ニューヨークから見る日米関係 〜より重層的な相互理解のために〜【米国だより】


在ニューヨーク総領事 山野内 勘二

【はじめに】

 小官がニューヨーク総領事として着任して、早くも13ヶ月が経った。光陰矢の如し、と実感する。これまでも、米国での在学研修や在米大勤務の時、或いは出張で何度も訪れている。勿論、ニュースやTVドラマや映画でも、この街は実に様々に描かれている。しかし、初めてニューヨークに住んで勤務して実感したことがある。それまで自分が知っていると思っていた事は表面的なことに過ぎなかったということだ。ニューヨークは幅も広ければ奥も深い。此処は、日本外交の最前線の一つだと改めて実感する。

 本稿では、第1に、ニューヨークの率直な印象を記し、ニューヨークと日本の歴史的な関わりを振り返る。第2に、日本を飛び出しニューヨークで才能を開花させた人々を紹介する。日本の多様なチカラを見せて日本のソフトパワーの礎をつくった偉人達だ。最後に、現在準備中のジャパン・パレードについて。日本コミュニティの多様な姿をパレードを通じて見せる事が日本とニューヨークとの絆をより深くし、日米関係の強化に貢献すると考えるからだ。

【ニューヨークの印象】

 ニューヨーク在勤1年程度では、表面的な理解にとどまるかもしれないが、小官の印象は4つ。①多様性、②エネルギー、③資本主義、④コスモポリタン、だ。其々に関連し影響しあって、ニューヨークをニューヨーク足らしめていると感じる。

 まず、多様性。これはニューヨークのためにある言葉だ。人種、国籍、所得水準、知的レベル、常識、或いは正義や価値観までが驚くほど多様だ。世界中に存在するほとんど全ての物事がニューヨークには在る。言語も料理も文化は勿論、貧困や犯罪も何もかもだ。

 次に、この街には莫大なエネルギーが満ちている。その源泉は、世界中から集まって来るカネと人と情報だ。ビジネス、学術、スポーツ、芸術等々の分野で我こそはと野心を持つ強者達が世界を制するためにニューヨークというアリーナに参集する。其れが必然的に競争を生み、弱肉強食、適者生存、切磋琢磨をもたらし、強烈なエネルギーを発する。

 そして、資本主義。極論すればカネのチカラへの絶対的な信奉だ。この街には多くの価値があり思想がある。異なる歴史と宗教と言語を持った者達が競争する時、誰もが理解し受け入れ従う基準がカネだ。世に守銭奴とか拝金主義という言葉もあるが、ことニューヨークにおいては、大切な物事は全てカネに換算される。良いモノは値段が高く、悪いモノは安い。値段の高いモノは高品質で、安いモノは粗悪品だ。行間を読む必要はない。単純明快だ。貪欲に稼いで、思い通りに使う。文化・芸術・学術を支えているのは公的セクターの補助金ではなく、民間セクターのカネだ。政治もそうだ。ニューヨークのカネがワシントンDCの政治も動かしている。

 最後に、コスモポリタン。行政的には、ニューヨークはアメリカ合衆国のニューヨーク州の中の市だ。が、実態は、独立独歩の一個の独立したコミュニティだ。ニューヨーク市周辺のGDPは1兆7千億ドル余で世界10位のカナダより大きいのだ(2017年)。そして、この街で名を成している人々の国籍は千差万別だ。例えて云えば、江戸時代の江戸には各藩から多士済々がやって来て競い合っていた状況に似ている。江戸で一番になれば日本一になったように、ニューヨークでトップに立てば世界一とほぼ同義だ。其れが、世界中から人を惹きつけて止まない。

【ニューヨークと日本の対米外交事始め】

 そんな苛烈で魅力に富むニューヨークは、当然ながら日米関係を重層的に発展させていく上で極めて重要だ。其処で、日本とニューヨークの関わりについて歴史を簡略に振り返ってみる。

 1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、マシュー・カルブレイス・ペリー代将(Commodore)率いる米国海軍東インド艦隊の艦船4隻の浦賀来航が、日米関係の始まりだ。翌54年2月に再度来航し、3月31日には、日米和親条約が結ばれる。56年には、初代米国総領事タウンゼント・ハリスが来日。58年7月29日(安政5年6月19日)には日米修好通商条約が調印された。その際、大老井伊直弼が勅許を得ていなかった。安政の大獄、桜田門外の変と幕末の動乱が加速する。

