バレンツ地域協力:北極を巡る日本・北欧協力


元駐フィンランド大使 篠田 研次

北の街オウルで

 2015年10月14日夜、フィンランド北部最大の都市でありハイテクの町とも呼ばれるオウル市の市庁舎においてある種の熱気を帯びた中でその夕食会は進行していました。その席上、欧米各国政府の外務大臣他の高官が見守る中、フィンランドのソイニ外務大臣はロシアのラヴロフ外務大臣に議長国の印である小槌を手渡し、両者は笑顔で握手を交わしました。無事にフィンランドからロシアへの議長国交代の儀式が終わり、その場には安堵とともに和やかな雰囲気が溢れたように思われました。前年のロシアによるクリミア「併合」を含むウクライナ情勢の悪化により緊張気味に推移してきていた欧州情勢の下で、果たしてラヴロフ大臣が来訪するだろうか、会議は予定通り円満に開催されるであろうか、と心配する向きも無いとは言えなかったからです。

 その時オウルで開催されていたのは、バレンツ地域協力の推進を目的として1993年に設立された政府間組織である「バレンツ・ユーロ北極評議会」(BEAC: Barents Euro-Arctic Council)の外相会議でした。日本は当初からアジアから唯一のBEACオブザーバー国であり、当時駐フィンランド大使の任にあった私は、オブザーバー国大使としてこの会議に招かれ出席していました。ソイニ外相とラヴロフ外相が笑顔で握手する光景を目の当たりにして、それまでに積み上げられてきたバレンツ地域協力を引続き政治的・軍事的紛争の枠外において出来る限り平穏に進めていこうとの精神が共有されているように感じられ、その夕食会の席上、両大臣に対し祝意を表した次第です。これに先立つ3年の間、駐フィンランド大使として種々見聞する機会を得て、ビジネス、学術・研究のレベルでも、政府のレベルでも、日本が北極圏のこの地域に更に関与し、様々なプロジェクトに参加することにより、北極の環境保護や持続的開発に寄与し得る余地は大きいのではないか、そして、日本がBEACのアジアからの唯一のオブザーバー国である以上それは尚更のことではないか、と考えていました。バレンツ地域協力外相会議の場に居合わせることになり、その思いを一層深くしたことを思い出します。

バレンツ地域協力

 バレンツ地域というのは、近年話題となってきている北極海航路の西の端にあたる、北極圏のフィンランド北部からバレンツ海に面するノルウェー北岸に至る地域を中心に、その東と西のスウェーデンとロシアに亘る一帯を含めた地域です。冷戦の終了とソ連の崩壊を受けて、この地域の安定と持続的開発のための協力を進めようという機運が高まり、デンマーク、フィンランド、アイスランド、ノルウェー、スウェーデンの北欧5ヶ国とロシア及びEUの外務大臣等の代表が、ノルウェー北岸のロシア国境に近い町キルケネスに集まり、BEACの設立に合意したのは、1993年1月のことでした。この地域の直接の当事者であるフィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ロシアの4ヶ国が2年ずつ順番にこの政府間機構の議長国を務め、その事務局は発祥の地、キルケネスに置かれることになりました。バレンツ地域協力の特色は、経済的、社会的、科学的協力の推進に重点が置かれ、立場や見解の存在が顕在化し易い安全保障や海洋問題を協力対象から外したこと、更には、政府間機構に加えて、この地域に位置するこれら4か国の14の地方自治体がメンバーとなる形で、別途「バレンツ地域評議会」(BRC: Barents Regional Council)が設立され、政府レベルと地域レベルの二つのレベルで協力を推進する二層構造の体制が整えられたことでした。 我が国地方自治体がこの地域との自治体レベルでの交流・協力を進める意義も相当にあるように思われる次第です。

フィンランドとの北極協力

 2016年に、フィンランドのニーニスト大統領の日本公式訪問が行われました。その時に行われた首脳会談の際に、「アジアと欧州のゲートウェイとしての日本とフィンランドとの間の戦略的パートナーシップに関する共同声明」が発表されました。そしてこの声明は、「北極」を両国間協力の大きな柱として位置付け、日本とフィンランドがそれぞれ北極海航路の東と西の端に位置し、北極に関する先端技術を有している点を踏まえつつ、連携・協力を推進していくという決意を表明しています。フィンランドは、世界の砕氷船の6割を建造し、8割を設計していると言われています。そもそも我が国にとっては格好のパートナーであると申せましょう。「北極海航路の東と西の端」という概念は両国間協力推進の支柱となっており、そのような文脈で、バレンツ地域を巡る協力はフィンランドと日本双方にとり重要な分野なのです。

バレンツ地域:北極ビジネスの拠点

 バレンツ地域は、現在、北極ビジネスの拠点として活況を呈しつつあります。その分野は多岐に亘ります。バレンツ海に眠る石油・ガスに水産資源、豊富な森林資源、埋蔵量の大きな鉱山、そして運輸・物流、更には観光と、枚挙に遑がありません。私達の口にするノルウェー産サーモンの多くが、ノルウェー北岸からトラックでヘルシンキまで輸送され、そこからフィンエア・カーゴで日本まで空輸されているそうです。何かしら身近な地域という感じがします。

