聖火がやって来る —その由来と今後の課題—


日本オリンピック・アカデミー会長
日本障がい者スポーツ協会(日本パラリンピック委員会)評議員
元駐ギリシャ大使 望月 敏夫

 

聖火・聖火リレーの由来

 もうすぐ東京オリンピック・パラリンピック大会です。その始まりが五輪のシンボルとして発祥地ギリシャのオリンピアで採火される聖火と聖火リレーですが、130年余の近代五輪の歴史の中で初めからあったものではなく、途中から導入されたものです(聖火は1928年アムステルダム大会から、聖火リレーは1936年ベルリン大会から)。近代五輪がお手本とした古代オリンピックでは、大会の期間中に神々に奉納したかがり火が会場を照らし(今風にはライトアップ)、また4年に一度の大会開催と「オリンピック休戦」をギリシャ全土に告げて回った伝令使が松明(たいまつ)を道中使ったと言われています。それは神話と史実が一緒くたになった世界でした(ここからロマンが生まれます)。従って、近代五輪の聖火・聖火リレーは、大会の華マラソン競技が古代のマラトンの戦いの故事になぞらえて“復活した”と言うのと同じで、“現代の創作イベント”と言えます。

 聖火リレーの方は、ナチスドイツが国威発揚のために政治利用した1936年ベルリン大会で始まったという、特異な誕生の経緯があります。オリンピアで採火された聖火は3千人余のリレーで北上しベルリンに入りましたが、これが後の南欧侵略ルートと重なりました。このため、第2次大戦後の五輪大会では聖火リレーの存続に異論が出ましたが、五輪に花を添え盛り上げる効果を惜しむ声も多く大会ごとに盛んになりました。

オリンピック憲章における扱い(聖火、トーチ、聖火リレー)

 五輪の憲法に当たるオリンピック憲章には「オリンピック聖火」および「オリンピック・トーチ」という名前で規定されています(第1章規則13)。その意義・目的に関する明示的規定はありませんが、聖火とトーチは五輪シンボル(五つの輪)、五輪旗、五輪賛歌等と並んで規定されているので(規則8~14)、目的論的に解釈すると、「五輪を代表しその象徴」たる地位を与えられたと言えます。

 また、聖火やトーチは「五つの輪」等とともに「オリンピック資産」と名付けられ、「IOCが独占的に権利を行使する」とされて、聖火は「IOCの権限の下で」採火され、トーチも「IOCが承認するもの」とされています(規則7と13)。諸権利から生じる収入に対するIOCの執念の表われです。

 聖火リレーについては、聖火の使用に関する第5章規則54に、IOCの諸規則に従って実施すべしとの手続き的規定が一言あるのみです。(憲章は条文として精密さを欠く部分が多くあります。)

聖火・聖火リレーの発展と変容 —「国際ルート」の廃止

 聖火・聖火リレーは盛んになりましたが、皆に歓迎されるように趣向を凝らすパフォーマンスがエスカレートして、華美化、政治化および商業化という副作用が出て来ました(五輪全体が直面する課題と同根)。コロンブスの米大陸発見ルートリレー(メキシコ大会)、海中リレー(シドニー大会)、エベレスト登頂(北京大会)、宇宙遊泳(ソチ大会)等が種火をランタンに入れて行われました。私(本籍山梨)も悪乗りして山梨リニア実験線で運んで日本の科学技術をPRしたらと提案しました(結果は却下)。皆が楽しみ健全なナショナリズムを鼓舞するのは良いことですが、大会開会式・閉会式と同様に華美化は五輪経費節約の大原則に反し、さなきだに五輪離れが世界的で広がる中で逆効果です。

 人気の高い聖火・聖火リレーは、政治宣伝の絶好の機会で、五輪開催国が国威発揚(語感は良くないですがそれ自体は当たり前の政治・外交行為です。政権や政策の正統性が問題)に利用したり、逆に、反対派が示威行為を行います。特に2008年北京大会はチベットや人権問題に絡むリレー妨害が世界中で多発し、とうとうIOCは国際ルートを廃止し、採火国ギリシャと開催国の国内のみとしました。その後も地政学的リスクや地球規模課題に絡み政治がスポーツに関与する事例が増えているので、やむを得ないでしょう。バッハIOC会長が今年の年頭の辞で東京大会を念頭にオリンピックの“政治化”への懸念を表明したのもこのためです。

