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東欧革命30周年を迎えて ポーランドの10年【冷戦終結30周年】


元駐リトアニア大使 白石 和子

 1989年の東欧革命においては、ポーランドについての特徴と独自性は、真の労働者による革命の達成とそれまでに10年の月日を要したことである。

連帯

 イギリスの歴史学者、ティモシー・ガートン・アッシュ(オックスフォード大学セントアンソニーズ校教授)が、東欧革命は「ポーランドでは十年かかった。東ドイツでは十週間。チェコスロバキアは10日間だった」と表現したのは良く知られている。ルーマニアに至っては、わずか4日だった。

 2008年12月6日、バルト海に面する港町グダンスクで行われた「未来に向けた連帯」会議に招かれた私は、ワレサ元大統領からわずか1000部しか印刷されない「レフ・ワレサ 真実への道 自叙伝」をいただいた。その第4章は「すべては1980年8月に始まった」と題されている。その1980年8月は、私が外務省のたった一人のポーランド担当官として激務が始まった時でもあった。

 グダンスクのレーニン造船所のクレーン技師ワレンティノビッチは、定年退職5か月前に、1980年8月9日、窃盗容疑をかけられ、懲戒解雇の処分を受けた。その5日後、8月14日レーニン造船所では、ワレンティノビッチの復職を要求する横断幕を掲げた数百人の労働者が行進を始めた。造船所所長が、労働者に対して持ち場に戻れば要求について話し合うと呼びかけた時に、失職していたレフ・ワレサが塀を乗り越え、独立労組の必要性について述べ、そして「占拠スト」を呼びかけた。これがすべての始まりであった。ストは急速に拡大し、数時間のうちに隣の市グディニアにある複数の工場が加わり、その後グダンスクの残る5万人の労働者全体が合流した。ポーランドのメディアはこのストライキを一切報じなかったが、ラジオフリーヨーロッパ等の西側の報道機関が報道し始め、私の手元にもこれらのメディアの報道ぶりと共に米国等複数の国からの情報が大量に舞い込むことになった。このストライキが、それまでのいくつかの労働争議と大きく異なることになるのは、スト3日目の8月16日のことであった。レーニン造船所の所長が提示した一括合意案をワレサのスト委員会が受け入れ、ワレサが勝利宣言をしたのに対し、部門の労働者が安易に妥協して仲間を見捨てないよう訴えた。これを聞いたワレサは、その場にいた労働者にストを続けるかどうか意向を確認したうえで、ストを続けることにした。この時から10年間、ワレサは、真の労働者革命を率いることになった。その後、3週間ポーランド全土はゼネストでマヒ状態になった。その混乱に終止符を打ったのが8月31日31項目の政労合意の署名だった。労働者自らが選ぶ代表によって組織を率いる権利、自由労組結成やストライキの権利が与えられた。私は、この日の興奮を今も覚えている。ポーランド統一労働者党の重大な譲歩だったからだ。同時に、この譲歩は、外部からの圧力で反故にされてしまうのではないかとの恐れも強く感じていた。この合意後、各地で自主管理労組「連帯」が誕生し、人口3千8百万人のポーランドで1千万人の組合員を擁する組織になり、官製労組の組合員を圧倒的に凌駕した。

 ポーランドでは、これまでも、労働者が1956年、1970年、76年と大規模なストライキを起こし、当局に弾圧されてきた。「反体制活動家」の知識人は、地下に潜って活動を続けてきた。1980年の連帯運動は、労働者と知識人が初めて共闘したことにも大きな特徴がある。

 このポーランドにおける自由化に対する日本の支援の手段は限られていた。ルラシュ在京ポーランド大使の要請に応じ、コメの延べ払い輸出を実施できただけだった。ルラシュ大使は、その後、回想録の中で、ポーランド政府に対しては、日本政府が支援を提案しており、日本政府に対しては、ポーランド政府が要請していると二枚舌を使ったことを告白している。その回想録を読んだとき、国益のためと信じて動いたルラシュ大使にしてやられたと思ったものの、悔いはなかった。

戒厳令

 その6か月後、1981年12月13日。我が外務省は、在ポーランド大使館と通信途絶になった。ヤルゼルスキ首相が「戦争状態」(英語ではmartial lawと訳された)を宣言し、外部との一切の通信を途絶したからだった。何が起きたのか。この日から2週間、外務省から家に帰ることができない状態が続いた。報道と友好国からの情報が頼りの状態が続いた。外出禁止令が出されたポーランドにおける邦人保護の状態もわからなかった。在ポーランド大使館との通信途絶が続く中、無線設備を有している友好国を通じての伝言のみが大使館との通信手段だった。その後、任国政府が通信を途絶しても、大使館が外務省との通信手段を確保することの必要性が認識された事例であった。

