ブラッセルから見た冷戦の終結


元EU代表部次席大使 植田 隆子

1.はじめに

 1989年12月、クリスマスの直前に私は欧州安全保障協力会議(CSCE, 現欧州安全保障協力機構OSCE)の調査でウィーンに滞在した。すでに隣接するチェコスロバキアは体制転換していた。旅行も自由化された同国からバスを連ねて見物に来た観光客は、ケルントナー通りの高級店の豪華なショーウインドーの前に立ち尽くし、「炊き出し」で配られていた暖かい食べ物をほおばっていた。私が成田空港に到着したとき、東欧最後の独裁体制であるルーマニアのチャウシェスク政権の崩壊が報じられていた。その翌年に出張したプラハでは、バーツラフ広場や街角に、「共産主義の犠牲者」という「墓標」と若者の写真が置かれ、蝋燭の火が揺れていた。

2.ベルギー大使館での日々

 1990年7月、私はNATO及び当時は常設機構化されていなかったCSCEなどをめぐり、東側の体制転換によって激動する情勢の調査分析のために勤務先の大学を離れ、在ベルギー大使館に赴任した。

 当時、夏ごとに大事件が発生しており、8月2日、イラクがクェートを併合し、対処のために多国籍軍が編成されることになった。NATOは西独部分に駐留しているNATO加盟国の軍隊をサウジアラビアに展開するコーディネーションを行っていた。NATO本部に行くと、担当者は東側と西側の戦力が対峙し、にらみ合ったままの状態だった「冷戦期は暇だった」と述懐していた。翌年の1月17日、地上戦が始まり、NATO本部のアラートも上がった。

 1990年8月21日には、皇太子殿下が国際経済史学会の世界大会(会場はカトリック・ルーバン大学の講堂)で学会報告をなさった。私は会場配置になり、「中世期日本の海上交通史」についての、殿下の英語での堂々としたご報告を拝聴した。

その年の10月3日、ドイツが再統一された。NATO本部での扱いは、「西側の勝利」を誇示せず、地味だった。体制転換によって、旧東欧諸国のNATOやEC/EUへの加盟の道が開かれた。

3.8月のクーデター未遂事件とソ連の崩壊

 1991年の8月21日、私はNATO本部で開催されたジェームズ・ベーカー国務長官の記者会見を傍聴した。当時は、インターネットによる中継などはなく、会見を録音したカセットテープが配布されるような時代だったので、傍聴することが必要だった。

 ベーカー長官は、ソ連のクーデターでゴルバチョフ大統領が行方不明という事態のために緊急招集されたNATOの外相理事会にワシントンから駆け付けた。私はたまたま休暇明けで19日の月曜から勤務に戻り、BBCはモスクワの不穏な情勢を伝え、CNNはモスクワ市内を走行する多数の戦車を報じていた。モスクワの日本大使館からは刻々と情勢を伝える公電が送られてきた。現地の情勢は、当時の枝村純郎ソ連大使による『帝国解体前後』(都市出版)に詳述されている。

 ベーカー長官の記者会見の時点では、ゴルバチョフ大統領の動静が十分につかめておらず、いつもは鮮やかな受け答えのベーカー長官も疲労のためか、苦悩が伺われた。このクーデター未遂事件について、ベーカー長官自身の回想録『シャトル外交 激動の4年』(新潮文庫、下巻)は米国の対応を詳述している。

 余談になるが、ブラッセルに時期を置いて、私がEU代表部に勤務していた2008年のこれも8月に、ロシアがジョージアに侵攻した。赴任直後の時期で、館員が私の執務室に「ロシアが越境してジョージアを攻撃しています」と駆け込んできた。当時はEUの外務省組織(EEAS)や外交安全保障政策上級代表職はできておらず、輪番制の議長国が重要な役割を持っていた。フランスが議長国で、サルコジ大統領がモスクワに飛んで仲介し、メドベージェフ大統領との間で停戦合意を取りまとめた。その帰路、ブラッセルに寄り、サルコジ大統領の記者会見が行われた。私が館内で記者会見の思い出話をしていたせいか、「大使、会見にいらしゃいますか?」と担当官から水を向けられた。すでに、会見はネット中継でも見られる時代になっていた。私は会見場に行き、様子を見守った。停戦合意ができていたため、ゴルバチョフ大統領の行方不明時と異なり、会見場では全く緊張感は感じられなかった。会場の緊張感の有無などは現場に行かないとわからないのではないかと思う。 

 1991年に戻ると、NATOは体制転換した旧東側との交流に踏み出すことになった。同年12月20日、初回の北大西洋協力理事会(NACC)がブラッセルのNATO本部で開催され、ソ連を含む旧東側諸国の代表がNATO加盟諸国と会合することになっていた。私は会議終了後の記者会見を聞きにNATO本部に出向いた。待っていると、会議の様子について、驚くべき情報が記者団に流れてきた。ソ連のアファナシェフスキー大使が、「ソ連は分解し、自分はロシアを代表している」と述べたとのことだった。ソ連の崩壊は誰も予測だにしていなかった。ソ連の終焉をNATO本部で聞くとは皮肉なことだと思った。

