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ローマ日本文化会館と吉田茂元総理


国際交流基金ローマ日本文化会館館長
前駐ギリシャ大使 西林 万寿夫

 2017年12月に国際交流基金ローマ日本文化会館館長に就任した。私は外務省在職中、文化交流に携わる機会が多く、ローマに日本文化会館が存在し国際交流基金が運営する他の20か所の海外事務所と名称やステータスが異なる事は頭の中にあった。日本文化会館と称する事務所は他にケルンとパリにありこの3物件は恒久的施設であるが、その他は基本的に借り上げ物件である。私はローマ日本文化会館を実際に訪れた事がなく、赴任して初めて広大な施設に建てられた堂々たる建物を見て驚いた。そしてこの文化会館が1962年に設立されるにあたって吉田茂元総理が果たした役割が大きい事を知って、驚きが倍加した。

 吉田茂元総理は1931年から32年にかけて駐イタリア大使を務めていたが、それに先立ち1909年より三等書記官として在イタリア大使館に勤務していた事がある。1911年はイタリア統一50周年の年。これを記念してトリノとローマで万国博覧会が開催された。トリノの万博は産業博であったが、ローマの万博では文化に焦点が当てられた。この文化万博には欧州諸国を中心に約20か国が参加したが、新興日本も純和風のパビリオンを建て、数多くの日本画や彫刻を展示し異彩を放った。そしてその時の大使館の文化担当が吉田茂書記官だったのである。

 更にローマでは1930年に市の中心部にある「博覧会館」(Palazzo delle Esposizioni)で「日本美術展覧会」が実施された。この展覧会には横山大観や前田青邨など当時の画壇のリーダー達が出展し、イタリア国内で大きな注目を浴びた。一か月余りの会期中、7万~8万人(一説では十数万人)が訪れたという。吉田元総理はこの展覧会の成功の余韻がまだ残っている時期に駐イタリア大使に就任したので、反響の大きさを感じたに違いない。因みにこの展覧会は事業家の大倉喜七郎男爵が私財を投じて実現に至ったものであり、終了後に大倉氏が作品を買い上げ、その一部が現在ホテル・オークラ横の「大倉集古館」に収蔵されている。吉田茂元総理は駐伊大使時代、「将来イタリアとは文化外交を主体に考えなきゃいけない。ともかく文化というものを基盤にレールを敷いてゆくんだ。」と語ったというが、以上のような体験が背景にあるのだろう。この考えに花が咲くのは戦後になってからである。

 第二次世界大戦後、悲惨な戦争を繰り返さないためには国民同士の相互理解が重要との認識が高まり、各国とも文化外交を重視した。日本もサンフランシスコ条約締結により主権を回復したのち、文化協定締結に乗り出した。その第一号は日仏文化協定(1953年)であるが、二番目は日伊文化協定(1954年)であった。文化協定は一般に二国間の文化事業に便宜を与えこれを推奨する事を規定しているが、日伊文化協定では附属交換文書で「ローマ日本文化会館の建設」、そして戦災に遭った「東京イタリア文化会館の再建」が謳われた。1954年は吉田茂氏にとって(一時期を除いて)1946年以来続けていた総理としての最後の年。12月に辞職するがその直前の10月にイタリアを訪問した際には、ローマ日本文化会館の建設候補地を視察するなど、日伊文化交流推進に向けた並々ならぬ情熱が伝わってくる。

 その後紆余曲折はあったが、1960年に着工。1962年12月に現在の建物が完成した。設計に当たったのは吉田五十八(いそや)氏。数寄屋造りで一世を風靡した建築家であリ、外務省関係では飯倉公館や在米日本大使公邸を設計した人物として知られている。また火災に遭った大磯の旧吉田茂邸も吉田五十八氏の設計によるものである。ローマ日本文化会館は地上二階地下一階。3000平米の敷地に床面積2600平米の和風の建物が建てられている。敷地はイタリア政府から無償で提供されたものであるが、建物は日本政府の予算で建設された。当時予算が潤沢であったとは考えにくいが、仮に今建てるとしてもこれほどまでに立派な建物になるとはとても思えない。当時の関係者の熱意の所産であり、その背後に吉田茂元総理のお声がかりがあった事は間違いない。そしてこれが日本政府により造られた海外における初めての日本文化紹介施設である事も忘れてはならない。なお日本文化会館は国有財産であり、規模の大きい改修が必要な場合には在イタリア大使館を経由して外務省に経費負担をお願いしている。築50年を超えると様々なトラブルが発生する。歴史的建造物であるがゆえに、メンテナンスを怠ってはならず対応が大変である。