 「連帯」側には、この戒厳令布告への準備がなされていなかった。ほとんどの指導者が拘束されてしまい、対抗するためのゼネスト等の手段を呼びかけることもなく、単独のストが数件呼びかけられたのみであった。そのうちの一つブイエク炭鉱では、治安部隊(ZOMO)により9人の炭鉱夫が射殺され、21人が負傷した。このブイエク炭鉱の事件は10年間の民主化を求める動きの中で唯一の犠牲者を出した悲劇として伝えられることになった。

 この「戦争状態」は、ヤルゼルスキ首相は、外部からの武力侵攻を防ぐために行ったと当時説明された。自主管理労組連帯の指導者はほとんど拘束され、活動が終了した。このヤルゼルスキ首相の「戦争状態」導入の背景は、その後の研究等により、ヤルゼルスキ首相がソ連に、介入を要請したものの、ソ連はその要請に応じなかったことが明らかになった。つまり、ヤルゼルスキ首相が主張する外部からの武力侵攻があり得なかったことが分かった。しかしながら、当時は、友好国からの情報では国境近辺にソ連軍の集結まで伝えられた。「戦争状態」導入直後は、1968年プラハの春の再来を防ごうとしたヤルゼルスキの判断と私は信じていた。CIAには、ヤルゼルスキの身近な内部通報者がいて、「ソ連からの侵攻の威嚇」について情報が提供されていたことが分かったのはずいぶん後のことであった。

戒厳令の解除

 1983年7月戒厳令(戦争状態)は解除された。しかしながら、その後も、3年間は、連帯の活動は認められることはなかった。戒厳令は、連帯の活動を凍結したものの、他方で、体制の弱体化も招いた。統一労働者党員300万人のうち半数が、1980年からの5年間で離党した。

 1987年11月、リベラルの顔を示すことで体制のテコ入れを図るべく、ヤルゼルスキは、国民投票を実施した。この背景には、ソ連のゴルバチョフ書記長のペレストロイカがあった。ポーランド当局は、経済「改革」と「民主化」を盛り込んだ改革案を国民投票にかけた。結果は、投票率67%で、そのうち66%がこの改革案を支持した。一見、ヤルゼルスキ将軍は勝利を収めたようにみえるが、この国民投票が有効となるためには、有権者の51%が必要との条件を設けていたため、結果として、ヤルゼルスキは国民投票で敗北したことになった。加えて、ポーランド経済の危機は進み、1980年からのゼネスト、戒厳令により国内生産は停滞、減少し、インフレ率は50%を超え、生活に必要なモノ不足が深刻化していた。対外債務は債務不履行の瀬戸際にあった。1988年4月、このような状況に対応するため、ヤルゼルスキ首相は、ほとんどの食料品の価格を40%引き上げた。これに対し賃上げを求める最初のストライキが4月25日ビドゴシチで始まり、ストは他の都市に拡大した。治安部隊が指導者を拘束し、ストの鎮静化を図った都市もあった。5月2日、自主管理労組「連帯」発祥の地、グダンスクの造船所でも始まった。賃上げのみならず、連帯の合法化も求めた。このような中、ワルシャワ条約機構政治諮問委員会がワルシャワで開催され、ゴルバチョフ書記長がポーランド国会で「平等な権利のステータス、独立、我々が直面している共通な問題は、我々の関係において否定できない規範である」と述べた。この言葉は、ゴルバチョフが意図していたかどうかは別として、ソ連はポーランドにおける変革に同意を与えていると受け止められた。8月からストライキは全土に広がった。影響力が弱体していた連帯とワレサが息を吹き返した。全土に広がったストは、国内を事実上のマヒ状態に追い込んでいた。8月26日、ヤルゼルスキは、このマヒ状態に終止符を打つため、ワレサに「円卓会議」を提案した。

