サウジアラビアと新たな歴史の創出


元駐サウジアラビア大使 奥田紀宏

 昨年の1月末と言えば、世の中はロシアのウクライナ侵攻開始直後の喧騒の中にあって、サウジアラビア発のそのニュースは、日本では当然の如くほとんど注目を集めなかった。それによれば、サウジアラビア(以後、サウジ)政府は、従来の建国記念日(9月23日)に加え、2月22日を更なる建国記念日とすると発表したというのである。サウジ情勢を追いかけている者にとって、これはサウジの新しい歴史の方向性を示すという意味で無視すべからぬ出来事だった。従来の建国記念日は、現在のサルマン国王の父、アブドゥルアジーズ国王がヘジャーズ地方を併合し、1932年にサウジアラビア王国の設立を宣言したことを記念するものだ。一方、今回制定された第二の建国記念日は、1727年にサウード家の始祖であるムハンマド・イブン・サウード国王(第一次王国初代国王)が、リヤド郊外のディルイーヤの支配者となったことに基づいている。しかし、従来サウジの起源は、ムハンマド・イブン・サウード国王と原理主義的なイスラム教ワッハーブ派の指導者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブが1744年に盟約関係を結び、サウード家統治の正統性の承認とワッハーブ派の保護を引き換えにした政治体制が成立したことにあるとされていた。今回の第二の建国記念日の制定は、これまでの国の成り立ちに関わるこのような歴史理解を殊更に無視して、サウード家による一村落の武力による奪取というワッハーブ派との盟約成立以前の比較的小さな出来事を建国の起点とするものである。

 このような国の成り立ちの物語の大きな転換は、明らかに2015年のサルマン国王就任以降急速に権力を自らの手に集中してきたモハンマド・ビン・サルマン皇太子(以後、MBS)の政策に則ったものだ。MBSには国内の批判勢力を徹底的に抑圧する強権的独裁者としてのイメージと、国内の伝統的宗教勢力の抵抗を排除して社会と文化の開放を図る改革者としてのイメージがあり、MBS自身は後者のイメージの拡散に余念がない。特に、若者世代に強く支持されている公の場での音楽やスポーツ等のエンターテインメント関連の行事の促進には目覚ましいものがある。しかし、今回の第二の建国記念日の制定は、MBSが自分の力を誇示するための単なる思い付きではない。それだけでなく、最近のサウジの社会、文化の開放政策は、サルマン国王就任以前からのここ数十年にわたるサウジの歴史の大きな流れと大いにかかわりがあるのだ。

(統治の正当性を保証する宗教の役割とその勢力の拡大)

 サウジ社会ではつい最近まで、ワッハーブ派の指導の下に宗教的戒律の宗教警察による徹底的な強制が実施されてきた。筆者が大使としてサウジに赴任したのはサルマン国王就任直後の2015年だったが、今から8年前のその時ですら、自動車運転を含む女性の社会的活動は厳しく制限され、未婚の男女交際は禁止、レストランも家族を除き、男女は別々。飲酒は勿論のこと、公の場での歌舞音曲さえ禁止されていた。

 又、サウジは膨大な石油収入を背景に、説教師の派遣やモスク建設等を通じて周辺地域におけるワッハーブ派の影響力を伸ばした。周辺イスラム諸国では、宗教色の強いサウジ的文化が受け入れられるようになったばかりか、庶民レヴェルでは憧れの対象にさえなった。このようなイスラム化の傾向の中で、ソ連のアフガニスタン侵攻に対抗するため、サウジが米国とともに支援したイスラム戦士(ムジャーヒディーン)が力を得、この中からオサマ・ビン・ラーデンのアルカーイダが誕生してきたことはよく知られている。サウジ政府自身は、イスラム過激主義のテロ活動を懸念はしてもこれを扇動していたわけではないが、19人の実行犯の中で15人がサウジ人だった9.11テロ事件は、サウジに対する強い批判を巻き起こした。サウジは9.11テロ事件の直後は国際社会の批判に反発したが、その後、2000年代にサウジ自身が過激派テロ攻撃に何度も晒されたこともあり、自らの体制維持のためにもイスラム教過激主義との関係の見直しを迫られた。

