ベルリンの壁崩壊とドイツの統一【冷戦終結30周年】


元駐インドネシア大使 鹿取 克章

1.ベルリンの壁崩壊前の欧州情勢

 1985年3月11日にソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフは、国内の改革(ペレストロイカ)を進め、ポーランド、ハンガリーなど他の東側諸国においても改革が進められたが、東ドイツにおいては頑迷なホネッカー政権が改革に消極的な姿勢を維持し、東ドイツ市民の閉塞感は高まっていった。1989年の夏休みの時期に入ると、国の将来に見切りをつけた多数の東ドイツ市民は、東ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ・スロバキア(注1)などの西ドイツ大使館敷地内に侵入・籠城し、西ドイツへの移住を強要する行動に出(注2)、国際社会の大きな注目を集めた。「鉄のカーテン」がほころびを見せつつある中、11月9日、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊した。全世界がテレビを通じ、両ドイツ市民の連帯感、感動及び高揚感を共有した。

 ベルリンの壁崩壊は、民主化を求める東ドイツ市民のエネルギーの爆発であった。ライプチッヒでは9月以降ニコライ教会の月曜ミサ後の市民のデモ行進が恒例化していたが、10月9日には軍による実力行使の噂が流れ、戦車や軍人も配置されていた。同年6月4日の中国天安門事件の記憶が燻る中、7万の市民が「Wir sind das Volk」(我々こそが人民=主権者だ)など訴えつつ、死をも辞さず行進した。軍は結局介入しなかったが、改めて示された市民の勇気は、改革を求める動きに一層弾みをつけることとなった。

2.ベルリンの壁崩壊―「ドイツ問題」の目覚め

 ベルリンの壁崩壊は、東西両ドイツ市民の一体感を大きく高め、眠っていたはずの「ドイツ問題」をよみがえらせた。

 ベルリンの壁崩壊までの時点では、東ドイツ情勢の流動化にもかかわらず「ドイツ統一」への表立った言及は、敢えて控えられてきた感があった。両ドイツは、NATO及びワルシャワ条約機構という相対峙する安全保障体制にそれぞれ組み込まれており、西ドイツ及び東ドイツの二つの主権国家の併存は、第二次大戦後40年にわたり定着していた欧州の政治的現実であった。特にソ連にとってドイツの統一は、2700万人という膨大な犠牲を払った反ファシズム戦争勝利の結果を根底から覆すことを意味し、到底受け入れられるものではなかった。また、英国、フランスをはじめ西側諸国も、公式文書などではドイツ統一を常に支持してきたが、ドイツ統一を現実的問題とは考えていなかった。西ドイツ政府は、ドイツ統一を基本的政治目標として戦後一貫して堅持してきたが、統一問題が過度に意識され近隣諸国の警戒心が高められるようなことは得策ではないと判断していた。当時の関係諸国の期待は、東ドイツが改革を進め、国民に未来への展望を示し、もって東ドイツ市民の西ドイツへの流出に歯止めをかけることであった。関係国が想定していたのは、あくまでも二つのドイツ国家の存続を前提とした秩序の構築であった。

