冷戦終焉30年とルーマニア【冷戦終結30周年】


元駐ルーマニア大使 津嶋 冠治

1.198912月の「革命」

 1989年、東欧が冷戦終結に向けた動きを加速する中で、チャウシェスク大統領は、スターリン主義的な統制が社会主義の本筋と盲目的に過信し、誰にも耳を貸さなかった。11月24日に閉幕した第14回ルーマニア共産党大会はチャウシェスクを書記長に再選した。

 しかし変化への要請は足下に迫っていた。数日後の11月27日、ナディア・コマネチが西側に亡命するために、深夜徒歩でティミショアラ西部のハンガリー国境を越えウィーンからアメリカに逃げた。

 12月15日、当局は、反ルーマニア・親ハンガリー言動を繰り返していたティミショアラ市のカルビン派の牧師、ラースロー・トーケシュを強制的に移住させようとして実力行使に及んだ。これが完全に裏目に出た。15日の信者による穏やかなロウソク・デモは、16~21日の反チャウシェスク大規模デモに発展した。

 イランを訪問中であったチャウシェスクは予定を早め20日帰国し、21日に首都ブカレストで「社会主義の利益防衛」のための官製集会を催した。これが自らの退路を招来した。

 ある時期以来、「チャウシェスク外し」を企図していた人々、即ち、イリエスク元共産党中央政治局員(1990年-1996年及び2000年-2004年に大統領)をはじめとする共産体制下のノーメンクラツーラは、都合よく起きたティミショアラ事件の暴動の機会を利用して、チャウシェスクが主催した官製集会を彼の放擲集会に変えた。この新勢力は、チャウシェスクの信頼が厚いスタンクレスク国防次官を味方につけ、22日正午過ぎ、チャウシェスク夫妻を群衆が包囲する党中央委本部屋上からヘリコプターで脱出させ、「チャウシェスクを党組織から外す」ことに成功した。その後、チャウシェスク夫妻は、25日までツルゴービシュテ市で監禁された。

 22日夜、イリエスク元党中央政治局員を議長とする国民救国戦線(FSN)が結成された旨発表された。他方、同日午後からチャウシェスク奪回を図る「チャウシェスク残党テロリスト」による「銃撃戦」が開始されたが、この動きは、25日のチャウシェスク夫妻の逮捕・裁判・処刑後、急速にしぼんでいった。これで、新勢力による権力掌握は一応完了した。

 以下、1989年12月の「革命」から30年が経過した現在でも完全には解明されていない謎とされている三つの要素に言及しておきたい。

(1) 革命はイリエスクの言う通り自然発生的であったのか、それとも何らかのおぜん立てによる政変あるいは括弧つきの「革命」としての色合いが濃いものであったのか。ただ、今日、大多数の国民は、あの時点でチャウシェスクが退場したことは肯定的に評価しつつ、その背景にあった複雑な力学には最早さほどの関心を示していない。 

(2) ヴィクトル・スタンクレスクは、当初、国防次官としてティミショアラにおけるデモを鎮圧するために派遣された。次いで、チャウシェスクにより国防大臣に任命されブカレストの「暴動」鎮圧にあたり、22日昼、党中央委の屋上からチャウシェスク夫妻をヘリで逃がした。その後25日には、約二時間の特別「革命」軍事裁判を組織し、「64000人ジェノサイド」他の廉で死刑を判決させ、執行している。多数の犠牲者が出た騒擾鎮圧を含め、この時期のスタンクレスクの行動についてはルーマニア国内で長らく論争の対象となってきた。そのスタンクレスクは、2016年に死亡している。

(3) チャウシェスク逃亡後、チャウシェスク奪還を目論む「テロリストの暗躍」により多数の犠牲者が出たとされるが、その実態についての謎はまだ完全には晴れていない。

 過去30年間、与党の地位にあることが長かった社民党(PSD)は革命を擁護する立場であり、真相解明には消極的であった。その意味で、後述の通り、2019年11月24日の大統領選挙でヨハンニス大統領がPSD(社民党)の候補に圧勝したことが今後の論議に如何に影響していくのか注目される。