4.白夜のヘルシンキCSCE首脳会議

 東側の共産党一党独裁体制の崩壊で脚光を浴びたのは欧州安全保障協力会議だった。CSCEは、1972年にヘルシンキで開始された予備会議を経て1975年に西側、東側と中立国の35か国で発足した。その基本文書が「ヘルシンキ宣言(Helsinki Final  Act)」と呼ばれる行動原則である。対立する国々も一同に会し、緊張緩和をはかり、協力を推進することが目的だった。

 欧州の激変を踏まえ、1990年11月19日にパリでCSCE首脳会議が開催され、「パリ憲章」では政治対話を強化し、年次外相理事会、日常的な決定を行なう高級事務レベル委員会(CSO)が置かれることになった。ハヴェル大統領の誘致によりプラハに事務局、ウィーンに紛争防止センター、ワルシャワに自由選挙事務所(現民主制度人権事務所)の設置が決定された。私は首脳会議、外相理事会やCSOを手伝っており、旧市内の事務局も訪問していた。当時はプラハ発着のフライトも少なく不便で、事務局機能は1995年にはウィーンに移り、加盟国の常駐代表部も設置された。軍事代表も含む大使級の二種類の会合が毎週開催されている。

 東西冷戦の終結後、新しい欧州の協力関係を目指し、ヘルシンキIIと呼ばれたCSCE諸国の首脳会議が1992年7月初めに開催されることになった。ワルシャワ条約機構が崩壊した後、残った西側の同盟のNATOの存在意義が問われ、全欧的なCSCEの役割の拡大が期待された時期だった。ソ連が崩壊してもその再興に対する警戒心を西側諸国は捨てきれず、NATOも新たな役割を存続のために模索していた。前述のNATOの北大西洋協力理事会は生き残りのための役割拡大であり、CSCEと競合する側面があった。

 92年7月のCSCEサミットは、日本にとって、重要な意義があった。CSCE領域に隣接する日本はCSCEとの協力関係を模索し、このサミットで特別参加資格の制度的対話枠組が決定されることになっていた。私は応援出張で7月5日にブラッセルからヘルシンキに入った。当時の制度では、再検討会議がCSCEの参加国間でサミットの直前まで開催中で、サミットで採択する文書も交渉されていた。交渉は前日まで続いた。ヘルシンキは白夜に近く、私は連日、ほとんど徹夜で、日本の関連条項を含む、サミット文書の分析などにあたっていた。

 日本は、非加盟国でただ1国、フィンランド政府から招待され、松永政府代表が参加した。サミット会場はフェア・センターで、ブッシュ大統領やエリツィン大統領、コール首相などが代表団席に座っていた。9日の夜は、庭園の美しい、カラスタヤトルッパ・ホテルでビュッフェ形式の夕食会にフィンランド政府が参加者を招待し、52か国の代表が和やかに談笑していた。

 10日の13時過ぎにサミット文書が満場一致で採択され会議は閉会した。以下、拙稿から閉会直後の会議風景を要約して引用する。

 「白いブラウスの会場係の女性が銀の盆に乗せたシャンペン、オレンジ・ジュースを配りに入ってきた。会場のそこここで乾杯の輪ができる・・・・ブッシュ大統領の席の前でエリツィン大統領が立ち止まり、別れを告げると、ブッシュ大統領が立ち上がって固く握手をした。先に会場を出る順になっていた松永代表に、会場の出口でエリツィン大統領が手を振ったという。」(有斐閣『書斎の窓』1993年1・2号)

 会議は順調に終わったが、ユーゴの内戦が大きな影を落としていた。7月10日午前に、WEU(西欧同盟)理事会やNATO外相理事会が短時間、召集され、国連決議履行のモニターのために、アドリア海に海軍力を出すという決定がなされた。ヘルシンキでも、私はNATO事務総長の記者会見を聞くことになった。

5.30年後の世界

 それから約30年が経過した。東西対立終結後は、冷戦に勝利した西側のリベラル・デモクラシーが地球を覆う、「退屈な」世の中になるとも予想されていた。この通りにはならず、欧州方面ではロシアによるクリミア併合やウクライナでの軍事活動によってバルト三国やポーランドは脅威を訴え、小規模なNATO軍が駐留している。EU加盟国はNATO軍を増派する際の障害を取り除くために、国内法制の改革を進めている。欧州安全保障協力機構はウクライナにモニタリング・ミッションを派遣し、紛争の鎮静化を図っている。

 アジア地域では中国の著しい台頭によって安全保障環境が一変している。常設機構のOSCEを通じて安全保障協力が制度化されている欧州・北大西洋地域と比較して、インド太平洋地域は多国間安全保障協力の制度化はほとんどなされていない。対立する国々の間での軍備管理や安全保障協力としての信頼醸成措置は、軍事力が拮抗したときに初めて組む意欲が双方に出て来る。中東情勢の悪化により、その時期が近づいているのではないだろうか。