 しかし、ベルリンの壁崩壊後は、「ドイツ問題」は益々意識されるようになり、欧州においては相対立する思惑を背景に政治闘争が厳しさを増していった。

3.ベルリンの壁崩壊の経緯

 ベルリンの壁崩壊は、予期せぬ形でもたらされた。その経緯は概ね次の通りであった。

 東ドイツ政府は、市民の西ドイツへの流出を防ぐため国内改革を進めたが、注目されていた「目玉」の一つは、外国への移住や旅行の自由を保障する旅行法の制定であった。これまでも規制緩和は試みられたが、市民の期待に副うものではなく、より原則的な自由の付与が課題となっていた。11月8日に開始された東ドイツ社会主義統一党中央委員会は、9日にとりあえずの経過的措置を取りまとめた。同措置は、国境警備兵への周知の後、10日より施行される予定であった。中央委員会は、9日は21時頃まで討議を継続したが、シャボフスキー広報相は中座し、討議の概要説明のために記者会見に臨んだ。直前、クレンツ書記長は経過的措置の記載された2枚紙をシャボフスキーに手渡した。会見は淡々と進んだが、終わりごろに旅行法について質問が出され、シャボフスキー広報相は思い出したようにクレンツ書記長から手渡された紙を読み上げ、①東ドイツ市民は、私的な外国旅行を特別な条件なしに申請することができ、許可は速やかに与えられる、②東ドイツ市民の東ドイツからの移住のための査証は、遅滞なく発給される、③東ドイツからの出国は、東ドイツと西ドイツ及び東ドイツと西ベルリンの間のすべての通過地点で行い得る旨述べた。記者より、この措置は何時から始まるのかと更に問われ、同広報相は手元の紙をめくりつつ一瞬迷ったのち「直ちに、遅滞なく」と答えた。19時少し前であった。「国境開放」、「ベルリンの壁開放」のニュースが忽ちのうちに世界を駆け巡った。

 20時過ぎ頃になると、ベルリンの壁の西側への通過地点やその他国境通過地点に半信半疑の東ドイツ市民が集まり始めた。東ドイツ国境警備兵は、対応ぶりについて本部の指示を求めたが、中央委員会討議が継続されていたため指示は得られなかった。その後も、指示は伝達されず、国境通過地点の市民の数は膨れ上がり、国境警備兵との間の緊張が高まっていった。深夜少し前、ボルンホルマー通りの国境警備兵が市民の圧力に耐えきれず自らの判断で遮断機を開放した。深夜過ぎには、ベルリン7カ所の通過地点はすべて開放された。国境警備兵が唖然と見守る中、数万人の東ドイツ市民が西ベルリンに殺到した。壁に上る者、抱きあう者、目に涙を浮かべる者、歌う者、踊る者、皆大きな喜びと感動に包まれた。西ベルリンの繁華街クーダムは人で溢れ、西ベルリン市民も、東の同胞を心から歓迎し共に感激に浸った。

 ベルリンの壁の崩壊は、シャボフスキー広報相の曖昧な記者会見、「国境開放」を大々的に報じたメディア、西ベルリンへの通過地点に集まった市民の大きな圧力、そして最終的には自らの判断で国境を解放した国境警備兵の予期せぬ共同作業の結果であった。そもそも、本来は10日に発表とともに施行することになっていた経過的措置の記者への説明をシャボフスキー広報相に指示したクレンツ書記長が不注意であったのか、又は、シャボフスキー広報相が経過的措置の内容を適格に把握し、記者の質問に対しては「直ちに」ではなく、「明日より申請が受け付けられる」などと答えるべきであったのかなど、当時の状況の詳細については不明な点も残されている。いずれにせよ、ベルリンの壁崩壊により東ドイツ市民は、東ドイツ当局のコントロールなしに東西ドイツを自由に行き来する結果となった。東ドイツ政府にとっては新たな致命的な権威の失墜であった。

4.ドイツ統一への動きの始動

 ベルリンの壁崩壊4日後の11月13日、東ドイツでは改革派で市民の信望の厚いモドローが首相に任命された。モドロー首相は、改革を進めることにより西ドイツとは別個の社会主義国家としての東ドイツの確立を目指し東ドイツの建て直しに全力を傾注した。これは、他の欧州諸国の利益と期待にも見合うものであった。

