最近のイラク情勢


駐イラク大使 橋本 尚文

1 はじめに

 2003年のイラク戦争以降も、宗派間闘争としての内戦(2006-07)やイスラム過激主義勢力ISILの台頭(2014-17)、そして直近の反政府大衆デモ発生並びに米国とイランの対立がイラク国内で具体的な衝突となって現れる(2019-20)など、現在に至るまでイラクの治安情勢が落ち着く兆候は依然見えてこない。

 2018年夏よりイラクに赴任した際、IS掃討作戦も終了し今後治安情勢は改善する見込みで、バグダードでの勤務体制も順次平常化させ、日本とイラクの経済面での協力関係を官民一体となって推し進めていくべきとの一般的な引き継ぎを受けた。実際には、バグダード赴任直後からIZ内の米大使館への迫撃砲攻撃、南部主要都市バスラ住民の反政府デモ、イラン、米それぞれの総領事館への攻撃等の発生を目撃し,それ以降邦人企業の方々を含めイラク国内での活動は引き続き治安面での脅威の下制約を受ける状況が続いてきている。

2 イラク情勢を左右する域内冷戦のダイナミックス

 現在及び今後のイラク情勢を正しく理解するためには、イラク国内の各プレーヤーの複雑な動きに加えて、その動きに双方向で連動するイラクを含む域内冷戦のダイナミックス、特に米国とイランの対立の行方を押さえておく必要がある。

 2018年5月トランプ政権はイランとの核合意から離脱し、2019年5月にはイランの原油輸出を差止めるより広範な制裁を発動し、いわゆる「最大限の圧力」政策を通じて、核合意に加えミサイル開発やイランによる「シーア派の弧」諸国内の代理勢力を通じた域内介入停止をも含む、新たな合意に向けた再交渉を迫った。イラン側はこの米国の措置に対して、核合意におけるイラン側コミットメントの段階的解除や、域内の米国権益や米国と連携する域内諸国への限定的攻撃による圧力をテコに、核合意メンバー欧州諸国の経済的代替措置要求、イランへの制裁圧力削減、「抵抗経済政策」を通じた国内経済運営の維持を図り、米国との交渉再開に応じない姿勢を維持してきている。こうした米国とイランの緊張関係が継続する2018ー19年に、ISILの脅威が後退したからといって、イラク情勢の好転を期待することには本来無理があったと言うべきである。

3 イラク国内の情勢 

 複雑と言われるイラク国内の主要プレイヤーで、2019年10月以降の反政府大衆デモが継続する中、現在および今後のイラク内政における主要なグループは大まかに以下のとおりである。

(1)各派政治エリート

 2018年の国民議会選挙を経て成立したイラク政界地図は、シーア派、スンニー派、クルドという宗派・民族毎に団結し対抗する従来の状況とは異なるものとなっていた。シーア派各政党・政治ブロックが「改革・復興連合」と「建設連合」の2つの陣営に分かれて対抗すると共に、スンニー派内でも旧来の政治家の率いる伝統的政党グループと若手スンニー派政治家によるグループに分かれ主導権争いをし、クルドも従来のKDPとPUK、その他の小規模政党グループが対抗しつつ、それぞれの宗派・民族の中で優位となるべく、宗派・民族のラインを超えて合従連衡する状況が生まれていたと言える。

 これを宗派・民族主義を克服したイラク政治の成熟の証と説明するイラク政治家もいたが、実態はシーア派内分裂・対抗の流れの中で、スンニー派、クルドそれぞれの各勢力が自己利益最大化のために、シーア派内の各グループと連携することで、宗派・民族主義的構図が後退していただけであった。

 そしてイラク政治の特徴として、各政党・政治ブロックは原則全て与党として、閣僚ポスト、各省庁幹部ポストを分け合い、それを通じて国家予算の一部を「非公式に」配分させるという、いわゆる「利益分配共有(ムハーササ)」体制は今日まで維持されている。こうして真剣で実効性のある野党が不在の中、非効率な行政、汚職、その結果として経済投資活動の遅延・停滞、若年層の失業問題拡大、電力・水供給といった公共基本サービスの不足などの課題を、これら政治エリートは解決することなく、2019年10月1日より、それまでに既に繰り返し発生していた反政府デモが大規模かつ継続的な形で発生することを招来することとなった。

 とりわけこれら政党・政治ブロックの中には、2018年国民議会選挙でISILの脅威からのイラク解放に功績のあったとされる人民動員部隊(PMU)を基盤とする政党・政治ブロック(「改革・復興連合」のサドル師率いるサーイルーン,「建設連合」のアーミリー氏率いるファタハ他)が議席を伸ばし、首相候補,閣僚選出などイラク政治を牛耳る状況が現出した。更にはこれらシーア派PMUの一部はスンニー派地域での部族グループとの軋轢を生んだり、一般ビジネス活動への介入を行うなど、イラク社会での緊張を生み、民間セクターによる経済活動を阻害する要因となっている。

