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ジフコフ体制の崩壊とブルガリアの社会的変化【冷戦終結30周年】


元駐ブルガリア大使 小泉 崇

 ブルガリアでの「冷戦終結」に関する背景や分析に関しては、2017年3月10日付で本ホームページに掲載された拙稿「私の体験的ブルガリア論」に記したので、ここでは自分自身がどのようにその時を迎え、またその後の社会の変化をどのように感じたかを中心に述べさせていただく。なお、下記3.で取り上げた市民の生活面での変化については、より身近で体験した妻・友子が分担して書かせていただいた。

1.ブルガリアの体制崩壊

 その日は突然やってきた。ブルガリアのジフコフ体制崩壊の日である。1989年11月10日、ジフコフは1954年3月以来35年間その地位にあった共産党書記長(当初は第一書記)を解任された。その前日、11月9日には「ベルリンの壁」崩壊という歴史的ニュースが飛び込んできていた。この年にはポーランドやハンガリーにおける民主化の動きは急を告げ、9月10日にはハンガリーがオーストリアとの国境開放を正式に発表していた。ブルガリアでも、環境保護団体による大規模な集会が行われるようになっていたとは言え、東欧における変化の波が、かくも急激にブルガリアにも押し寄せているとは意外という外なかった。その10日ほど前だったか、当時政務担当の書記官であった私は、某大手新聞社の記者からブルガリアの政治状況に関して取材を受け、「「岩よりも固い」と言われる強固な共産主義体制を誇るこの国において、他の東欧諸国に見られるような民主化の動きは当分起こりえない。」旨の見解を述べた。それが「某西側外交筋」の話として記事になった。その直後の崩壊劇である。専門家としての状況認識の甘さを公然と物語ることになり汗顔の至りであった。もっとも、全く変化の兆候がなかったかと言えば、そうとも言えなかった。ジフコフが失脚したのは11月10日の共産党中央委員会でのことであったが、その数日前、共産党機関紙「ラボートニーチェスコ・デーロ」に長文の党中央委員会報告が掲載され、その中に「党「4月路線」はその役割を終えた」という記述があったのである。「4月路線」とは、1956年4月の党中央委員会がスターリン路線を否定し集団指導体制の重要性を打ち出した新たな路線であり、いわば実権を掌握した「ジフコフ路線」というべきものである。「その役割を終えた」という表現は、「ジフコフの役割を終えた」とも読みうるもので、当時それがジフコフの今後を占う上で気になる一文であったと記憶している。結局、ジフコフの失脚劇は、ムラデーノフ政治局員兼外相らによる党上層部内での「宮廷革命」であったことが後刻判明する。このことと先の中央委員会報告との因果関係は定かではないが、やはりその兆候はあったと言うべきかもしれない。また、前述の環境保護団体のデモに見られるように、党中央の統制が弱まり、草の根レベルの声に上層部が突き動かされていたことが背景としてあったことは否めない。いずれにせよ、東欧諸国を襲った変化の波からは、ジフコフ体制も免れがたく、遅かれ早かれ崩壊に至ったものと思われるが、それが、ルーマニアのように流血の惨事に至らず、「無血」で終えることができたことは幸いであった。

2.ジフコフ体制崩壊後の変化

 ジフコフ体制崩壊が、専ら党中央での「宮廷革命」という上からの政変によるものであったからか、国全体としてはしばらく政治的方向感覚を失っていたかに見え、混乱状態が続くことになる。その要因の一つに、ブルガリアでは旧共産主義勢力及び支持層が以後も根強く残ったことが挙げられよう。そのため全体の方向としては自由化・民主化に向かってはいたものの、常に民主勢力同盟に代表される新勢力と社会党と名称を変えた旧勢力間の権力争いの様相を呈し、政治的不安定の様相を呈することになる。そして、その基本的構造は今もほとんど変わっていないように見える。ここではこれ以上政情に関わる経緯には触れないが、ブルガリアにおける自由化・民主化プロセスで特徴的なことであったことは間違いない。

 一方、社会的な変化で最も印象的だったのは、街中の人々の表情が明るくなり、雰囲気が軽くなったように感じたことである。それまでは、人口の半分は秘密警察と言われるように、市民間の相互監視の故か、言論統制で自由にモノが言えなかった時代の重苦しい雰囲気がいつも漂っていた。それが急に自由にモノが言える時代になったことで、戸惑いと喜びとが入り混じった様相を呈していた。それは、集会やデモで勝手気ままに書いたプラカードを掲げたり、路上の立て看板に言いたいことを書きなぐるといったことに端的に表れていた。また、しばらくして全く新しいタイトルの新聞や雑誌が路上で売られるのを目にするようになった。それまでは、先の共産党機関紙を始め、祖国戦線機関紙「オテーチェストヴェン・フロント」、労働組合機関紙「トゥルッド」など主要6紙といわれる日刊紙が発行されていたが、「よくもここまで」と言えるほど、ほぼ同じ内容の記事で埋め尽くされていた。それが様々な内容を盛り込んだ新聞が新たに少なくとも十数種類は発刊されていたと記憶する。最も驚いたのは、かなり早い時期に、アメリカの男性専門誌「プレイボーイ」のブルガリア語版が発刊されたことである。社会主義時代のお堅い雑誌ばかりの世界から、いきなり超柔らかめの雑誌が登場したことに、確かにブルガリア社会は変わったのだと、妙に納得させられたものである。

