに終わった。東京の民衆は「倫動(ロンドン)の鉄橋は虹より長く仏京(パリス)の宮殿は雲より高し」と聞いて描いた浅草の覗き眼鏡屋の万国風景を見て西洋の街を想像するしかなかった(「東京新繁盛記」)。漱石はそうした「皮相上滑りの開化」を「涙を呑んで」見ているしかなかった(漱石文明論集)。

 日本の伝統建築物で五層の屋根を裳裾のように広げる五重塔と白黒のコントラスト鮮やかに高く聳える天守閣はそのユニークさと美しさで世界に誇れると思う。二つとも日本人が日々眺めて育ち生きてきた日本の原風景の一部をなす建物であるが、昭和の戦争と失火などでその多くを失い明治以前に建てられたもので今残っているのは五重塔22(国宝9うち築千年超が3、重文13)、天守閣12(国宝5、重文7)である。現代日本人はこれ以上は壊わさずに後世に引き渡す義務がある。

(本稿は一般社団法人霞関会会報令和6年5月号に掲載されたものです。)