 商業主義による弊害も看過出来ませんが、五輪を支えるスポンサー企業との関係で微妙な問題です。

日本大使館に一泊した聖火

 聖火は山に登り海に潜り宇宙にまで行きましたが、私が館長の時に聖火が大使館に一泊した“事件”がありました。2004年アテネ五輪で日本がアウェー史上最多の金メダル16個を取りホッとしていた時の翌年です。長野で開催されるスペシャル・オリンピクス(知的障がいのある人達の五輪。SO)冬大会も通常の五輪と同じく、聖火がオリンピアで採火されアテネから航空機で日本に運ぶ予定でした。ところが急に欠航になり一晩日本大使館で預かれないかとの話が舞い込んできました。大事な聖火が消えたら困りますし、新築の大使館建物の安全も考えて、官僚的ですが前例がないと言って断ろうとしたところ、「大使、大変です。聖火がもう大使館に向かっています」という知らせがあり、やむなく引き受けることにしました。大使館での簡単な引継ぎ式では、燃えるトーチは神聖だから、突っ立ったままでなくてオリンピアの巫女のように片膝ついて受領するよう注文があり、私は恥ずかしながら格好をつけて受け取りました。聖火はランタンに収められ安全に宿泊し、翌日無事に日本向けに送り出しました。

 SOは知的障がい者の自立と社会参加を目指しユーニス・ケネディー・シュライバー女史(ケネディー大統領の妹)が始めた運動ですが、私もこれに賛同し手伝いました。ケネディー家ゆかりの人達やギリシャ選手団を招き大使公邸で壮行会をした時ですが、若い選手たちの明るい顔と活発な行動が印象的でした。これは障がい者がスポーツに取り組む効果であるとともに、周りの社会も彼らにごく普通に接し日常の社交の場などにも連れ出すからです。日本も早くこの域に達したいものです。

なぜ人々(特に我々日本人)は聖火に惹かれるのか。 

 我々が聖火・聖火リレーを含め五輪に惹かれエキサイトする理由としては、教科書的な説明ですが、①運動・遊戯・競う喜び ②儀式・信仰 ③祝祭・お祭り ④豪華ショー・スペクタクル・劇場性等の非日常性にあるとされています。実感としてもそうです。

 まず、これらに共通する根源的なものは、「火、火炎」ではないでしょうか。そこには人間が生まれながらに持つ火に対する畏敬の念があり、世界の諸宗教の儀式や各地の世俗的な火祭りに現れています。オリンピアの採火式で秘儀の後に古代遺跡から出て来るトーチの火に確かに神々しいものを感じます。

 次に、本来五輪は欧州をルーツとするイベントですが、嘉納治五郎等の明治の先達が日本の近代化の過程で「西洋モデル」の一つとして受容し根付きました。従って聖火を見る我々の心の底には西洋の文物への好奇心や異国趣味があると思われます。

 更に、日本人の平和志向との結びつきです。「平和の祭典」という五輪の位置づけは、古代オリンピックが「オリンピック休戦(平和休戦“エケケイリア”)」の制度のおかげで千年以上も続いた史実があるからです。実効性はともあれ、五輪休戦による国際平和の呼びかけは五輪のたびに国連総会で決議しています(日本は常連のスポンサーです)。国民体育大会、全国障がい者スポーツ大会等でも炬火と炬火リレーがあり平和を呼びかけています。前回の1964年東京五輪で聖火台に点灯した最終走者が広島原爆の投下日に生まれた坂井義則選手だったことや、それに先立つ聖火リレーをアジア諸国に回したのも、平和国家日本を発信する意図とされています(ただ、懺悔中心になると歴史的合理性を欠きますが)。

 もう一つ日本人の聖火リレー好きは、駅伝競走から来ると思います。箱根駅伝抜きで正月を過ごせませんが、私がボストンに勤務中に、有名なボストンマラソンのほかに、日本式の駅伝(英語だとエカデンと聞こえます)をやりたいとして情報提供依頼があり協力しました。その後ボストン・エカデンが根付いたかどうか話題になりませんが、これは日本人の集団主義vs欧米人の個人主義の違いかも知れません。

聖火の「聖」は原文には無い―「五輪」の訳とともに翻訳の妙

 「聖火」という語は日本式“意訳”の典型で、日本人の五輪意識を反映しています。上述の五輪憲章の原文では、仏語(第1公用語)でFlamme Olympique、英語(第2公用語)でOlympic Flameとしてあるだけで、「聖」に当たる語(例えばSacré とかHolly)はどこにも付いていません。直訳すると「五輪の炎」又は「五輪火」です。誰が何時から「聖火」を使い始めたのか、詠み人知らずです。欧州の諸言語にも「聖」の語が訳出されている例はないそうですが、これは、長い歴史的経緯を経て欧米に定着した民主主義の基本のキである政教分離、世俗性(laicité )の原則が五輪にも反映しているからでしょう。