3.自由とその代償(小泉友子)

 「ブルガリアは一夜にして体制が変わった」というのが私の印象である。11月10日のジフコフ失脚後、夫から「今日は大きなデモがあるので、外に出ないように」と言われ、子供達と家にじっとしていた。翌日民主化を推し進める10万人もの人がロウソクを片手に粛々とデモ行進したと聞いて、それはさぞかし綺麗な光景だったのでは、と見られなかったのが残念だった。これまでソ連の第一友好国的存在だったブルガリアの体制が即時に変わるなんて信じられなかったが、テレビで今まで報道されなかったことが報道されていたり、街を歩く人達が「チェスティート、チェスティート(おめでとう)」と連呼しているのを聞いて、ああ民主化するんだ、と実感した。さらにソフィア大学を訪れてみると、掲示板にはそれまであったスケジュール表だのお知らせだの、といったものが取り外されていて、スボボードゥノ(自由)の文字に「!」マークが沢山ついたチラシが貼られており、若い人たちがどれほど自由を求めていたかを知った。ブルガリアは部屋の模様替えをするように、あっという間にそして平和裏に民主化の流れの中に入っていった。

 しかし、体制が変わったことにより経済が混乱しはじめた。店や市場から物がなくなりだす。そして外交官ショップと呼ばれる店でさえ肉が消え、卵がなくなった。時折卵が入った時などは友人から連絡が来て、店に行ってみるとすでに多くの人が駆けつけていて、一人12個までしか買えなかった。また市場に苺が出た、と聞きつけ行ってみると、長い列に並んだ挙句、苺は私の一人前の人で売り切れてしまった。おなじみのヨーグルトさえどこへ行っても手に入らなかったが、その時でさえ日本では「〇〇ブルガリアヨーグルト」などと謳っていた。食べ物だけではない。トイレペーパーなどの生活必需品はいつも品薄で、ガソリンを入れるには2キロの車の列に並ぶ覚悟が必要だった。勿論物価は高騰していく。人々は親戚、ご近所同士、となんとか協力して生活していたように思えたが、職を求めて海外に出稼ぎに行く人が出始めた。若い人たちにはじまる人口の流失は加速度を増した。1990年代はブルガリアにとってまさしく冬の時代ではなかったかと思う。

 2012年、三度目にブルガリアの土を踏んだとき、招待されたコンサートで偶然30年来の友人と再会ができた。積もる話の中で彼女は1990年前半にアメリカに渡り、働きながら英語を学んでブルガリアに戻ったということが分かった。その後ブルガリアの大手の携帯電話会社で要職につき、家も一軒建ててお父さんを引き取り、イギリス人の男性と結婚した。いわゆる海外出稼ぎの勝ち組になっていた。

 しかし彼女のように海外へ出て成功した人ばかりではない。夫の友人で私も何回か家に招待してくれた男性はとても心優しい人だった。彼のお母さんがうさぎを料理してご馳走してくれた時、彼は自分の飼っていたウサギだと一切れの肉も口にしなかった人だった。彼はクラスメート(彼女も私たちの友人)と結婚し、娘を一人儲けたが、冬の90年代に家族をおいて職を求めてギリシャに出稼ぎに行った。しかし仕事が上手くいかずブルガリアに戻った。一方奥さんの方も職を求めて、娘とフランスへ渡った。フランス語ができた奥さんは成功したが、結局二人は別れてしまった。すでにご両親は他界されていて、彼は失意のうちに実家で亡くなった。この話は私たちの許を訪ねてきてくれた奥さんから直接聞いた。彼の場合、出稼ぎ先での不成功→家族との離別→失意→死、という順番を辿った、不幸なケースだろう。体制が変わらなければ、ブルガリアトップの大学を卒業していい仕事につけただろうに。

 彼だけではない。年金生活に入っている年配者の中にも民主化になって、痛手を受けている人が沢山いる。社会主義時代は物価が安かったうえ、病院代もタダだったし、社会保障もそれなりにあった。だが、民主化が進み経済格差が出てきて弱者の立場はより大変になっている。ブルガリアは自由を手に入れた。と同時に代償も払ったように感じる。