「アフリカの温かい心」は輝けるか 【アフリカと日本】


駐マラウイ大使 柳沢香枝

1.「平和の罠」に捕らわれたマラウイ

 今年3月の大雨と南部アフリカを襲ったサイクロン「イダイ」はマラウイにも大きな被害をもたらし、一時は90万人近くが避難を余儀なくされた。しかしその状況は、私にはそれほど悲惨なものには見えなかった。なぜなら被災者の多くは、日頃から日干しレンガと草葺き屋根で囲まれた家(床は土間)に住み、水も電気もトイレもない生活をしているからである。貧しい人々は、言わば恒常的にキャンプ生活を送っているようなものなのだ。

 「アフリカの温かい心(Warm Heart of Africa)」を自認し、独立後1度も内戦や紛争を経験していないマラウイが世界第4の最貧国であり、しかも下位の国はソマリア、南スーダン、ブルンジなど政情不安な国ばかりであること、同国民間の虐殺という悲劇を経験したルワンダが、いつの間にかずっと先を走っていることに、マラウイ人のプライドは大きく傷つけられている。

 実際、国道から一歩脇に逸れれば未舗装の悪路ばかり、電化率はわずか10%であり、さらに停電も日常化している。1クラスに100人以上が詰め込まれた教室、高学年になってもかけ算ができない児童が大多数、病院に行っても医薬品が不足していて満足な治療が受けられないなど、状況はきわめて悲惨である。こうした状況を「平和の罠」と称するマラウイ人もいる。

2.栄光の時代

 21世紀も20年が経とうとしている現在でもこの状況なのだから、40年前、50年前はどれほどであったのだろうと思うのだが、驚くことに着任後出会った多くのマラウイ人有識者のほぼ全員が、「昔は良かった。マラウイは劣化の道を辿っている」と言うのである。昔というのは1994年より前、すなわちマラウイが1993年の国民投票を経て翌年の総選挙で一党独裁体制から複数政党制に移行する以前のことである。

 1964年の独立から30年間、マラウイは初代にして終身大統領であったカムズ・バンダの治世下にあって、大統領への権限の過度の集中、政敵の逮捕、投獄、拷問、事故に見せかけた殺害などの人権侵害が横行した暗黒の時代であった。しかし有識者のノスタルジーは、もっぱら政治以外の部分に向けられている。それは全国を縦断する道路や発電所などのインフラ建設であり、「南部アフリカ一」の教育レベルであり、「子どもが床を這っても平気」なほど清潔な病院であり、また多くの雇用を生み出していた製造業である。

3.少数精鋭から包摂性へ

 ではマラウイは「中流」から「下流」に転落したのであろうか?データ(世銀)を見ると、独立後から70年代末までの経済成長率はサブサハラ・アフリカの平均を上回っているものの、マラウイは一貫して最貧国であり続けてきた。

 最貧国でありながら国民が誇りに思えるインフラ建設や公共サービスが実現できたのはなぜであろうか。一つには英国保護領時代から活動してきたミッション系の学校や病院が機能し続けたことに加え、小学校も義務教育でないなど、資源配分の「選択と集中」が許された時代であったことが挙げられる。国力に見合った投資を、量ではなく質の確保に向けることができたのである。古き良き時代を語る人々は、この恩恵に預かったエリート層であった。

 しかし、選挙を通じて国民の審判を受ける民主主義、そして持続可能な開発目標(SDGs)に代表される国際社会の潮流は、包摂性(誰一人とり残さない)を求めるようになった。実際1994年の総選挙で当選したムルジ第2代大統領は初等教育の無償化を公約として掲げ、2019年の総選挙をにらんだ昨年は、中等教育の無償化が約束された。

 一方で、独立時にわずか400万人であった人口は1994年には975万人、そして2018年には1、770万人にまで膨張した。財源が乏しいマラウイでの包摂的な公共サービスとは、質を度外視した形式的なものにならざるを得ないのが現状だ。

4.自由主義か人権か

 国際社会との関係もマラウイの発展に大きな影響を及ぼしてきた。バンダ大統領時代のマラウイは、反アパルトヘイトを掲げ社会主義圏との接触を深める近隣諸国(タンザニア、ザンビア、モザンビークなど)の中にあって、西側陣営にとって重要な「楔」であった。共産主義への嫌悪を明言していたバンダ政権に、英米やその影響下にある世界銀行は積極的に援助を行った。また1970年代の首都移転は、南アフリカ政府の支援の下に行われた。

 他方で1970年代末から実施されたIMF・世銀主導の構造調整政策は国内経済を疲弊させた。さらに冷戦の終結に伴う国際環境の変化は西側諸国との関係を一変させた。欧米諸国にとってマラウイの人権侵害や民主主義の欠如は、突如として大きな問題として認識され、複数政党制に移行しなければ援助を停止すると脅かすまでになった。その後現在に至るまで、ガバナンス、民主化支援、人権重視などが欧米ドナーの援助の大きなテーマとなっている。