 いずれにせよ、条約は調印された。幕府は批准書交換のために外国奉行・新見豊前守正興を首席全権として米国へ派遣する。これが万延元年の遣米使節だ。合計76名の使節は、米海軍の艦船ポーハタン号に乗り、1860年2月13日に横浜港を出発する。途中、ホノルル、サンフランシスコに寄港する。因みに、首席全権の乗ったポーハタン号を護衛する名目で太平洋を渡ったのが勝海舟が艦長を務めた咸臨丸。今や、こちらの方が有名だが、勝はサンフランシスコまでしか来てない。使節団は、4月7日、サンフランシスコを出帆。4月24日にはパナマに到着。未だ運河は開通しておらず、パナマ地峡鉄道で大西洋側に出て、更に海路ワシントンDCを目指し、5月15日到着する。新見豊前守は、ワシントンDCで日本を代表してブキャナン大統領と会談。無事、批准書を交換。ワシントンDCに25日間滞在した後、フィラデルフィアを経て海路ニューヨークへ向かう。そして、1860年6月16日の土曜日、午後2時頃、マンハッタン島南のバッテリー・パークに到着。今なら東京からニューヨークまで13時間だが、当時は4か月余をかけて来た訳だ。そして、新見豊前守ら使節団は、ニューヨーク市警の軍楽隊に先導されて、ブロードウェイをパレードする。ニューヨーカーは、初めて見るチョンマゲに帯刀した袴姿の侍達を熱狂的に歓迎。その数50万人とも言われている。ニューヨーク・タイムズ紙には、侍を歓迎し、東洋と西洋がマンハッタンで出会い、世界がひとつになったことを祝福する国民的詩人ホイットマンの詩も掲載された。

 此処から、日本とニューヨークの交流が始まる。

1860年万延元年の遣米使節(NYのパブリックライブラリー,撮影:石黒かおる)

 明治維新の後、日本政府がニューヨークに総領事館を設立したのが1872年(明治5年)。初代総領事は、富田鐡之助。仙台藩士で、勝海舟の息子・子鹿とともに維新前夜の1867年に渡米、ニューヨークで経済学を学んでいる。後に日本銀行副総裁となる人物だ。

 富国強兵と殖産興業に乗り出し近代化を進める若き日本は未だ発展の途上。海外への移民も本格化する。日本人移民が向かった主たる目的地はハワイや西海岸だったが、1880年代にはニューヨークにも来ていた。彫刻家イサム・ノグチの父もそんな移民の一人だったという。

【偉人達のニューヨーク】

 そして、実に多くの日本人がやって来る。有形無形のエールを後の世代に送っている。

 野口英世が渡米したのは、1900年。まずフィラデルフィアで頭角を顕し、1904年からニューヨークのロックフェラー研究所で黄熱病の研究を進める。ノーベル賞の候補にまでなったが、ガーナで客死。ニューヨーク郊外のウッドローン墓地に眠る。

野口英世の墓参

 秋吉敏子の渡米は、1956年、26歳の時。90歳にして今も現役で活躍する伝説的なジャズ・ピアニスト、作曲家、バンド・リーダーだ。オスカー・ピーターソンの強力な推薦で奨学生としてバークリー音楽院で学んだ後、ジャズの本場ニューヨークに居を構える。競争の激しいニューヨークのジャズ界にあって、秋吉はクラシックで鍛えられた強固な基盤の上に東洋的なエッセンスを感じさせる即興演奏で際立つ。第一線で活躍し続け、昨2018年11月には、音楽の殿堂カーネギー・ホール内のウェイル・ホールで米寿記念コンサートを開催。ソロ・ピアノあり、夫でサキソフォン奏者のルー・タバキンを含むカルテットありで、満員の聴衆から万雷の拍手だった。因みに、小官の横の席は巨匠ロン・カーター。御自身がジャズ・ピアニストのコロンビア大学のカーティス教授も客席にいた。