(2)シーア派最高宗教権威

 イラクはナジャフ、カルバラ,バグダード,サーマッラというシーア派イスラム教聖地を擁し、国境を超えて世界中のシーア派イスラム教徒を率いる指導者であるシスターニ師がいる。同師の立場は、イランの「法学者の統治(ウィラーヤト・ファキーフ)」の考え方とは一線を画し、あくまで政治不介入を基本とするとされる。これは一切政治的発言をしないということを意味せず、2003年以降イラク政治の重要な局面で、大きな政治的指針をイラク社会に示してきている(2005年国民議会選挙実施、2014年ISIL掃討のための人民動員部隊創設など)。そしてこの立場をめぐって、イラン宗教指導層とは常に緊張関係にある。

 今般の反政府大衆デモが発生した昨年10月以降、ほぼ毎週金曜礼拝後にシスターニ師の訓話が発表されてきており、特にデモ隊の側に立った、早期国民議会選挙実施と政治改革、汚職対策、デモ隊への暴力的取り締まりとデモ隊殺傷批判や責任追及に言及し、イラクの既存政治勢力への強い牽制を行ってきている。上述のシーア派政治勢力も、このシーア派宗教最高権威の発言に反することは出来ず、シーア派宗教最高権威は今後のイラク政治の方向づけに大きな影響力を依然保持していると言える。

(3)反政府大衆デモ勢力

 上述の各政治勢力の妥協の上に成立したアブドルマハディ政権樹立1周年を迎えた2019年10月1日、バグダードを含むイラク中南部各地で失業対策、公共サービスの提供を求める若者層や貧困層を中心とするデモが発生。治安部隊による暴力的な取り締まりによりデモ隊側に今日までに500名以上の死者が出る間、デモ隊側の要求は首相の辞任や国民議会解散,既存の政治エリートの追放等の抜本的な政治変革を求める動きも出てきている。当初今回のデモは自然発生的なものであり、明確な指導者不在のデモと言われた。しかし時間の経過とともに、いわゆる改革志向の知識層・学生、若者層を中心とするグループに加え、大衆動員力のある政治グループ(サドル派)やその他の政党グループ、当局の暴力的取り締まりに反発する広範な大衆・部族グループも、それぞれの思惑のもと参加するようになり、デモ開始以来既に4ヶ月を超える抗議活動を継続している。今回のデモ発生によりイラクの政治はそれ以前とそれ以後で全く異なる状況になったと言われるとおり、今後の暫定政府樹立、早期選挙実施などの移行政治プロセスの進行の程度に左右されながらも、この大衆デモ勢力は引き続き大きな政治的圧力を既存の政治勢力に及ぼすこととなるとみられる。

(4)域内・域外外国勢力 

 分裂と合従連衡する既存の各宗派・民族政治勢力と、これに抵抗する大衆デモ隊との緊張関係が続く現在のイラク情勢を左右するプレイヤーとして、域内・域外の外国勢力は見逃せない。2011年末の米軍のイラク撤退以降影響力を拡大してきたとされるイランは、2014年以降台頭したlSIL掃討のためイラク治安機関を支援する過程で、イラク国内のシーア派を始めとする政治・武装勢力への影響力を更に拡大したと言われる。そして冒頭で述べた通り、イランが2019年以降の米国による「最大限の圧力政策」に対抗する上で、イラクはイランにとって政治、防衛、経済等の面でのアセットとして重要性を増している。米国にとっても、中東湾岸地域の安全保障,対イラン政策の観点からイラクにおける政治・治安面でのプレゼンス維持は重要である。こうした双方の思惑から、イラン及び米国は、現在進行中のデモ隊の改革要求を受けたイラク政治勢力による移行政治プロセスの動向を見守り、かつ自らの戦略的目標実現のために必要な措置を講じていると見られる。特に、2019年末から2020年初めの米国とイラン並びに親イラン代理勢力とによるイラク国内における武力衝突・報復合戦を契機として、既に十分複雑で困難なイラク移行政治プロセスに更なる不透明要因を追加していると言える。

4 イラクの本来の課題

 2003年のイラク戦争以降17年の時が過ぎてもイラクの政治・治安情勢は依然十分には安定せず、それゆえにイラクが抱える戦後復興、経済開発という本来の課題への取り組みにも本格的な前進の道筋が見られないでいる。

 イラクも湾岸の他の産油国と同様、気候変動を受けた脱炭化水素エネルギーの流れの中で原油をこれまで通り輸出できるのは2035年くらいまでと言われる中で、農業、観光も含めた産業の多角化を急速に進める必要性に迫られている。そして現在のデモ隊も、汚職撲滅や政治改革に加えて、雇用促進を最大かつ根本的要求として掲げている。毎年100万人の人口増が進むイラクにおいて,これらの本来の課題に迅速に対処するためには、現在の政治的混乱を続けている余裕はないはずである。

 上述のイラク情勢を左右する主要プレーヤー達はこうした時間的制約を踏まえ、まずは2019年10月からの大規模大衆デモに始まる政治的混乱を、「国民の要求に応える形で」迅速に解決する必要がある。これに失敗すれば、イラク国内の政治的混乱は更に増幅され、経済開発・復興も更に遅れることとなり、国家としての安定すら脅かされる危険がある。その意味で,イラクは現在,最大の危機を回避できるか否かの重要な岐路にあると言うべきだろう。

以上