 ところが日本では、古代ギリシャにまつわる故事にならって聖性や神秘性を込めて意訳し、ギリシャ人と同じ多神教的背景を持つ日本人がこれをごく自然に受け入れたと言えます(本当の信仰心とは無関係でしょう)。一方、日本語の「聖」の語の多義性のせいで聖性を越えた世俗的用法も一般的で、オリジナル、正統性、あこがれと言った意味で「聖」が多用されています(例えばテニスの聖地ウインブルドン、武道の聖地日本武道館)。我々は「聖火」の語の中に聖性と俗性の双方がある故に好んで使っているのだと思います。

 翻訳の話の余談ですが、「オリンピック」のことを「五輪」と言うのも今や一般化して誰もが使っていますが、1936年に読売新聞社の川本信正記者が考案したとご本人が述べています。本社の整理部から見出し用の簡単な訳語を求められた同記者は、①オリンピック・シンボルの5つの輪 ②発音、語呂の類似性 ③宮本武蔵の兵法の著作「五輪書」になぞらえて訳出したそうです。武蔵まで良くも思いついたと脱帽です。東京大会の目玉の「レガシー」も誰か上手く訳せませんか(「遺産」では舌足らず)。

 因みに、同じ漢字の国の中国ですが、私のゼミの中国人学生によれば、「五輪」は使われず、奥林匹克運動会の略語の「奥運」(簡体字)が使われています。「聖火」は日本からの直輸入で同じです(簡体字)。

2020東京大会の聖火・聖火リレー —その体験をレガシーに。

 概ね1万人の聖火ランナーが121日間かけて全国隈なく回るので、各国選手団を迎えるホストタウン(オリ・パラ含め全国で478自治体、163国・地域)や競技会場の地方分散と相まって、地域社会に大きなインパクトを与えます。自治体の研修会等で私が説明していることですが、①地域のスポーツ振興 ②五輪精神の伝播・教育 ③地域ブランド発信(但し五輪を過度に「復興」と結びつけることは違和感があります) ④経済、観光 ⑤国際交流・国際化など、地方創生効果が期待出来ます。

 重要なことは、一過性でなく大会後のレガシーとして活かす努力です。2002年サッカーW杯で強豪カメルーンの合宿地として、村長さんから小学生まで仏語やアフリカ問題を学習した大分県中津江村は、18年後の今も交流が盛んです。広報と宣伝(偽を含む)が飛び交う国際社会では地道な国際発信や交流が国益となり外交上も重要です。

 フェアプレー精神、寛容、友好等の五輪精神は、抽象的概念の説明よりも聖火リレーを契機に肌で学ぶことが出来て絶好の教育機会です。

 パラリンピック大会では、パラスポーツの振興、共生社会、障がい者の地位向上を目的に短い期間でも多くの国民に触れてもらうため、独自の方法でパラ聖火の採火とリレーを行います。近年オリとパラは統合化が基本的流れですが、パラには独自性も重要です。

2020東京、2022冬北京、2024パリ、2028ロスそして2030札幌(願わくば)—希望の10年へ!

 これからの10年もエキサイティングなオリパラ大会が続きますが、内外で課題も山積です。近年の流れは、新興国五輪と先進成熟国五輪の繰り返しですが、東京大会は五輪改革と再生への転換点として、パリとロスに引き継ぐ重要な任務があります。このため多数の新機軸(経費節減、既存・仮設施設利用、環境配慮、若者や女性に配慮の競技種目、都市型競技、反ドーピング、国連SDGsへの協力、大会後のレガシー重視)が実施されます。私はこれを「東京モデル」と呼んでいますが、その成功は前評判の高い2030年札幌冬大会の招致にもつながります。

 先般来日した私のカウンターパートのフランス・オリンピックアカデミー会長との話でも、近年の五輪離れや反五輪の傾向は先進成熟国のポピュリズムや自国中心主義に起因するところが多いとして、パリ大会のために「東京モデル」に注目していました。気候問題や政治問題への対応も東京が参考になるようです。

 東京五輪の聖火リレーの公式コンセプトは「希望の道を、つなごうHope Lights Our Way」です。東京パラリンピックは「あなたは、きっと、誰かの光だ Share Your Light」です。これらはスローガンにすぎませんが、国民と大会主催者とが協力して肉付けすれば、日本で燃えた聖火が新時代への道を照らす希望の10年になると信じます。

《追記》

 *五輪をめぐる課題の詳細は拙稿(「アテネ賞」を受賞して—オリンピックの進む道を考える—霞関会ホームページ・時事コラム 2018年8月23日掲載)をご参照下さい。                                

 *新型コロナウイルスの早期終息を願っています。聖火リレーを含め東京大会に関しても必要な措置が取られつつありますが、大会が安全に開催されるよう祈りたいと思います。

(2月15日 記)