秋吉敏子、ルー・タバキンと

 倉岡伸欣がニューヨークに来たのは1961年。ニューヨークで初めての総ヒノキ造りの寿司・天麩羅カウンターを備えた日本食レストランの嚆矢「レストラン・ニッポン」の創業者だ。今や、日本食は完全にニューヨーカーの食生活の重要な一部。超高級店からカジュアルな店まで、実に多様な日本食レストランがある。最新の調査では872軒。参考までに、イタリアンが965軒、メキシカンが950軒、中華は2441軒。2019年版ミシュランでは、ニューヨークには74軒の星付きレストランがあるが、うち19軒が日本食。因みにフレンチ6軒、イタリアンは4軒にとどまる。このような日本食の隆盛は、突然訪れた訳ではなく、先達の努力の積み重ねの賜物だ。1960年代、職人と食材の確保、行政的手続き等、決して容易ではなかった。が、倉岡氏はヴィジョンと情熱を持って、本物の日本食を一貫して提供。そして、今日の隆盛を誇ることになる。2009年、半世紀を超えて米国での日本食普及に尽力して来た功績を讃えて、倉岡氏に旭日小綬章が授与された。

 此処で、日本食に関するトリビアを。大リーグのヤンキースでプレイしていた松井秀喜選手もレストラン・ニッポンの常連。美味しくて栄養価が高い特製メニューでゴジラ松井を支えたが、今も、『松井カレー』は人気メニューだ。そして、大リーグ観戦で驚いたのは、ヤンキー・スタジアムでもメッツのシティ・フィールド球場でも寿司が食べられるのだ。本格的とは言えないが、カリフォルニア・ロール等の巻き物は悪くない。野球をこよなく愛する国の筆頭が米国と日本だ。野球とホットドッグと寿司の交流もまた日米関係の深化を体現していると実感した次第。

【史上初のジャパン・パレードへ】

 上述の通り、万延元年の遣米使節団がニューヨークに来た時に、パレードが行われた。が、それ以来、ニューヨークにおいて日本のパレードは行われていない。パレード好きのニューヨークにおいては、ユダヤ、アイリッシュ、チャイニーズ、プエルトリコ、ギリシャ、メキシカン、アフリカン、イタリアン、ドミニカン、コリアン等々実に多様なエスニック・グループが誇らしくパレードを行なっているのにだ。

 それには様々な理由があったと思われる。移民の国アメリカと言っても差別はあった。戦前には黄禍論が主張された。戦中の日系人収容所もあった。終戦後、ニューヨークで日本を主張することは容易ではなかった。日系人の友人に尋ねると、日本的な全ての物事と距離を取って、ひたすら良きアメリカ人になろうと努力した、と云う。経済大国になってからは、激しい貿易摩擦の時代が続いた。対日制裁法案が議会に提出され、1ドル払ってハンマーを借り日本車に叩きつける運動もあった。

 しかし、今日の日米関係は、そういった問題を乗り越えている。課題が無い訳ではないが、基本的に安定している。まず、日米は、法の支配、民主主義、人権、市場経済といった基本的な価値を共有している。その上に、非常に親密な首脳の関係、政府関係者の緊密な連携、ウィンウィンの経済ビジネス関係が確立している。特に、日本企業の旺盛な直接投資が米国のローカル・コミュニティと日本の間の信頼を飛躍的に高めている。All Politics Is Localが本質の米国政治だ。この意義は大きい。そして、学術、スポーツ、日本食、アニメ、音楽、ジャーナリズム、美術等々実に多彩な文化交流が敬意と理解を増大させている。更に、中国、欧州、中東等の現下の国際情勢のもとで日米同盟の意義は日米両国民の間で広範に支持されている。

 今こそ、ニューヨークにおいて、日本コミュニティが結束して、今の日本を幅広く紹介するジャパン・パレードを始めるべき時だと確信する。2020年は、東京オリンピック・パラリンピックの年だ。1960年の東京とニューヨークの姉妹都市設立から60周年。そして、1860年の万延元年の遣米使節のパレードから160周年の節目だ。外国人観光客の訪日誘致という観点からもニューヨークでのジャパン・パレードは効果が期待出来る。昨年は3千百万人の外国人が日本に来訪したが、米国からは僅か150万人だった。時間も金も好奇心もあるニューヨーカーに日本の多彩な魅力を示す絶好の機会だ。

 現在、ニューヨークの日本コミュニティが準備しているジャパン・パレードは、2020年5月10日の日曜日で母の日、セントラルパーク・ウエストの86丁目から68丁目までの予定だ。伝統的なものから現代的なものまで幅広く参加団体を募っている。必ずや日米関係を重層的に発展させる一助になると思っている。