(宗教の周縁化の為に歴史と文化を利用する)

 実は、サウジの支配者たちはイスラム過激派のテロ行為に向き合うようになる前から、250年前のワッハーブ派との盟約の価値に疑問を抱き始めていた。それは9.11事件の10年前の湾岸戦争に遡る。米軍の巨大なプレゼンス、特に米軍女性兵士の活動はサウジ人に様々な刺激を与え、女性に対する運転禁止などの社会的抑圧に対するサウジ内部からの批判を生んだ。戦後、サウジの女性活動家がリヤド市内で車を運転してデモを行ったことは、当時国際的にも大きなニュースとして取り上げられた。又、国内世俗グループは、憲法制定等の政治改革にまで踏み込んで改革案を提示した。しかし、サウード家にとっては、イスラム主義者側からの体制批判の方が深刻だった。特に、サフワと呼ばれるイスラム原理主義者のグループは、異教徒の米国軍、即ち十字軍をアラブ・イスラム国家たるイラクと戦うために駐留させたとしてサウジ政府を厳しく批判した。又、政府系の宗教指導者からも政治経済社会に関する改革要求が出る。これらの批判に直面して、サウジ支配者はワッハーブ派との従来の関係を修正し、ワッハーブ派の影響力の周縁化を図る必要があることに気が付いた。これまでのサウジの統治の根本に手を付け、サウード家の権力強化を図るための複雑で時間のかかる作業を具体的に推し進めたのが、当時のサルマン・リヤド州知事、現在のサルマン国王である。現在のMBSの社会文化開放政策は、彼の父の政策を発展させたものであると言える。

 勿論、これまで権力が頼りにしてきたはずの宗教勢力の影響力を少しずつ弱め、政治権力の独立性を高めようとする政策は、一朝一夕にはいかない。そこで、サウジ政府は当時のファハド国王の下で新たな歴史作りに着手した。即ち、サウード家を中心とした、宗教と直接関わりのない歴史を新たに提示し、これを記念する仕組みを作ることで、その統治の正当性を確保しようとした。1996年、サウジ政府はその具体的手段として1999年1月16日をアブドゥルアジーズ国王のラシード族からのリヤド奪還(H(ヒジュラ歴)1319年=1901年~1902年)100周年(註:ヒジュラ歴で1999年がH1419年即ち100年目に当たる)の初日とすることを決定した。これはそれまでのサウジの政治と宗教との力関係を根本的に変える重大な決定だった。1950年に当時のアブドゥルアジーズ国王自身がリヤド奪還50周年祝賀式典を計画したが、その際には宗教勢力がこれを宗教の冒瀆として反対したため、キャンセルせざるを得なかった。大王と称えられる国王にして、その当時はワッハーブ派の宗教勢力に抗することはできなかったのだ。それを今回は断固実施することにしたのである。この100周年記念行事の場所として「アブドゥルアジーズ国王歴史センター」をリヤド市内に建設することとし、サルマン州知事が総裁を務めるリヤド開発公社がこれを引き受けた。サルマン州知事はこのプロジェクトのため、単にセンターの建設だけではなく、新たな歴史を提示するための資料の収集、編集等にも力を入れた。確かに思い返してみれば、筆者が初めてサウジ勤務をした湾岸戦争の時代にリヤド市内で見られた遺跡は、サウジ人からすっかり見捨てられた様子で、古い城塞にしても壊れかけたようなものしかなかった。しかし、サルマン国王の就任直後(2015年)2回目に赴任した時は、その一帯は修復或いは新築された遺跡の間にこぎれいな散歩道や博物館や売店もある観光地に変身していた。この変化の背後に、サウード家を中心とした歴史の提示により宗教勢力から独立した支配の正当性を確保しようとする強い意図を読み取ることが出来る。

(メッカの変容)

