第79回 謝罪と和解

元駐タイ大使  恩田 宗

 「謝罪は常に遅すぎる」。先の大戦で日本軍の捕虜となり泰緬(タイ・ビルマ)鉄道の建設に使役された英軍将校E・ローマックスの未亡人が2014年東京でJT紙に述べた言葉である。謝られても元には戻らない、その心があるなら何故あの時という思いが込められている。
 
 あの時日本軍はビルマ作戦のため山脈越えの延長415㌔の兵站鉄道を建設すべく死にもの狂いになっていた。1万余の日本兵が約6万の連合軍捕虜と推定十万以上のアジア人労務者を使っての工事だった。食糧・医薬品・衣料は欠乏し資器材は原始的なものしかなく悪天候や悪疫の流行や地質的障害などに見舞われた。極悪の条件の下にあったが大本営に叱咤され1年そこそこで開通させたのである。その無理がたたり捕虜は死者が1万2千余人(死亡率20%)に上り労務者は4万数千(ほぼ50%)にもなった。日本兵も死者10%であった。欧米で枕木1本人1人とか「死の鉄道」とか言われる所以である。生き残った捕虜もその6割が病人だった。

 犠牲者が多かった最難関工区を担当した弘田栄治小隊長は戦後絞首刑に処された。心根優しい人だったが「連隊全滅するとも強行突破」との訓示に忠実だったのである。遺書に「祖国の為に誠心命令を尊奉した」とある。泰緬鉄道関係で死刑になったのは32人でその他BC級戦犯として刑死した人は9百人を超える。その中の1人の学徒兵木村久夫上等兵の辞世の歌はこうである。朝かゆをすすりて思うふるさとの父よ許せよ母よ嘆くな。

 捕虜達の体験記は英国で3百を超えるらしい。何冊か読むと受けた扱いの苛酷さとそれへの恨みの強さにいたたまれなくなる。E・ローマックスも晩年になり回想録「癒される時を求めて」を書いた。憲兵に拷問され帰国後も恐怖と怒りと復讐の念が何時までも消えず過去との折り合いが付けられないことに苦しみ続けたという。しかし恨みの対象とした憲兵隊の永瀬隆通訳が犠牲者の慰霊と贖罪にその後の半生を捧げていることを知り1995年現地のカンチャナブリで再会し和解するに至る。回想録は「憎むことはいずれやめなければならない」との文で終わり読む者をほっとさせる。恨み憎む苦悩から解放されたいと願う被害者は多い。謝罪では元に戻らないが謝罪を受け入れることができれば対話が始まり対話は和解への扉を開く。
 
 永瀬ローマックスの2人とも故人となった。日本企業の40歳前後の中間管理職40人に泰緬鉄道につき尋ねると半数が「全く知らない」と答えた。「聞いたことがある」と「知っている」が残りの半々だった。今現地は観光地になっている。クワイ河鉄橋や犠牲者墓地や博物館を訪れた後に懸崖沿いに走る列車旅行を楽しむという趣向である。列車の中にはあの悲惨な過去の陰はなく乗客は謝罪の話も和解の話も知らないようであった。