日本人ボリビア移住120周年 -移住の歴史-
在ボリビア大使 古賀 京子
2019年は、日本人のボリビア移住120周年に当たります。7月17日には、これを記念する式典が、「サンフアン」及び「オキナワ」の二つの戦後移住地があるボリビア東部のサンタクルス県県庁所在地サンタクルス市において、眞子内親王殿下御臨席の下、日本、ボリビア双方の関係者237名が出席して盛大に開催されました。ボリビア政府からは、最終的にガルシアリネラ副大統領が、モラレス大統領の海外出張のために大統領代行の肩書で出席され、同政府との関係においても最高の形で式典が開催されたと言えます。
記念式典において内親王殿下は、「現在、ボリビア日系人の人口は、約1万3千人と言われ、あらゆる世代の方々が多様な分野で活躍しておられます。日本からの移住者を迎え入れてくださったボリビアの皆様に感謝いたしますとともに、移住者とそのご子孫が、努力を積み重ねられ、現在に至るまで様々な活動を通じてボリビアの発展に貢献し、社会の信頼を得て、両国の架け橋となってこられたことに、心より敬意を表します。」とお言葉を述べられ、両国関係にとって移住者、日系人が果たしてきた役割の重要性に言及されるとともに、移住者、日系人を受け入れてくれたボリビアに対する感謝の念を表明されました。
これを受けて、ガルシアリネラ大統領代行も、「日本人移住者は、ボリビアから何かを奪うのではなく、ボリビアで創造するために来た」、「我が国に良い影響を与え、ボリビアの発展に寄与した」、「日本人移住者とその子孫に敬意を表したい」等と、日本人のボリビア移住を最大限評価する挨拶をされました。
このように、日本、ボリビア双方から高く評価される日本人移住ですが、南米のブラジルやペルーへの移住に比べると、ボリビアへの移住については余り知られていないのが実情ではないかと思われますので、以下、その歴史を振り返ってみたいと思います。
日本人ボリビア移住の歴史
(1)戦前移住
ボリビアと同様、ペルーも今年移住120周年を迎えていますが、これは偶然ではありません。1899年2月に横浜港を出港し、4月にペルーのカヤオ港に到着した790名の日本人は、太平洋沿岸の砂糖黍農園で働きましたが、その労働環境は過酷なものでした。このため、同じ年の9月、ペルーに渡航した日本人の内91名が、ボリビアのゴム生産地で働くため、2名の監督官と共にチチカカ湖を渡り、ラパス県北部にあるサンアントニオにたどり着きました。これがボリビア移住の始まりと言われます。そこでの労働環境も劣悪であったため、ほとんどの日本人は翌年ペルーに戻りましたが、2名の日本人がボリビアに残りました。その後も、ペルーを経由してボリビアに移住する日本人が続くことになります。彼らが従事したのは、主にゴム液の採取やゴムの集荷でした。
18世紀後半に始まった産業革命、19世紀後半の自動車の登場により、世界的なゴム景気が起こり、ボリビアにおいても、1880年頃始まったゴム景気で、北部のパンド県とベニ県においてゴム産業が盛んになりました。ゴム液の採取者は「シリンゲロ」と呼ばれますが、彼らは鉈と缶を持ってアマゾン川流域のゴム林に入り、ゴムの木から樹液を採取し、煙で固めて、業者に渡します。ジャングルの奥地で孤独な生活を送るため、日本人移住者が残した手紙や歌には望郷の念や故郷に残した家族への思いが綴られています。
しかし、20世紀初頭に東南アジアで大規模なプランテーションによるゴムの生産が始まり、1918年に第一次世界大戦が終わると、ゴムの国際価格は大きく下落しました。ゴム景気が終わると、日本人移住者はボリビアの国内外に離散しました。初期の日本人移住者は一攫千金を夢見、故郷に錦を飾ることを目指しましたが、日本に帰るお金も無く、多くの移住者がボリビアに残り、現地の女性と結婚して家庭を築きました。このような戦前移住は、1920年代初頭まで続きます。
(2)戦後移住