5.民主化がもたらしたもの

 鉱物資源に恵まれていないこと、内陸国であること、雨が年間4ヶ月しか降らず農業生産が制限されることなど、マラウイが最貧国にとどまっている理由はいくつもある。

 そうした「不幸の重なり」もさることながら、最大の問題は、皮肉なことに民主化にあり、「政治」にあるように思える。選挙を意識して政治家が短期的な成果に注力し、長期的な国家戦略を持ちにくくなるのは民主国家共通の現象であり、マラウイも例外ではない。加えてマラウイでは与党と政府との境界がきわめて不分明であり、政府の中枢幹部の職にある官僚は全員与党の支持者である(と信じられている)。

 与党が政府を支配することにより、政府の財源が公式・非公式に政党の活動に充当されるばかりでなく、政治家と結託した公務員による公金横領や不正調達のニュースが後を絶たない。バンダ大統領時代に存在した公務員の規律は地に落ちたと、昔を懐かしむ人々は言う。

 このような政治文化の中で、国民の間には「努力すれば報われる」のではなく、「有力者とコネがなければ報われない」との無力感が漂っている。そしてあらゆる事に政治色がついていると捉えられ、政府の発表であれ裁判所の判決であれ、自分の望む結果でなければ「与党に有利な決定がなされた」と解釈されるのである。

 その象徴が、今年5月に実施された総選挙である。選挙委員会が結果を発表した後、野党2党が大統領選挙に不正があった(同日実施された国会議員選・地方議員選については結果を受け入れている)として無効を訴え、市民団体も完全に同調してデモを繰り返している。またデモに乗じた暴徒が政府の建物を焼き討ちし、商店の略奪を行っている。この原稿を作成している現在も決着がついておらず、治安状況が懸念される。

6.日本に何ができるのか

 こうしたことが重なり、最貧国ではあってもキラリと光るものを持っていたマラウイが、輝きを失った普通の最貧国になってしまった、というのが1994年以降の姿なのではないかと思う。
 マラウイが再び輝くためには何が必要であろうか。私は、それは「信頼」(Trust)ではないかと考える。政府に対する信頼、法に対する信頼、システムに対する信頼がなければ、まじめに努力しようとする者はいないであろう。そのためには、政府が公正に適切にサービスを提供すること、そして国民の側にもルールを守るという精神が培われることが必要だ。

 では日本はマラウイのために何ができるであろうか。日本はまさに「信頼に基づく国」ではないだろうか(最近やや揺らいできてはいるが)。社会の構成員一人一人が自分の役割と責任を果たすこと、それによって自分も社会から利益を得ることができるということを、日本人は無意識のうちに理解しているのではないだろうか。

 こうした目に見えないものを伝えることは可能であろうか。実はマラウイ人はとても感受性の強い人々である。日本での留学や研修を経験した若者達は、日本社会がよって立つもの(時間の厳守、目的遂行意識、秩序ある行動、責任感、チームワークなど)を正しく感知して帰ってくる。こうした人々が増えてきて、自分の力で社会を変えてみたいと行動するようになれば、マラウイも変わっていくのではないかと期待される。

終わりに

 マラウイ人は旧宗主国である英国や超大国である米国に、強い憧れと反感という、相反する感情を抱いている。両国の寛容な奨学制度や様々な援助に感謝する反面、内政干渉的な発言には、反政府的な人々も含めて強く反発する。2007年末に国交を樹立した中国とは、政府同士の関係はきわめて良好だが、国民の間には土地やビジネス機会を中国に奪われるのではないかという警戒感も少なからずある。

 そうした中、幸い日本に対するネガティブな感情は今のところ存在しない。それは累計1、900名を超える青年海外協力隊の人々がマラウイ社会との間に培った友情や、ODAプロジェクトに様々な形で関わった日本の人々が、マラウイ人を尊重し、勇気づけ、ともに働くという姿勢を見せてきたことの証ではないだろうか。
そのことが図らずも裏づけられたのは、7月末に当地のJICA事務所が投石被害に遭った時である。前述の選挙結果を不満とするデモ隊の一部がJICA事務所に投石を行い、窓ガラスが10枚ほど割られたため、大使館のフェースブックで遺憾の意を表明したところ、”We are Tomodachi”、”Gomennasai”といった心温まるコメントが多く寄せられた。

 今後も日本がマラウイにとって信頼できるパートナーであり続けられるよう、大使館としても努力していきたい。

(本原稿は筆者の個人的見解です。)

カムズ・アカデミー
キャンプ 炊事風景