2.1990年代の救国戦線党施政(第一期)

 冷戦後30年のルーマニアはおおむね三つの時期に分けられる。

 「革命」直後からの1999年頃までの第一期は、主として救国戦線党が政権を担った。この時期は、基本的に共産党政権時代と同様、セクリターテ(秘密警察)に担保された政治手法が行われた。経済はいざ知らず、政治分野ではルーマニアが「東」、「西」いずれに転ぶのか疑心暗鬼の時期であった。

 1990年に入り、国民救国戦線は政党に衣替えし、ルーマニア救国戦線党として選挙に参加することとなった。これを受け、イリエスクが同党から大統領選挙に立候補する意向を表明するや、ルーマニア情勢は「ミネリヤーデ」(注:カルパチ山系のジウ鉱山炭鉱夫に扮する大量の労働者が棍棒などをもってブカレストに侵入し、商店や市民に対する破壊活動を行った事件)により混乱し始めた。

 共産体制下で働いていた党官僚は政治的に老獪であった。ミネリヤーデを通じ、1990年1月から2月にかけて、農民党、国民自由党など第2次世界大戦前からの政党や反共民主団体による反「救国戦線政府」デモを破壊し、さらにその後、ブカレストの大学広場で6月まで継続的に行われた若者による反共集会も同様に破壊した。

 この異常なミネリヤーデ炭鉱夫騒動は、1999年に至るまで6回も繰り返され、ルーマニアの政治は大きな影響を受けた。

 この間、救国戦線党は党名に「民主」の「D」を加え、救国民主戦線党(FDSN)となり、さらに2001年には第2次世界大戦前からの政党である社民党を吸収することでその暖簾を奪い、社民党(PSD)として現在に至っている。しかし、この党のバックボーンにはセクリターテ、地方や中央の旧共産党、現在のPSD党官僚がいる。彼らは地方の農民を政治基盤とする。同時に、彼らの中には、市場経済への移行、国有企業民営化の過程で、各種組織内に情報ソースを有する秘密警察関係者の協力を得て、欧米資本と組んで、財を成す者が多かった。こうした傾向に不満を有する者はなすすべもなく、失望した多くの若者達は西側への出稼ぎないし移住を志向することとなる。

3.移行経済の進展(第二期)

 第二期は、2004年のNATO加盟を経て、2007年のEU 加盟までの時期と見られる。この時期に、今日に続くルーマニアの国際的な立ち位置が定まっていった。

 イリエスク大統領(PSD出身)は、2003年7月にロシアとの間に友好・協力条約を締結した。これに続いて、翌年の2004年3月にはルーマニアのNATO加盟が実現している。イリエスクはもともとゴルバチョフ風の左翼志向の人であり、親露であったが、元首による親露姿勢はこれまでで、次のバセスク大統領(民主自由党出身)は親米志向であった。

 1995年、ルーマニアはEUに加盟を申請した。時の大統領はイリエスクである。その後、中道右派のコンスタンティネスク大統領(1996年-2000年)、再びイリエスク大統領(2000年-2004年)の時代を経て、最終的にEU加盟が実現したのは、申請から12年後の2007年、バセスク大統領の時である。この間、交渉が実質的に進展し始めたのは、再選されたイリエスク大統領の下、ナスターセ首相(2000年―2004年)の時であった。

 前述のPSDの出自を考えれば、このことは逆説的にも見える。ただ、この時期のPSDは、議会で多数を占め、行政府ではセクリターテ中心の官僚機構をいかようにでも動員できる強い立場にあった。また、並行して、実体経済面でルーマニア経済がEU経済に組み込まれていったことも交渉を後押しした。ルーマニア経済が自由化を志向し、民営化が進む中で、EUの民間企業はルーマニアの主要産業において確固たる地位を占めるようになった。電力分野における ENEL(イタリアの大手電力会社・エネルギー会社)、ガス分野におけるE.ON(ドイツの大手エネルギー会社)、製鉄分野におけるArcelorMittal(ルクセンブルグに本社を置く世界最大級の鉄鋼メーカー)等がこれにあたる。

