ビロード革命とチェコの人達(脈々と流れる反骨精神)【冷戦終結30周年】
元駐スロベニア大使 石榑 利光
ビロード革命の達成
1989年11月、チェコ全土に起きたゼネストにより1948年以来40年余り続いた共産政権が崩壊し、ビロード革命が達成された。今年の11月17日で30年が経つことになる。
現在総人口の約30%を占めている30歳より若い人達には、「自由の回復と民主主義闘争」で沸き挙がった当時のチェコの人達の高揚感と熱狂はもはや分からないかも知れない。
11月17日は世界的に「国際学生の日」として知られているが、チェコでは歴史的に特別な日である。1939年当時のチェコはナチドイツの保護下にあり、国として存在していなかった。11月11日チェコスロバキア建国21周年の機に学生達がデモを行い、これに対する武力鎮圧によって死亡した学生ヤン・オプレタルの葬儀が15日行われた。その後、大規模な反占領デモが発生した日が11月17日である。その結果、ヒットラーはチェコの大学全てを閉鎖し、全土で大量の学生を逮捕し、強制収容所へ送ったという事件が発生した。
50年後の1989年11月、1939年の出来事の追悼集会が反体制デモに発展したため、これを弾圧する体制側武装警官隊とデモ参加者が国民劇場のある国民通りで激しく衝突し、多くの参加者が逮捕され怪我を負った。この時の警官隊の弾圧行動がナチと類似性を持っていたことから、国民大衆の怒りを巻き起こした。
当時革命を達成するための大きな役割を果たした2つの組織が出現していた。「市民フォーラム」(OF)と「暴力に反対する大衆」(VPN)である。彼等は、「憲章77」活動家、学生及び知識人達で、ヴァーツラフ・ハヴェルが市民フォーラムを代表していた。その後、断続的に自発的なデモが国内各地で起こり、これら反体制運動のメンバーがストライキを組織し、政府側と交渉を進めた。事態の収拾が出来なくなった共産党政権は民主化勢力との話し合いによる解決策を模索せざるを得なくなった。その結果、共産党は指導的役割を放棄し、12月10日、1968年の「プラハの春」事件の正常化以降政権を担ってきたフサーク大統領他共産党政権は辞任した。その後、12月29日連邦議会で「市民フォーラム」代表のハヴェルが大統領に選出された。これは、「プラハの春」事件でソ連他ワルシャワ条約機構軍(ルーマニアを除く)の侵攻により奪われた自由と民主主義を回復した瞬間であり、また、ここまでに来る道程の中で「ハヴェルをプラハ城へ(大統領に)!」と言う運動が成就した瞬間でもあった。
ビロード革命と近隣諸国の情勢
チェコにおけるビロード革命達成には、チェコ民族特有の国民性が反映している。それは良く言えば「物事を非常に慎重に行う」こと、悪く言えば「憶病」である。
これを証明する歴史的な例がある。第2次世界大戦末期の1945年5月、ヒットラーがベルリンで死亡した(4月30日)との情報が入ってきた。これをきっかけに5月5日チェコ人達のプラハにおける武装蜂起が起こり、5月9日のソ連軍進駐によるプラハ解放までの数日間とは言えナチドイツ軍に対する首都での抵抗を自ら行ったことになった。また、東欧民主化革命においてもこの慎重さを見ることができる。
1989年6月にはポーランドで非共産党政権が誕生し、また同月複数政党制による自由選挙が実施された。8月にはハンガリー民間団体とハプスブルグ家当主及びハンガリー社会主義労働者党の改革派がオーストリアとの国境付近で汎ヨーロッパ・ピクニックを開催し、その際オーストリアとの国境を開放した。それにより集まった多くの東独人がオーストリア経由で西ドイツに逃れる事件が発生した。
その後、プラハの西ドイツ大使館には数千人の東独人が押し寄せ、大使館の敷地内に留まる事件が発生した。この東独人たちの処置に困ったチェコ政府は、西独政府側の粘り強い交渉もあり、結局、10月膨れ上がった東独人達を西ドイツに鉄道輸送することを承認した。その直後両国の国境は一時閉鎖となったが、11月には国境は再開された。今度は両国間で結ばれた協定によりビザなしでチェコを経由して西ドイツに行くことが出来るようになり、東独人達のチェコ経由で西ドイツへの流出が続いた。チェコ政府は東独政府及びゴルバチョフのソ連政府の出方を見極めるために相当神経を使ったに違いない。
また、10月にはハンガリーにおいても非共産党国家が成立した。更に11月9日東西ベルリンを隔てていた壁が崩壊した。これにより東独政権が崩壊することになった。
このような近隣周辺諸国の政治的状況を踏まえ、更にはソ連のゴルバチョフ書記長のペレストロイカ(改革)やグラスノスチ(情報公開)の成り行きを注意深く且つ懐疑的に見ていたチェコ人達は漸く目覚め、立ち上がろうとの意識を高めたわけである。
ビロード革命後の問題