 他方、目覚めてしまった「ドイツ問題」を再び眠らせることはもはやできなかった。もとより、異なる陣営に属し、民主主義と社会主義という異なる体制の下にあり、経済的実力も大きく異なる両ドイツの統一は、現実には解決不可能な難問に等しく、ベルリンの壁崩壊後も、「統一は本当に実現可能なのか」、「統一が実現するにせよどのくらいの時間がかかるのか」との問いには誰も明確に答えることはできなかった。しかしながら、ドイツ統一問題が人々の口に上り、報道で言及される機会も増えてきた。ライプチッヒの月曜デモをはじめ市民の示威行動においても「Wir sind ein Volk(我々は一つの民族だ)」など統一を意識する標語が頻繁に聞かれるようになった。同時に、統一への懸念や否定的考えなど各国の思惑も様々な形で聞かれるようになった。11月14日付ソ連のプラウダ紙は、「戦後欧州の秩序の変更を求めるあらゆる試みは、極めて深刻な結果をもたらし得る」等の警告を発したが、11月18日に開催された特別欧州理事会においても冷たい空気が漂い、特に英国のサッチャー首相は、東ドイツ改革支援の重要性を指摘するとともにドイツ統一の考えを強く牽制した。このような状況の中、11月28日、西ドイツのコール首相は、ドイツ問題についての10項目プログラムを発表し、時期については明言しなかったものの、統一の道筋についての考え方を明らかにした。東ドイツ情勢が流動化した以降、コール首相が統一を前提とした姿勢を明確に示したのは初めてであった。この発表は、ごく少数の関係者のみにより極秘裏に準備され、国内の連立パートナーとも調整は行われず、関係国にも事前通報は行われなかったため、国内のみならず近隣諸国の意表を突き、内外から批判を呼んだ。特にソ連は、極めて厳しく反応した。しかし、この発表によりコール首相は、ドイツ統一問題についての議論の主導権を握ることに成功した。

 1989年12月から1990年1月にかけての時期は、ドイツ統一をできるだけ阻止乃至先送りしようとする最後の努力が傾注された時期であったが、東ドイツにおいてはモドロー首相の努力にもかかわらず西ドイツに移住する市民は後を絶たず、1989年の移住者の数は、医師、技術者など手に職を持った優秀な若手及び中堅層を含め、34万3854人に上った。この人の流れは1990年に入っても継続し、東ドイツの国家としての基盤は益々崩れていった。1990年1月30日、モドロー首相は、モスクワでゴルバチョフ書記長と会談したが、帰国後の2月1日の東ベルリンにおける記者会見において「中立的な統一ドイツ」という考えを表明した。「中立ドイツ」という考えは、戦後のドイツ問題をめぐる駆け引きの過程でソ連が主張した経緯があり、西側にとって受け入れられるものではなかったが、東ドイツが初めてドイツ統一を前提とした発言を行ったことは、東ドイツとしても最早統一の動きを止めることはできない旨判断したものとして注目された。

5.ドイツの統一

 ドイツは、1990年10月3日に統一された。その過程においては厳しい政治闘争が繰り広げられ、様々な紆余曲折があり、統一への道は困難を極めた。早期統一を求める東ドイツの市民パワーが統一プロセスを後押ししたとはいえ、東西両ドイツ間で統一の内的側面(法体系、経済・金融・社会制度の調整など)についての協議が実質的に開始されたのは3月18日の東ドイツにおける総選挙後であり、また対外的側面(統一ドイツの国境画定、統一ドイツとNATOとの関係など)について両独及び米、英、仏、ソ連6か国(2プラス4)協議が閣僚級で開始されたのは5月5日であり、わずか数か月の間にドイツ統一という欧州のstatus quoに根本的変化をもたらす複雑かつ機微な問題について関係国間で平和裏に合意を達成できたことは、驚異的なことであった。これは、利害が大きく対立していたにもかかわらず、関係国がそれぞれ強いリーダーシップを発揮し、プラグマティックかつ強い責任意識をもって交渉に臨んだ結果と評価できよう。また、西ドイツが過去の歴史を適切に乗り越え、近隣諸国の信頼を勝ち得ていたことも、統一実現の重要な前提であった。

6.追記

 ドイツ統一翌年の1991年12月25日、ソ連邦が分裂し、冷戦構造は名実ともに崩壊した。しかしながら、今日の状況を見ると、米欧とロシアの間の対立は、特に2014年のロシアのクリミア併合以降大きく深まっている。また、本年8月2日、トランプ政権は、東西の緊張緩和及び信頼関係強化にとっての重要な枠組みであった1987年の米ソINF(中距離核戦力)撤廃条約より離脱した。同条約破棄の背景としては、30年前に比較して著しく高まった中国の軍事力を指摘する声も聞かれるが、同条約の破棄により核兵器の軍拡競争が強化されるリスクが高まっている。米国の対応は、2021年2月に有効期限が到来する米ロ間のNew START(新戦略兵器削減条約)の将来に対する懸念をも呼んでいる。

