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第69回 本と印刷技術

元駐タイ大使 恩田 宗

 20世紀の終りにライフ誌は過去1千年間に起こった人類にとり重要な出来事100件を選定した。第1位はグーテンベルクによる活版印刷の発明だった。動力機関や原子爆弾の発明でもなくペニシリンの発見でも空を飛ぶとか月面着陸とかの偉業でもなかった。そうした発明や偉業も全て知識の保存伝達方法に革命をもたらしてあの発明があったからこそのことだからである。

 筆写本から印刷本への交代は早かった。グーテンベルクの印刷した聖書の販売にソルボンヌ大学へ出かけた者が書籍商ギルドから悪魔と結託しているとして追放されたなどという話もあるが彼の聖書はすぐ売り切れた。活版印刷技術は宗教改革と文芸復興という歴史変動に助け助けられる形で瞬く間にヨーロッパに広まった。グーテンベルクが印刷を始めてから半世紀の間に全欧で1,000を超える印刷工房が起ち上がったという。45人の筆写人を擁しメジチ家御用達だった写本制作商も写し間違いのない本を大量安価に生産する新技法に抗しえず30年足らずで廃業に追い込まれた。

 日本の出版界は2010年を「電子書籍元年」としている。iPadやアマゾンのKindleが日本で発売されたからで出版21社は電子書籍開発のための団体を発足させた。Googleが全ての書籍のデジタル化を目指していることを背景にグーテンベルクからGoogleへの移行だと言われた。

 電子書籍の便利さは画期的である。場所や時間を問わず安価にそして網羅的に書籍にアクセスでき検索が自由で音も動画も出る。しかし紙の本にも長所や魅力がありそれを重視愛惜してその存続を望む人は多い。「我、電子書籍の抵抗勢力たらんと欲す」「脳を創る読書、なぜ紙の本が人にとって必要なのか」「紙の本は、滅びない」などという本が出版されている

 本の世界で紙の本と電子書籍が最近どの位の割合になっているか正確には分からない。何を本に数えるか売り上げた金額か冊数かでも違う。大雑把に言って日本、米国、欧州とも電子書籍は金額ベースでほぼ10分の1である。「出版大崩壊」の著者山田順は日本では電子書籍は儲かる事業になり難くそれへの移行には時間がかかるだろうと言っている。米国でも書店の業績は最近復活しつつあり紙の本への需要は底堅いようである。

 映画監督の新藤兼人は空襲で家財も本も失ったと回想している。焼けた時は箪笥と茶棚と小さな本棚を入れるとやっと寝る場所の残る4畳半アパートだったというから蔵書もそう多かった筈はない。それでも「本も」と言っているのは自分なりに揃えた蔵書はただの家財とは違い他に代え難い大切なものだからである。自分の心を養い磨くためのものであり生涯の道づれでも拠り所でもある。侍にとっての刀のようなものである。ただ紙の本はかさばって重いのが難点である。引っ越しの時のあの苦労は電子書籍の時代の人達には分らないだろう。