ビロード革命後のチェコは、西側企業の進出が相次ぎ投資が活発に行われた。1993年のスロヴァキアとの分離・独立後の1994年には、経済成長率がプラスとなり、その後も順調な成長を維持し、「チェコ経済の奇跡」とまで言われた。確かに街には西側からの物があふれ、ドイツ車が急激に目立つようになり、野菜市場でも豊富な種類の野菜が見られるようになった。しかし、革命後、貧富の差が顕著となり、得をしたのは元共産党員とも言われている。社会主義時代、彼等は高等教育を受け、海外にも留学する機会に恵まれ、その結果、高い教養と語学力を身につけた。公職から追放されても西側企業がチェコに進出するにあたり彼等を現地法人代表として重用したのである。ドイツ車を乗り回す元党員が益々利益を享受した。他方、革命後の物価高騰の影響をもろに受けたのが年金生活者達であった。社会主義時代は国民皆が同レベルでそこそこの生活が出来ていたが、急激な経済の進展により年金生活者達が困窮してしまうなど、大きな格差社会が出現した。
脈々と流れる反骨精神
チェコの人達が非暴力と話し合いで革命を達成したことは、チェコ民族の歴史から伺える。その歴史は、15世紀にまで遡ることが出来る。宗教・社会改革者でありプラハ大学学長でもあったヤン・フスの言葉は、「真実は勝つ!」である。ヤン・フスは当時の教会や聖職者の堕落を批判し、教皇の免罪符に反対し、聖書だけが信仰の根拠であるとの自説を曲げず、1415年ドイツ南西部のコンスタンツでの宗教裁判で火あぶりの刑に処せられた聖者である(ドイツのマルチン・ルターによる宗教改革より約100年も前のことである)。
チェコ民族の非暴力反抗は、それ以降も続く。1620年プラハ城の近郊で、プロテスタント新教徒貴族が白山の戦いで敗北し、その後1918年までの約300年間ハプスブルグ家によって支配されることとなった。チェコの歴史上「暗黒時代」と称されている。18世紀啓蒙君主であったマリア・テレジア女帝やヨーゼフ2世皇帝によって都市部でのゲルマン化、独語の強制が行われた。チェコ語はもはや農村や地方でのみ、生き残ることが許されたのである。そのためこの暗黒時代において、チェコの人達はチェコ語の「人形劇」を通じて当時の支配者(ハプスブルグ家)を皮肉・ブラックユーモア・喜劇性を込めてうさを晴らし反抗していた。
また、1914年から始まった第一次世界大戦ではチェコ軍はオーストリア軍の一部として参戦したが、「誰のために戦うのか?」との大きな疑問を持ち、対露戦線では同じスラブ民族の露軍との戦いを嫌い、続々と投降し捕虜となってしまった(1917年露で革命が勃発、露赤軍は、捕虜となったチェコ軍に武装解除を要求したが、チェコ軍はこれを拒否した。この6~8万人と言われるチェコ軍兵士の救出をするため欧米諸国とともに、我が国も1918~22年までシベリアに出兵し彼等を救出した。詳細は司馬遼太郎「坂の上の雲」をご参照)。この第一次大戦の参戦経験を書いたのが、風刺作家のヤロスラフ・ハシェックである。ハシェックは、チェコ人の国民性「面従腹背」を良く表している小説「善良なる兵士シュベイクの冒険」で、チェコ民族の反骨精神を面白おかしく書いている。
更に、1968年8月ソ連をはじめとするワルシャワ条約機構軍(除ルーマニア)がチェコに侵攻した「プラハの春」事件がある。これによって、ドプチェック共産党第一書記が進めた「人間の顔をした社会主義」が挫折させられた。この時チェコのラジオ放送では、「国民の皆さん!兵士シュベイクのごとく振舞おう!!」と呼びかけた。人々は、侵攻してきたソ連軍戦車の兵士達に身体をはって露語で論戦を挑んだり、道路標識を外したりして抵抗した。決して武器を取らなかった。「プラハの春」事件後の所謂「正常化の時代」、チェコの人達は「面従腹背」の精神で政治には無関心を装い、小市民的生活に埋没しているように見えたが、じっと耐えていた。1989年11月学生・知識人・労働者達は、大規模なゼネストにより共産党政権を崩壊させ、自由と民主主義を取り返したのである。
ビロード革命の意義
この「プラハの春」の事件当時に生まれ、正常化時代に社会主義教育で育った50歳初めの成人男性に「あなたにとって社会(共産)主義時代とは何であったのか?」と質問したところ、「嘘である。自分の子供に嘘を教えるような教育を受けさせたくない!」との答が返ってきた。
ビロード革命後、プラハ城の屋根にたなびいている大統領府旗には、“Pravda Vitezi”とヤン・フスの言葉が記されている。チェコの人達は、ヤン・フスの時から常にこの「真実は勝つ」という言葉を信じ、いかなる境遇に陥っても反骨精神を発揮し、ようやく1989年11月のビロード革命によって自由と民主主義を再び勝ち取ったのである。
注:“Pravda Vitezi” の2つの[i]の上の「・」は「長い点」です。