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第70回 小野妹子と新見正興

元駐タイ大使 恩田 宗

 小野妹子の墓への道標に外交の始祖とあった。具体的な活動の記録が詳しく残っている最初の外交官でありそう呼んでいいのかもしれない。

 推古天皇の摂政聖徳太子は大陸の進んだ文化を半島経由でなく直接導入したいと考え隋に妹子を送ることとした。雄略天皇(倭王武)が宋の皇帝に「臣は下愚なると雖も」とへりくだって忠節を誓っていた頃から100年以上の空白期間を経ての対中外交の再開だった。国書の冒頭を「日出処の天子日没処の天子に書を致す恙無きや」としたがそのリスクを太子も妹子も知っていたと思う。結果は煬帝をしてこの様な無礼な「蛮夷の書」は以後見たくないと怒らせた。妹子は隋の「宣諭」の使節と共に帰国したが煬帝からの国書は帰途百済で盗まれたと報告する。聖徳太子も承知した国内対策としての芝居だったのではないだろうか。群臣は妹子の失態をなじり流罪と決定した。然し妹子は上からの一声で許され留学生8人を連れて再び隋に赴き今度は「東の天皇敬(つつしみ)て西の皇帝に白(まう)す」で始まる国書を届け帰国した。先方がそれで治まったのかどうかは記録にない。然し6年後にも別の遣隋使が往復しており太子と妹子の粘り勝ちだったのではないだろうか。 妹子の冠位は当初は上から5段階目の大礼だったがその後最上位の大徳に叙された。一族は栄えたとみえ遣唐副使の小野篁や能書家の小野道風は彼の後裔だという。

 万延元年(1860年)の遣米使節団も鎖国を破る画期的な試みだった。然しその正使が新見豊前守正興であることを知る人は少ない。この使節団は幕府の改革派が企画したもので正使の大役に周囲も本人も最適としていた人が何人かいた。ところが出発直前に保守派の井伊大老が介入し望んでもいなかったと思われる正興を選んだ。正興は改革派から「温厚な長者なれども・・良吏の才に非ず」と評された人だったが米国では条約本書の交換も朝野の人士との交流も無事済ませた。

 然し正興が帰国した時日本の政情は一変していた。井伊大老は暗殺されてこの世におらず攘夷の嵐が吹き荒れて問題の条約の勅許もまだだった。幕府にはもう日米和親など考える余裕はなく正興が米国で得た知見も活用されることはなかった。米国も南北戦争で日本への関心を失い日本への影響力は後から来た英仏の間で争われることになる。

 正興は明治2年失意のうちに病没した。遺族は維新の混乱で零落し父親に似て美貌の二人の娘は柳橋に売られた。その一人のおりょうは16のとき伊藤博文と柳原前光(さきみつ)(初代駐清国公使)が落籍を競い柳原に囲われた。18で生んだ子供(後の歌人柳原白蓮)は本妻に引き取られ21で亡くなった。

 妹子と正興の生涯を思うと時の運と人との出会いの運ということを考えさせられる。