 この文化会館には日本庭園が付設されている。面積は1500平米弱。池、滝、石橋、巌、荒磯、州浜、灯篭、藤棚など日本庭園に欠かせない要素が一通り組み入れられている。設計者は中島健氏。旧吉田茂邸の庭園を作庭した造園家でもある。庭園にはオリーヴや夾竹桃などイタリア的な樹木が植えられているが、桜や菖蒲も配植され日本的な雰囲気を醸し出しており日伊交流の象徴となっている。庭園の敷地はローマ市から有償で提供されているが、年間の借料は僅か50ユーロ。イタリアには本格的な日本庭園は2か所にしかない。もう1か所もローマ市内にあり、設計者は同じ中島健氏。有名なジャニコロの丘の麓にあるローマ大学植物園の敷地内に位置し、庭園内には桜の木が数多く植えられ、毎年4月には桜祭りが行われ賑わいを見せている。

 ローマ日本文化会館が市内のどこにあるかについても触れたい。ローマには諸外国の文化施設が約40件開設されているが、そのうち9か国の建物が日本文化会館のあるヴァレ・ジュリア地区に集中している。この地区はローマ市北西部にある広大なボルゲーゼ公園の外れにあり、閑静な雰囲気は文化施設を運営していく上で申し分ない。1911年にローマで文化万博が開催された際、ヴァレ・ジュリア地区に各国のパビリオンが建てられたが、日本のパビリオンもその一つであった。日本パビリオンは当時丘の上にあったが、その場所には現在ローマ大学建築学部のキャンパスが置かれている。ローマ日本文化会館建設にあたり、その丘の真下にある土地がイタリア政府から割り当てられたのである。

 余談ながら、イタリア人作曲家レスピーギの名作である交響詩「ローマの泉」(1916年)の第1楽章は「夜明けのヴァレ・ジュリアの泉」である。この曲は夜明けのジュリアの谷を牛の群れが通り過ぎ朝霧の中に消えていく様子を描写しているが、不思議な事にこの谷のどこにも泉や噴水が見当たらない。他の楽章に描かれている「トレヴィの泉」や「トリトーネの泉」などはちゃんと存在しているというのに。レスピーギは架空の世界を創り、楽曲として仕上げたのではないかと想像している。

 以下会館の活動について簡単に付け加えたい。ローマ日本文化会館には年間約5万人の来館者があるが、昨今の日本ブームのお蔭でその数は5年で5倍の人数に上っている。2015年にミラノで実施された「食の万博」や2016年の日伊外交関係150周年記念行事(300件を上回る)の影響が大きい。日本庭園も大人気。見学者の数は5年で10倍に膨れ上がった。150人を収容できる多目的ホールで能・狂言や伝統音楽のパフォーマンスが行われる時は、会場が超満員となる。この会場では日本映画上映会や日本文化講演会も実施している。さらに大きな展示ホールも備えており、年間3~4件の展示会を企画している。



 日本語教育についてはクラスルームが5室あり、学生を中心に年間600人が勉強にやって来る。大規模な図書館もあり、3万6千冊もの日本関係の図書を所蔵していて、イタリア人日本研究者にもよく利用されている。

 ローマ日本文化会館には、日本の皇族もしばしば訪問されている。皇太子殿下(1984年)、天皇皇后両陛下(1994年)、秋篠宮同妃両殿下(2016年)(いずれも当時)にお運びいただいている他、昨年9月には寛仁親王妃信子様もお越しになった。吉田茂元総理は信子妃殿下の祖父に当たる。「この会館はお祖父様のお力添えによって建てられたのですよ。」とご説明したところ、大変お喜びになられた。会館の玄関に掛けられているプレートに刻まれている「日本文化会館」の文字は、吉田茂元総理の揮毫(きごう)によるものである。このプレートの前で信子妃殿下と館員全員で記念写真を撮った事は良き思い出である。

(後記1 : ローマ日本文化会館設立時の状況について、霞関会会報平成22年2月号で石川良孝元駐クウェート大使が当時の担当課長として様々なエピソードを紹介されている。)

(後記2 : 本稿執筆に当たっては、2010年~15年にローマ日本文化会館館長を務めた松永文夫氏による「イタリア図書」誌2013年4月号および10月号への寄稿文を参考にさせていただいた。)

写真:© Istituto Giapponese di Cultura in Roma / Mario Boccia