第73回 過去の思い出

元駐タイ大使 恩田 宗

 若かった頃は先のことばかりを気にして過去を振り返ることなどあまりなかった。年とるにつれ自分のしたこと経験したことを想うことが多くなった。当然である。過去が長くなり先に考えられ得ることより遥かに多くのことがそこに詰まっているからである。

 過去は心の中で独り回想しているだけであれば問題はない。然し他人(ひと)に話したりものに書いたりする時は注意を要する。ノンフィクション作家の保坂正康によれば昭和史の調査で四千人から話しを聞いたが後で調べると本当のことを言った人は1割で最初から嘘をついた人が1割残りの8割は悪気があった訳ではないにしてもその記憶は操作され美化されていたという。英語にmemoirist(回想記作家?)という言葉があるらしいが其れを名乗るA・アシマンはこう言っている。過去を書くことは過去を正当化することでありニュートラルな行為ではあり得ない、人は現実にそう在った自分というより本当はこうである自分を書き残したいのである、その為事実は曲げないにしても自分として耐え得る様に修正する、過去を書くのは結局人生のセカンド・チャンスを求めてのことになる、と。

 「福翁自伝」は福沢諭吉65歳の時の口述で自伝としては「折りたく柴の記」に並ぶ名著とされている。然し近代史家の服部之総は日本人が「ぜひ一度は読んでおくべき本」だとしつつもその中身は「うそとまこと」のこきまぜだと書いている(「黒船前後」)。

 こうした厳しい専門家が相手でなくても過去を語る時は人の記憶がひどく頼りないものであることは知っていていい。記憶は時とともに薄れるだけではなく変様する。いつの間にか都合のいい方向に変化し本当だと思いたくなるような実際にはなかった細部まで付け加えられていることがよくあるらしい。

 過去には幸福感や誇りをもって想えるものもあるが悔恨や羞恥、怨みや怒りなど負の感情を掻き立てるものもある。皮肉なことだがそうした苦い味のする想い出ほど記憶から消え去らずふとしたことで思い出し気を滅入らせる。新聞の人生相談欄を見ていると過去から逃れられず煩悶する人の話が数多く掲載されている。過去の出来事で苦しみ悩まされる人の数は想像以上に多くその苦悩の執拗さは他人の理解を超えて強い。

 美智子皇后陛下が詠まれた歌の中に「かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいずこに行きけむ」というのがある。列車の窓から遠くの山々を眺める時のように落ち着いた静かな心で全ての過去を想うことが出来たらと思うことがある。それが現在をあるが侭に受容することに通じるのではないかと思う。