第二次世界大戦により日本の国土は焦土と化し、食料難や雇用不足のため少なからぬ国民が海外移住の道を選びました。そのような中、1956年8月、日本とボリビアの間で移住協定が締結され、発効しました。この時、ボリビアで移住受入れを推進したビクトル・パス・エステンソーロ大統領は、「日本人移住者の父」と呼ばれています。
戦後の計画移住により、サンタクルス県に「オキナワ移住地」と「サンフアン移住地」が建設されましたが、両移住地とも、最初の入植は移住協定締結よりも早い時期に行われています。「オキナワ移住地」への入植は1954年8月15日、「サンフアン移住地」は1955年7月27日で、この日付がそれぞれの移住地の入植記念日となっています。
「オキナワ移住地」については、当時沖縄が米国の統治下にあったため、前記の移住協定に基づくものでもありませんでした。沖縄出身者の移住は、戦前にボリビアに移住した沖縄出身者による呼び寄せ計画が発端であり、その後、琉球政府とボリビア政府との間で合意が成立したことに基づいています。当初の入植地も、現在の「オキナワ移住地」とは異なる「うるま移住地」でした。同地で、後に「うるま病」と呼ばれる原因不明の疫病が発生したため(入植者約400名の内15名が犠牲となった)、入植から1年も経たずに、約130㎞離れたパロメティアに暫定的に移転することになり、最終的に1956年8月、現在の「オキナワ移住地」に入植することとなったものです。
「サンフアン移住地」については、1950年代初期、民間のイニシアティブによる計画移住と、政府間の移住協定に基づく計画移住の二つの案が進行していました。そして、移住協定締結前に、前者に基づく87名の移住が1船団限りとの条件で認められたのが、最初の入植とされます。この最初の移住者は、移住協定に基づく移住者と区別して、「第0次移民」又は計画移住を推進した西川利通氏の名を冠して「西川移民」と呼ばれます。
1954年から1964年まで、「オキナワ移住地」には第19次までの移住者計3229名が入植しました。一方、「サンフアン移住地」には1955年から1957年まで、九州出身者を中心に全国から計1589名の移住者が入植しました。これらの移住者は、原始林の開墾、道路などの基礎インフラの整備、言葉や習慣の違いなどに起因する様々な困難に直面しましたが、不屈の努力で、未開のジャングルや荒地を広大な緑の沃野へと変えていきました。ボリビアの農牧業の発展にも多大な貢献をし、今日では、両移住地は米、麦、大豆などの農産物の一大産地として知られています。
120周年記念事業
年間を通じボリビア国内で様々な記念事業が企画、実施されていますが、特筆されるのは、当館が企画・作成した「日本人ボリビア移住史巡回展」です。1月のラパス市での開催を皮切りに、サンタクルス市、両移住地、日系人団体が所在する自治体等、10か所以上で巡回・展示中です。また、本年前半は、雅楽、和太鼓・三味線、江戸糸あやつり人形及びオカリナの各公演、チェ・ゲバラと共に闘った日系二世を主人公とする映画「エルネスト」の上映、茶道デモンストレーションなどが行われました。本年後半は,ラパス日本人会主催「お祭り」、日本武道紹介事業、和太鼓「彩」公演、在留邦人音楽家グループ「ワイラハポナンデス」公演などが予定されています。日本国内でも、5月にボリビアをテーマとした「第二回ラテンアメリカへの道フェスティバル」が行われ、11月には横浜の海外移住資料館において「ボリビア移住特別展」が開催される予定です。
「周年」は、歴史を振り返り、次の「周年」に向けての展望を開く上で良い機会となりますが、今年の移住120周年を契機に、両国の、特に若い世代の人々が移住の歴史に思いを馳せ、日本及びボリビアに対する関心を相互に高めてくれることを期待します。
(本稿を寄稿するに当たって、ボリビア日本人移住100周年移住史編纂委員会編纂、ボリビア日系協会連合発行の「日本人移住100周年誌 ボリビアに生きる」を参照したことを申し添えます。)