円卓会議

 ワルシャワの旧市街に近いラジビウ宮殿で1989年2月6日から始まったこの円卓会議は、その後2か月、92回の協議を続けた。この「円卓」は、現在は、大統領官邸となったラジビウ宮殿に保存され、今も見ることができる。円卓は8つのテーブルを楕円型に並べたもので、中央に空間があり、これは、当局と連帯が対等に交渉していることを象徴していた。ヤルゼルスキが提案してから、実現に至るまで時間がかかったのは、ヤルゼルスキもワレサもそれぞれの陣営を説き伏せるのに力と時間を要したからだった。円卓会議での「連帯」の戦術の最初の勝利は、国営テレビの平等な使用権であった。国民は、ゲレメク、マゾビエツキといった知的で腰の低い指導者が丁寧に説明する姿を連日のように直接、目にし、声を聞いた。当局により、ごろつきとか、売国奴とかレッテルの貼られていた人々の真の姿に国民は支持を広げる結果になった。

地すべり的勝利

 円卓会議は、1989年4月4日合意に達した。「連帯」の合法化、下院の議席数の35%と上院の自由選挙が主要な合意点であった。この下院議席の35%とは、「統一労働者党」とこれまで政権をともに構成してきた「農民党」等の翼賛政党が65%を確保し、政権を維持することを確保するものであった。組織力と資金力に劣る「連帯」は2か月後の選挙は望んでいなかった。私は、このとき、ポーランド担当ではなく、ポーランドの状況は報道で知るだけであった。しかし、私は、ポーランドから発刊されたばかりのこの選挙のための日刊紙「ガゼタ・ブイボルチャ(選挙新聞)」のいきいきとした報道ぶり、そして、ポーランドの国旗の色である赤と白、「連帯」の青いロゴが描かれたポスターが窓、壁、街路樹といたるところに貼り出されている写真を見たとき、歴史が変わる瞬間を見ることになるかもしれないと思った。

 6月4日行われた総選挙の結果は、ワレサの予想すらも上回る結果となった。第一回投票で、下院の自由選挙になった45議席のうち、33議席、上院100議席のうち、99議席を獲得した。ポーランド市民は、統一労働者党にNOの答えを突き付けた。首相、内相、国防相といった党幹部が軒並み落選した。6月18日、第二回投票では、下院の議席をさらに11議席上積みした。この結果を踏まえて連帯がとるべき道について、指導者たちの意見は分かれていた。連帯は政権を担うには経験不足で4年後の選挙で政権掌握を習うべきとする「ゆっくり急げ」との考えもある中で、ワレサは、最終的には「あなた方の大統領、われらの首相」の見出しで知られることのなる戦術をとった。大統領選挙では、ヤルゼルスキを支持し、そして政権は連帯が担うものであった。軍、警察が、統一労働者党に握られている中で、ヤルゼルスキ以外の候補者が大統領として受け入れられるとは思えなかったからだ。ワレサは、ヤルゼルスキの提案した「統一労働者党主導の大連立」を拒否した上で、翼賛政党であった農民党と民主党に、長く続いた共産主義者の政権独占に終止符を打つべく、新政権に「連帯」と合流するよう呼びかけた。保守的な党首たちを説得したのは、党員たちだった。この連立政権の首相にはだれもがワレサが付くものと思っていた。円卓会議の指導的立場にあり、「週刊連帯」の編集長であったマゾビエツキが、ワレサによって首相に推された。マゾビエツキは、ワレサに向って、ワレサが首相に就くべきであると述べたのに対し、ワレサは、「大統領になるのは同意するが、首相ではない」と答えた。(注:「真実への道」344ページ)。1989年8月24日、マゾビエツキが首相に指名された。閣僚のほとんどは、これまでの「反体制活動家」だった。10年間の革命が成功裡に、民主的に実現された瞬間だった。この光景は、のちのベルリンや、プラハや、ブカレストの光景に比べれば劇場性はないかもしれない。しかし、ポーランド市民は、このポーランドの10年の戦いがなければ、他の東欧諸国の民主化も実現しなかったかもしれないと、この10年の戦いを誇りに思っている。今も1989年の東欧革命を実現したのは、自分たちが先陣を切って進めてきたからだと強く自負している。

(主な参考文献)

Garton Ash, Timothy, The Magic Lantern 
(Vintage Edition, Random House,Inc.1999)

Garton Ash, Timothy, We the People
 (Granta Books,1990)

Sebestyn, Victor, Revolution 1989, The fall of the Soviet Empire(Weidenfield & Nicolson,2009)(東欧革命1989ソ連帝国の崩壊(白水社、2009年))

Walesa, Lech,  Droga do Prawdy. Autobiographia
 (Fundacja Instytut Lecha Walesy,2008)

Zubok,Vlasilav,A Failed Empire(University of North Carolina,2007)