 ノルウエー北岸のハンメルフェストという町では、バレンツ海のガス田に隣接してエクイノル社(旧スタットオイル社)の巨大な液化天然ガス(LNG)プラントが操業しています。ここからLNGが日本の九州電力、更には東京電力向けに北極海航路を経て直接輸送された実績を誇っています。少し東に進みますとロシアとの国境近くにBEAC発祥の地、天然の良港キルケネスがあり、北極海航路の西のターミナルを目指して開発・整備が行われています。このキルケネスとフィンランド北部のロヴァニエミの間の500kmは現在鉄道の空白地帯になっています。ここに鉄道を敷けば地中海から北極海まで鉄道で繋がるという意味で「missing link」と呼ばれています。これら二つの地点を鉄道で結び、北極海航路と欧州中央部を直結する輸送回廊を構築しようとする「北極圏鉄道構想」があり、以前から関係者が熱心に推進しています。また、フィンランドでは、北極海航路に並行してアジアと欧州を直結するデータ通信用の「北極圏・海底・光ファイバーケーブル構想」も熱心に語られています。

 実は、2014年から2015年にかけて3回に亘り、在フィンランド日本大使館の主催で、日本の企業及び学界関係者向けの「北極圏実地踏査ミッション」なるツアーが実施されました。北極ビジネスへの参画や学術研究協力の促進を念頭に置きつつ、この地域の実情をより正確に把握することを目的としたものでした。ヘルシンキを起点に、大型バスでフィンランド北部からノルウェー北岸に広がる地域を縦横に走りまくり、現地の企業や各種施設の視察、関係者との面談を行うというもので、日本のビジネス、学界関係者が延べ数十人参加されました。私も全て同行しましたが、この地域の活力と潜在力に目を見張る思いであったのを思い出します。

LNGバンカリングと北極海航路

 2020年が目前に迫ってきています。国際海事機関(IMO)の決定により船舶からの硫黄酸化物の排出ガス規制強化が愈々2020年には全世界に適用されることとなり、今後この規制に対応可能な液化天然ガス(LNG)を燃料として航行する船舶(LNG燃料船)が増えてくることが予想されています。報道によれば、昨年9月、フィンランドの海運企業ESLシッピング社が新たに建造したLNG燃料船が日本で積荷を積載した後、欧州に向けて北極海航路を航行したようです。将来、北極海航路においてもLNG燃料船が行き交う時代が来ることを予感させる出来事でした。

 船舶へのLNG燃料供給(LNGバンカリング)の拠点構築は、このような見通しに着目して、その普及の可能性に視線が向けられている比較的新しい分野です。日本は世界最大のLNG輸入国であり、LNGバンカリング実用化への距離は極めて近いところに位置していると考えられます。既に横浜及び名古屋において、国の支援の下、関係企業による船舶向けLNG燃料供給の事業化が着実に進められています。これらの我が国港湾がいち早くLNGバンカリングという新しい領域で一大拠点、即ち「ハブ」としての地位を確立していくことが期待されています。

 そもそも我が国沿岸は、マラッカ・シンガポール海峡経由の伝統的航路とパナマ運河の拡張も相まって益々重要性を高めると思われる太平洋航路が、そして更に将来的には北からの北極海航路が加わり、これら三つの主要航路が合流する戦略的、地政学的、地経済学的に極めて重要な要衝に当たると思われます。このような地の利をベースに、バレンツ地域との港湾協力や安全航行支援技術の開発等を含め、フィンランドやノルウェーといった北欧との北極海航路を巡る協力を進めていくことができましょう。今後北極海航路の商業利用が進み、LNG燃料船が多数北極海を航行する日が来ることも想定し得るとすれば、北極地域におけるバンカリング施設建設等の面で提携・協力するといった可能性すら視野に入ってくるかもしれません。

 勿論、北極海航路への関与にあたっては沿岸国ロシアとの協力が決定的に重要であることは多言を要しませんが、そのような文脈においても北欧との提携・協力関係は大きな意味を持つものであり、むしろ「ウイン・ウイン・ウインの結果」をもたらすものと考えます。このようなLNGバンカリングの面を含めて北欧との協力を強化することは、北極海航路への日本の参画を後押しするのみならず、今後我が国港湾が海運のハブとしての位置付けを取り戻し、復活し、強化されていく上で、その為の一助となり、或いは、突破口となっていく可能性をも秘めているものと愚考する次第です。

バレンツ地域:北極海航路を挾むパートナー

 バレンツ地域は、今後とも日本企業にとって新たなビジネス機会を齎し得るのではないかと思われます。また、この地域における様々なプロジェクトへの参画、そしてバレンツ地域への日本ビジネスのプレゼンスの強化は、北極海航路への関与の一環をなすものとも位置付け得るものでありましょう。そのことは、北極海航路の東西のターミナル同士となり得る、我が国とフィンランドやノルウェーといった北欧との間のパートナーシップとして誠に相応しいものではないかと考えます。