 結局のところ、誰が政権の座にあったとしても、多くの人々が自由主義的経済生活を志向する中、冷戦後のルーマニアには、地政学的にも経済的にも、ヨーロッパの一員としてEU、NATOに参加してゆくことしか選択肢はなかったといえる。

4.期待されるドイツ系大統領(第三期)

 2004年から2014年までは民主自由党出身のバセスク大統領が、二期を務めた。民主自由党は、元々は共産党亜流から派生した政党であるが、2006年12月、バセスク大統領は国会における演説で公式に共産主義体制を告発した。

 外交・安全保障面では、バセスク大統領は米国との良好な関係を構築し、NATO との協力を推し進め、国内に米軍のSA型中距離ミサイル迎撃基地設置を強引に実現した。

 2014年、大統領に選出されたドイツ系のヨハンニス(国民自由党出身)は、2019年11月24日の大統領選挙の決選投票で圧倒的な差でダンチラ女史(PSD)を制し(66%対34%)、二期目をものにした。ただ、目下の政府は国民民主党(NPL)の内閣ではあるものの、議会の多数はPSDに占められている。言わば選挙管理内閣的存在で、明年の2020年7月以降に予定される議会選挙で、他の自由主義志向の党との連携次第で過半数を制すれば、民主主義的政治が出現する見通しが生まれてきている。PSDも脱皮が迫られているが、どこまで本気で脱皮できるのかは不明である。ルーマニアの民主化は、希望は膨らんでいるが予断を許さない。

 今回のヨハンニス大統領の成功の原因の一つは欧米に在住する約300万人のルーマニア人有権者の票である。彼らはヨーロッパ内でのルーマニアの地位の低さを痛感し、その原因はPSDの反自由主義政治姿勢にあるとみているが、同時に、自らの欧米における生活体験からルーマニアはもっと成長できるとも感じている。このような背景から、過去15年間の大統領選挙では、国外有権者の大半は一貫してPSDに対抗する候補を支持してきた。

 今次選挙のもう一つの重要性はヨハンニスがドイツ系というルーマニア国内の少数民族の出身であることにある。1989年、ルーマニア「革命」の端緒となったティミショアラは、ルーマニア系住民がハンガリー系、セルビア系、ドイツ系の住民とともに仲良く暮らす、民族主義傾向の少ない土地柄である。この地では、「革命」当時、ルーマニアの政治から共産主義ノーメンクラツーラを排除する「ティミショアラ宣言」が高らかに謳われた。この宣言は、結局、イリエスク大統領等に忌避されたが、一連の動きがティミショアラから生まれたのは、その土地柄と無縁ではないのかもしれない。今回のヨハンニス再選はこのようなティミショアラの軌跡を想起させる。

 ヨハンニス大統領は、11月28日、選挙後初の記者会見でF16戦闘機5機を米国から購入することを明らかにして、引き続き米国との軍事関係緊密化の傾向を志向している。

 経済面では、ルーマニアの主要経済紙「経済新聞」(ZF)は、11月20日付の論評で「今日、ビジネスの世界でルーマニアは中東欧のトップ500企業の中で3位の企業数を占め、チェコをも上回っている。この20年間にGDPは5倍となり、経済成長率はポーランドのそれに比肩している。全給与も2000年初めには3千万ユーロであったが今や12億ユーロになっている。しかも400万人の出稼ぎが国外にいる。地方のルーマニア人も国内の外国企業で働きたいと希望している。今後の発展への展望は明るい」旨述べている。国際経済情勢の推移にもよるが、変な政治的介入さえなければ、ルーマニア経済の将来には希望が持てる。

 ただ、ルーマニアの将来を考える上で一番心配な点を挙げるとすれば、この国の政治風土に深く根付いた汚職体質である。ヨハンニス大統領自身は身ぎれいとされるが、与党であるPNLの政治手法は土着的で、かつてのPSDと同じく汚職に染まりやすい。PNLと競合するもう一つの自由主義政党の成長が待たれる所以である。ヨハンニス大統領は「ルーマニアの正常化」を希求しているが、この点がまさにその実現の鍵を握っている。

(了)