第65回 日付と日にち意識

元駐タイ大使 恩田 宗

 平成26年4月1日に消費税が引き上げられた時のことである。終夜営業の大手牛丼チェーン店は一日(ついたち)の朝9~10時から又電車は同日の始発からタクシーはその朝出庫の車から値上げをした。人の一日(いちにち)は朝起きたところから始まり夜眠りにつくところで終わるという我々の日にち意識を考慮しての対応だったという。

 日付は太陽が子午線を横切る正午をその日の中央としその真裏の午前0時を境として変えるのが合理的で日本も明治5年に太陽暦を採用以来そうしてきた。然しそれ以前は違っていた。「日本の時刻制度」(橋本万平)によると日本は7世紀後半に中国の時刻制度を導入したが平安時代になると時刻に縁のない庶民は別として宮廷周辺の人達は丑刻と寅刻の間(午前3時)を日付の境界としていたという。奇妙に思えるが午前3時は宵っ張りも床につき早起きは目を覚ます時間帯で人間の生活リズムには合っている

 時刻観念が民衆に広く普及し都市では鐘や太鼓で時刻が分るようになった江戸時代には子刻の中央(夜の九つ・午前零時)を日付の境目とする武家社会の正統的な考え方と明け六つ(日の出の36分前)を1日の始めとする町方の慣行が併存していた。その為混乱することがよくあったらしい。本居宣長は「我等相果て候」時は必ず夜の九つを境として忌日を定め間違えぬようにと書き残している。人の忌日を何日とするかは重要な問題だったのである。

 芭蕉の紀行文「おくのほそ道」は「弥生も末の七日」(3月27日)に始まるが彼はその少し前に26日に出発すると手紙に書いている。予定を変えたのだろうか。27日早朝の暗いうちに家を出たのであれば予定通りの26日の出発だとも言える。然し「細道」には27日の曙の空に隅田川から不二の峰が幽かにみえたと書いてあり微妙である。結局芭蕉の日にち意識がどうだったかの問題で今となっては分らない。

 毎年12月14日には四十七士に扮した男達が都心を練り歩く。長年の恒例行事らしい。赤穂浪士は吉良邸で茶会が催される14日の夜決行と打ち合わせたので彼等の意識では討ち入りは14日だった。徳川実紀の15日欄でも「昨夜」(今暁でなく)と記している。ただ突入したのは15日午前3時半頃で本懐とげて泉岳寺に着いたのは9時頃である。新聞の写真で見ると包んだ首を槍先に付けて歩いているが14日にそれをするのは早すぎるのである。

 イスラムの伝統では一日(いちにち)は日没で始まる。ユダヤ教でも安息日は金曜の日没から土曜の日没迄である。今ではサウジアラビアでも日常生活は国際標準に倣い午前0時を日の変り目としている。もっとも地方に行って日中に人を訪ね「明日の夜に来てくれ」と言われ翌日の夜に訊ねて大失敗したなどという話がまだ残っている。混乱は時代の進歩・変化への代価だとして受け入れるしかない。