第62回 日本画と日本の音楽

元駐タイ大使 恩田 宗

 在外公館長の公邸の壁を飾るのは主に日本画である。然し備え付けられている楽器はあるとすればピアノで琴や三味線は置いていない。

 所謂「日本画」は明治の清新なナショナリズムが生み出した日本独自の絵画芸術である。日本古来の絵画は維新の直後は過激な欧化政策のため瀕死状態で人々は芸術とか美術という概念にもまだ馴染んではいなかった。それを憂えたフェノロサがその保存復興の必要性を説き弟子の岡倉天心が行動に移した。西洋画の技法をも参考にしつつ伝統的諸絵画を総合発展させ近代化するために努力した。明治も中期に入ろうとする頃で文明開化に対する反動としての国粋復興の機運に後押しされたのも幸運だった。天心は西洋画に対峙し得る日本の国民絵画の創出を目指した。明治22年開校の東京美術学校の校長となり当初は油彩画を教えず大観、春草など「日本画」の体現者と言われるようになる若い画家を育てた。校長時代に「我美術品を外国市場に輸出して富国の一端を図(る)」と書いているが「日本画」は未だに外国には売れていない。 

 東京音楽学校も同時期に開設された。校長の伊沢修二は合理的開化主義者で教育は音符で表示できる洋楽で通し邦楽は扱わなかった。日本人に今広く親しまれている音楽が洋楽で洋楽という言葉も使われなくなっているのは小学校唱歌に代表される学校での音楽教育も洋楽で貫いたからである。明治人の伊沢は「将来国楽を興すべき人物」を養成するとも言っていたが「国楽」は遂に興らなかった。代わりに今は日本人洋楽家が海外でも活躍している。

 日本は外来文化を受容しつつ伝統文化を並行して保持してきた。大観の孫世代の画家達はこう述べている。「日本画と洋画は根本的に違う」「究極的には絵画に西洋も東洋もない(と思うが)和洋折衷・・などということは考えない。日本画で突き進むだけ(だ)」高山辰夫。「老化(の)・・様相をみせる現代ヨーロッパ美術・・それに対し日本画はまだ若すぎるくらいである。だから私達は・・根拠のない批評(を気にせず)より自由に(ものを見、描いてゆく)」加山又造。「(西洋美術の伝統には)圧倒される」「(日本画はそれに対する)アンチテーゼとして・・(日本の)精神性・・思想・・を守ろうとした面がある・・(和洋)二重構造は歴史的宿命(で)」「日本画・・を全世界に向って跳躍させる・・それが使命・・だと感じ(ている)」平山郁夫。

 同じ二重構造でも今の日本の絵画と音楽は有り方に大きな違いがある。明治の革命期におけるそれぞれの分野における指導者の踏み切り方の違いに遠因する。今世界の各地各国はグローバリゼーションで自らの社会組織や慣習を世界(大体は米国)の標準に合わせるよう迫られている。ここでどう踏み切るかでこれからの国の形が決まる。