 サウジ政府は、リヤドをサウード家中心の歴史に作り替える一方で、メッカの都市開発を進める中でその歴史も同様に作り替えた。但し、リヤドでは「建設」のなかで新たな歴史を作ったが、メッカでは都市開発のための「破壊」のプロセスが大きな役割を果たしたようである。メッカ開発自体は増加するイスラム教巡礼者の円滑な受け入れのために必要だとの「錦の御旗」があるので、だれも反対できない。ただ、サウジ政府は開発のために必要な聖地や史跡の破壊の際に、サウード家によるヘジャーズ地方征服以前のメッカにおける国際的で多文化的な歴史の色彩を出来るだけ希釈することに力を注いだ。そしてその際、神以外の人や物を礼拝すべからずというワッハーブ派の教えを利用して、古くからの宗教的歴史遺産を含む場所を破壊したという。メッカの再開発は、サウード家以前の歴史を削除するほかに、破壊と建設により不動産価値を高め、利益の大きい投資機会をエリート層のために確保する目的もあった。特に1990年代の半ばから再開発が加速し、あの有名なビン・ラーデン建設会社が巨大な利益を得る結果ともなった。

 2015年のサルマン国王就任以来、サウジ政府は皇太子であるMBSの強力な指導力により、従来ワッハーブ派が保持していた社会的規制の権力を大きく制限した。市中の宗教警察による取り締まり活動の緩和は、その最も目立つ例である。この社会の世俗化に向けた動きは、権力の基礎を固めるだけではなく、大きく変化する社会情勢への対応としても必要だった。サルマン国王就任時、サウジアラビアの社会状況は、湾岸戦争から25年の間に大きく変わった。まず、人口が2倍に増えた(約3000万人。内、サウジ人2000万人、外国人1000万人)。これに伴い、サウジ社会は30歳以下が7割を占める圧倒的に若者が多い社会になった。アブドラ国王以来の海外留学促進政策と高等教育の普及で高学歴の若者が増えると同時に、インターネットの普及を通じてサウジ国内に海外からの情報が氾濫するようになった。他方、イスラム過激主義に惹かれる若者たちがIS等のテロ組織に入る動きも続く。又、2011年から始まる「アラブの春」により、アラブ諸国で影響力を強めた政治的イスラム主義に対抗する必要もある。このため、イスラム過激思想から若者を分離しつつ、彼らの支持を政権に惹きつけることが重要な課題となった。そこで、サルマン国王の新政府は、女性の運転許可に象徴される社会規制の緩和と文化活動の解禁に乗り出した。2017年のリヤドにおける日本のオーケストラの演奏会は、サウジで初めての公のクラッシック・コンサートだったが、計画当初は実施できるか否か全く分からなかった。当時サウジアラビア大使だった筆者が、サウジ政府の意向を探る中でMBSに近い政府高官に対して、文化娯楽活動の解禁については宗教的保守主義者からの強い批判があると思うが、どう対応するつもりかと質したのに対し、彼は、「若者たちに天国に行く前にこの世にも意味のあることや楽しいことがたくさんあることを教え、そのことで若者たちをイスラム過激主義から救い出すのがサウジ指導部の方針だ。」として、政策を貫徹する強い意図を明確に表明していたことを思い出す。今では欧米や韓国のポップ・ミュージックのスターたちによるコンサートや女子選手も含むゴルフの国際大会などの行事が目白押しである。

 2回目となる今年2月22日の建国記念日は、週末までの4日間の連休とされ、サウジ市民は多くの娯楽イヴェントを楽しんだ。筆者にとって若干意外だったのは、サウジ政府がこの機会に建国記念日の意義をことさら強調する公式の声明などは出さず、ひたすら市民に娯楽イヴェントを供給していたことだ。恐らく、サウジ政府としては、わざわざ宗教勢力の不興を買うような声明を出すまでもなく、現在の社会の世俗化の政策が支持されていることに自信を持っているということではないか。こうしてMBSは父であるサルマン国王の新たな歴史の提示による宗教勢力周縁化の政策を受け継ぎながら、彼独自の経済社会改革を行う道を確保したとみるべきであろう。勿論、このような経済社会改革が政治活動の自由化に進む可能性は現時点では極めて小さいと言わざるを得ないが、サウジがこれまでに辿ってきた道の長さに鑑みると、現在の国王、皇太子親子が行ってきた変革には、大きな意味を認めるべきだろうと考える。

(註:本稿中、リヤドとメッカに関わる新たな歴史の提示に関する部分については、ハーバード大学歴史学助教授のRosie Bsheer著 Archive Warsに寄った。)