2024年:日本外交の「バージョンアップ」は可能か


外交政策研究所代表 宮家邦彦

愚者は経験から学ぶ

 筆者の好きな言葉が二つある。「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」「歴史は繰り返さないが韻を踏む」がそれだ。人間の経験はせいぜい数十年だが、歴史には数千年の人類の知恵の蓄積がある。歴史では時に似たような事象が形を変えて繰り返されることも少なくないようだ。
 最近筆者は、「2020年代の中国」を「1930年代の日本」と比較し、その類似点と相違点から学ぼうとしている。共通点は「東アジアでの強力な新興国が台頭し、米国のパワーを見限り、武力を背景に新たな国際秩序樹立を追求するも、国際的孤立で試みは失敗する」ことではないか、というのが筆者の仮説だ。

欧州と中東での「抑止の失敗」

 筆者の基本認識は、いま世界で、とてつもなく大きな国際情勢の地殻変動が起きているのではないかとう懸念だ。近年世界、特に欧州と中東では、「現状維持勢力」が「現状変更勢力」の抑止に失敗し続けている。当然、こうした潮流は、遅かれ早かれ、インド太平洋にも到達する恐れがあるだろう。
 ロシアによるウクライナ侵略は、「欧州の勢力バランス」を不可逆的に変えた。プーチンの戦略的判断ミスで、ロシアは、NATOを再結束させ、ウクライナという民族国家を「再生」させ、東欧の対露警戒感を高め、北欧諸国全体をNATO化し、結果的にロシアを弱体化させたのである。
 中東についても同様だ。米軍アフガニスタン撤退前から中東各国は米国の関心がインド太平洋に移ることを本能的に悟り、米国の政軍的関与が減ることを前提に、各国の国益を最大化するため、地域の新秩序構築に向け主導権争いを始めたと筆者は見ている。
 その典型例がイスラエルとアラブ首長国連邦等との関係正常化、サウジ皇太子の新政策、トルコとサウジの和解などだ。昨年10月のハマスによる対イスラエル奇襲攻撃は、正にこうした関係正常化の流れを潰すための意図的行動であり、イスラエルと米国はハマスとイランの「抑止に失敗」したのだ。
 以上の分析が正しいとすれば、今や「現状維持勢力」は「現状変更勢力」の企みの「抑止」に2度も失敗している、ということだ。欧州戦域で2022年にNATOはロシアの抑止に失敗し、ウクライナ戦争が勃発した。中東戦域では2023年に米国とイスラエルがハマスとイランの抑止に失敗し、ガザ紛争が再燃した。これらは単なる偶然ではない。むしろ、起こるべくして起きた事件ではないのか。
 そうだとすれば、次に懸念されるのはインド太平洋戦域ということになる。それが「台湾有事」と言うつもりはない。欧州戦域と中東戦域で「抑止に失敗」した理由はそれぞれ別であり、仮にインド太平洋域で現状維持勢力」が中国抑止に失敗するとしても、それが即「台湾有事」になるとは限らないからだ。

インド太平洋地域の現状

 習近平政権が三期目に入り、中国の対外姿勢、特に台湾政策が一層強硬になりつつある。米国は日米韓の連携を強化し、ASEAN諸国との関係を格上げするなど対中抑止政策を強化している。1月14日の台湾総統選挙では、中国に擦り寄らず、日米などとの連携を通じて現状維持を図る「民進党」が勝利した。
 一方、中国は成長鈍化、不動産バブル崩壊、若年失業増大などに対し、経済原理よりも政治的イデオロギーを重視するあまり、適切なマクロ経済諸政策を実施できないでいる。このまま中国経済の低迷が続けば、国内社会の不安定化と対外強硬策への誘惑が増大し、日米による対中抑止は更に困難となりかねない。
 それにしても、何故このようなことが世界各地で起こるのか。もし欧州と中東で既に抑止が失敗し、それがインド太平洋にも波及しかねないとなれば、その理由は、個別の外交的戦術の失敗ではなく、各地域外交戦略、とくにそのアルゴリズムが新たな国際政治の実態に適合できていないからであろう。

各地域外交のバージョンは適切か

 ここからは、今回筆者が執筆を最も躊躇した部分だ。外交は継続であり、時々の外交戦略には当時実務を担当した尊敬すべき諸先輩たちが深く関与している。当時も彼らは真剣に議論し、分析し、判断したはずであり、その結果採用された外交政策にもそれぞれの背景や理由があったと思うからだ。

そうした外交戦略が正しければ、外交は比較的スムースに進むだろう。他方、もし関係国の意図や能力が大きく変化したり、思ったような外交的結果が出せなくなれば、当然その戦略は見直されるべきである。本稿で筆者は、そのような外交政策の戦略的修正を「バージョンアップ」と呼ぶことにする。
 本稿では、日本の主要外交政策のバージョンの変遷をごく簡単に振り返りながら、今後のバージョンアップの可能性を、あくまで筆者の独断と偏見に基づき、敢えて批判を恐れずに、書いてみたい。以下は、第二次大戦後の日本外交の諸政策に対する批判では決してないので、念のため。