 これからの国際社会においては、米国、ロシア、中国がいかにして安全保障上の安定的な秩序を構築できるかが大きな課題であるが、同時に、欧州においてもNATO諸国とロシアの信頼関係を改めて強化していくことが重要である。

 ドイツ統一プロセスを振り返ると、西ドイツのコール首相が対外関係において最も重視したのは、ドイツ統一及び統一ドイツのNATO加盟が「ソ連の政治的敗北」と観念されないよう配慮することであった。かかる観点から、NATOの政治的役割を高めるなどNATOの変革、ソ連も参加しているCSCE(欧州安全保障協力会議。1995年にOSCEに改組)の役割強化、ソ連とのあらゆる分野での協力強化などについて議論が進められた。NATOは、交渉大詰めの1990年7月5日及び6日のロンドン首脳会議において「変革した大西洋同盟」と題する宣言を発し、その中で「NATOは、冷戦時代対立していた東側諸国に対し友好の手を差し伸べる」、「もはや相互に対立者とみなさないこと、武力による威嚇や武力の行使を行わないことを内容とする共同の宣言を提案する」など表明した。現にNATOは、ソ連崩壊後、北大西洋理事会の設立、「平和のためのパートナーシップ」プログラムの推進、NATOロシア理事会の設立などロシアとの間で緊密な協力・信頼関係構築に向け努力した。90年代から2000年代初めにかけては、紆余曲折はあったものの、対話と協力も進められた。しかし、欧州諸国のロシアに対する脅威感には根強いものがあり、1999年のポーランド、チェコ及びハンガリーの加盟を皮切りにかつてのワルシャワ条約機構加盟諸国は相次いでNATOに加盟した(注3)。NATOの東方拡大、ロシア軍のグルジアへの軍事介入、NATOによるミサイル防衛システム配備等はNATO諸国とロシアとの間の相互不信を強めた。ロシアは、特に2000年5月にプーチンが大統領に就任した以降、2007年2月のミュンヘン安全保障会議における発言をはじめNATO拡大等に対する不満及び批判を強い調子で表明するようになった。2012年に再度大統領に就任したプーチンは2014年にはクリミアを併合し、NATO諸国との関係は決定的に悪化した。

 他方、米国においては2017年1月にトランプが大統領に就任した以降、NATOの要である米欧関係はきしんでおり、NATOの連帯は損なわれている。
 このような状況の中、欧州の役割は従来以上に高まっている。欧州諸国としてロシアをどのように欧州の中に位置付け、またロシアとしては欧州の中にどのような形で自らの立ち位置を見出だしていくのかについて相互に意思疎通を図っていくことが、欧州とロシアとの安定的関係を構築していく上で不可欠である。ベルリンの壁崩壊30周年にあたり、ドイツ統一及び冷戦崩壊という欧州の激動を乗り越えた当時の各国の政治指導者の示したような叡智、創造力及びリーダーシップが再び強く求められている。

                    

(注1)チェコ・スロバキアは、1993年1月1日にチェコとスロバキアに分れた。

(注2)東西冷戦下においては、東側陣営に属していた東ドイツの国民は、同じ東側陣営内の諸国には基本的に自由に移動することができたが、西ドイツを始め、西側への移動は、厳しく制限されていた。

(注3)NATO加盟国は、1991年のソ連崩壊時点では16か国であったが、1999年にはポーランド、チェコ及びハンガリー、2004年にはブルガリア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニア、スロバキア及びスロベニア、2009年にアルバニア及びクロアチア、2017年にはモンテネグロが加盟し、現在は29か国に拡大した。
 なお、EU加盟国は、ソ連崩壊時は12か国であったが、その後加盟国が増加し、現在では28か国に拡大している。