余談雑談(第102回)悔恨と怒り

元駐タイ大使 恩田 宗

 子貢は孔子の三大弟子の一人で頭がよくて弁がたち裕福でもあった。或る侯国の要職に就いた時昔一緒に学んだ旧友がその国にいると聞き早速訪ねた。会うとやつれて見えたので思わず「病気でもしているのか」と聞くと相手は憤然として「先生は学ぶのを止めることを病だと言われた。俺はこうしてはいるが一日たりと学ぶことを止めていない」と答えた。子貢は馬車に乗って乗り付け配慮に欠けた質問で困窮してはいても気位の高い友人の心を傷つけたことを生涯悔やみ続けたという。

 宮本武蔵は「我(われ)事におゐて後悔をせず」だった。普通は誰でも悔みの種を幾つか抱えているものである。諺は「後悔先に立たず」と後になって悔やんでも無駄だと説いているがカウンセリングの専門家によれば後悔は人を改善進歩させる肯定的要素のある感情だという。然し問題は無益か有益かではない。それが人を苦しめることにある。夜中寝床の中でふと思い出し何故あんなことを「言ってしまったのか」「やってしまったのか」と悔やんで煩悶の呻きを漏らすことがある。悔恨の対象の多くは二度とこない状況での出来事であるのでやり直しも謝罪弁解もできない。それが辛く苦しい。あった事はなかった事にできず忘れられればいいがつい思い出してしまう。ただ、時が経つにつれ思い出す頻度は少なくなる。その度に棘に刺されたように心が痛むことに変わりないが過去にそうあった自分も自分そのものであると認めて折り合えば棘の先も和らいでくる。

 怒りも悔恨と同じである。酷い目にあうと忘れられず他人から見れば些細なことでも思い出しては憤慨する。外国の任地でのことだったが高価であり想い出もある大切にしていた美しいガラス製品の端が欠けてしまった。修理に出して受け取りに行くと本体の方にも修繕のあとがある。店が誤って傷つけたのである。もう置物にならない。店主は初めから壊れていたと言い張り証拠も証人もなくらちがあかない。正直に謝れば勘弁のしようもあったが土地に不慣れな東洋人と見て平然と嘘を繰り返す。結局、もち帰るしかなかった。怒りはあなどりを受けた時のものが最も強いと本にあったがその通りだった。その後何年もの間記憶が戻る度に憤恨の苦さを味わった。

 アインシュタインは人間の邪悪さに対する怒りで憂鬱になった時は「結局これは小さな星のことなのだ」と言って自からを慰めたという。宇宙は大きさが450億光年で地球はそこに漂う小石のような星である。宇宙の視点に立てば人間は砂粒の上の眼にも見えない埃である。その成すこと感じることは小さなことに思えてくる。憤懣を飲み込むための負け惜しみの理屈のような気もするが、そう考えれば少し気が楽になるのは確かである。

(注)このホームページに掲載された「余談雑談」の最初の100回分は、『大使館の庭』と題する一冊の書籍(2022年4月発行、ロギカ書房)にまとめてあります。