対米外交

 筆者の見立てでは、「対米外交バージョン1.0」は米軍占領のあった1945-60年の時代だ。その後バージョン2.0が日米安保条約改定から湾岸戦争までの1960-91年、3.0が湾岸戦争から尖閣事件までの92-2012年であり、現在は第二次安倍政権以降の安全保障政策見直しを進めたバージョン4.0時代である。
 冷戦時代の対米外交はほぼバージョンアップ不要だったが、湾岸戦争後、世界各地で安全保障環境が激変し始めてからは対米外交バージョンアップは頻度を増している。幸い、政官学メディアを含む日本外交の関係者の問題意識は、国際安全保障環境の急変に何とか追い付いているからであろう。

対中外交

 対米外交のバージョンアップが比較的円滑に進んだのに対し、対中外交はバージョンアップが遅れ気味だ。中華人民共和国と正式な関係がなかった1945-72年がバージョン1.0だとすれば、1972年以降の「日中友好優先」のバージョン2.0以降、日本の対中外交のバージョンは基本的に変わっていない。
 米軍がフィリピンから撤退し、中国が南シナ海の領有化を宣言した1992年以降、中国の対外政策は徐々に変化し始めた。本来ならば、それに応じて対中外交もバージョン3.0に移るべきだったのかもしれない。ところが実際には、同年に「天皇訪中」が実施され、従来通りの「対中宥和戦略」が踏襲された。
 2010年と12年の尖閣事件により、日本は漸く3.0へのバージョンアップが進むかと思ったが、当時の民主党政権は腰砕けてしまった。その後、第二次安倍政権の対中政策では対話より抑止が重視されるようになったが、それでも、現在の対中政策は昔ながらのバージョンを踏襲する、「バージョン2.888(?)」に止まっているように見える。但し、それが間違いだと言い切る自信はないのだが・・・。

対露外交

 対露外交のバージョンにも紆余曲折があった。1945年から56年の日ソ共同宣言までがバージョン1.0だとすれば、ソ連が領土問題「不存在」を決め込んだ1956-91年は2.0だ。それ以降、ゴルバチョフが領土問題「未解決」を認めた91年以降がバージョン3.0だとしても、現バージョンは正直良く分からない。
 振り返ってみれば、第二期安倍政権時代の日本の対露外交を「バージョンアップ」と呼ぶべきか、すら疑わしい。仮に「バージョンアップ」が関係国の意図と能力や国際情勢の変化に対応した「外交アルゴリズムの進化」だとすれば、プーチン時代にロシアの立場は結局、全く変化しなかったからである。
 関係当事者の方々には失礼だが、プーチンの安全保障観は常に西側のNATO方面を向いており、東の中国を脅威と見做す意図も余裕もなかった。そうであれば、安倍政権時代の対露外交にどの程度冷徹な対露分析や戦略的見通しがあったかについては、将来の歴史家が判断すべき命題であろう。

対中東外交

 一番歯痒いのは対中東外交だ。1945-73年は、原油・ガス輸入確保政策はあっても、実質的に対中東外交がなかったバージョン0.0時代である。そうだとすれば、現在も日本の対中東政策は「アラブ原油禁輸」の悪夢を引きずった1973年以降のバージョン1.0のままではないのか。
 確かに、中東和平プロセスが動いた1993年の「オスロ合意」以降の時代には、一時日本の対中東外交も2.0へのバージョンアップが図られ、イスラエルとの関係改善や和平プロセスへの関与を進めたこともある。ところが、最近の「ガザ紛争」をめぐってはバージョン1.0への「先祖返り」と見紛う動きすら散見された。

外務省現役職員へ

 諸先輩を差し置いて外務省現役職員の皆様に偉そうなことを言うつもりは毛頭ない。ただ、現在日本を取り巻く国際環境は急激に悪化しており、これまでの旧バージョン外交の部分改訂では全く乗り切れない状況になりつつあるような気がしてならない。
 されば、是非とも現役の皆さんには、①賢者は歴史から学ぶ、②現状と理想を区別する、③政治との関係に注意する、ことを肝に銘じて頂きたい。①については説明済だが、②については、「対外関係のあるべき姿(理想)を追い求めても、相手にその意図がなければ目的は実現しない」ことを忘れないでほしい。
 ③については特に今後留意する必要がある。米国ではトランプ再選の可能性すら否定できず、仮にトランプ氏が再選されなくても、「トランプなきトランプ現象」が米国社会の分断を一層深刻化させる恐れは大きい。この点は要注意である。
 同様のことは、日本の内政についても言える。安倍元首相暗殺事件以降、日本内政は政治の「ハブ」を失い、「受け皿」なき「迷走」が始まっているようにも見える。こうした内政上の動きに振り回されず、日本の中長期的国益を最大化できる選択肢を常に政策決定者に提供し続けていただければ幸いである。