オーストラリアをより深く理解する


前駐オーストラリア大使 草賀 純男

 オーストラリアに対する理解を深めるため、本稿はオーストラリアの生い立ちに遡ってその歴史、オーストラリア人、そしてWHITE AUSTRALIA POLICY(白豪主義)とは何であったか、それは今どうなったのかについて、具体的なストーリーを交えて、考えてみたい。その中で、日本とオーストラリアが歴史の中でいかに密接な関係を有してきたか考えてみたい。

 まず舞台は、オーストラリアの母国イギリスから始まる。

[その歴史とは?]

クック上陸の絵

 現代オーストラリアの始まりは、1770年イギリス人のキャプテン・クックがシドニーのボタニー湾に上陸したときに始まる。キャプテン・クックがイギリスによる領有を宣言する。次に1788年フィリップ提督率いる船団がシドニーに到着する、総勢1400人、うち770人が囚人。これがイギリスによる豪州への植民の始まりとされる。

 当時(1700年代から1800年代)イギリスでは窃盗でも死刑になる程、刑罰が厳しく監獄・刑務所は定員を遥かに超し超満杯の状態にあった。窮余の策としてテームズ川や港に臨時の牢獄船を何隻も浮かべて囚人たちを収容したが、それもすぐ満杯になり、焼け石に水であった。そこで当時イギリスが開拓し始めていた海外の植民地に目が付けられた。つまりイギリスから追放されるべき囚人を植民地に流刑にし、かつ彼らの労働力を植民地建設に活用するとするとのアイデアが出てくる。

 18世紀後半からイギリスで始まった産業革命の結果、人々がロンドンなどの大都市に大量に移動し、都市は過密状態になる。その結果職が足らず失業者が増え続け、貧困による窃盗などの犯罪が激増した。こうして増え続ける囚人を当初イギリス政府は植民地アメリカに流刑囚として送致していた。だが1783年のアメリカ独立戦争の結果イギリスは敗北しアメリカは囚人の受け入れを拒否する。これにより、イギリスは囚人の送致先、持って行き場を失い、別の植民地としての豪州に着目する。1788年から囚人移送が終了する1868年までの80年間に合計16万4千人のイギリスの囚人が806隻の船で豪州に送られる。因みに、アメリカ独立までの間にイギリスがアメリカに送った囚人の数は少なくとも5万人と推定されている。考えてみれば日本でも犯罪者に対しては「島流し」という刑罰が存在した。それと同じような状況であった。

 17世紀後半から19世紀初頭までイギリスでは200以上もの犯罪が死刑になり得た。当時の法律によると死刑を課され得る222の犯罪の多くは財産権の侵害、つまり、スリや窃盗、店での万引き等であった。無断での立木の伐採、ウサギの盗み、パンを盗んだだけで死刑になることもあったという。狙いは厳格な刑罰による犯罪の抑止、防止であったとされるが、犯罪者が激増していたことを見るとその効果がいかほどであったのか疑問なしとしない。

 こうしてイギリス人による植民が始まった頃オーストラリアには4万年乃至6万年も前から住んでいる先住民のアボリジニーが75万から100万人住んでいた。アボリジニーはこれ以降多くの土地をイギリス人に奪われ、別の荒れた土地に追いやられて行く。1962年まで選挙権も認められず、オーストラリア市民権も1967年まで認められなかった。植民地としての豪州は年率10%ほどで成長するも、これは、アボリジニーの犠牲の上に成り立っていた。土地は収奪され、入植者の持ち込んだ病原菌(梅毒、インフルエンザ、はしか)は抗体を持たないアボリジニーの間に猛威を振るい、 その人口を激減させた。その弱まった先住民社会をイギリスからの入植者たちは侵略していった。

 1830年当時の豪州の人口は7万人しかいなかったが、何とその7割、5万人前後が囚人であった。しかも大半が16〜35歳と若い男性の囚人であったから、彼らは最も生産力の高い労働力として酷使されたようだ。

  [その国民とは? ]

 さて、ここから、オーストラリア人について話したい。

 元々はイギリス/アイリッシュ系が大半で「アングロ・ケルテイック」とも言う。出来れば白豪主義によってアングロ・ケルテイックの民族のままでいたかったが、そうはいかなかった。第二次大戦後、豪州としての国の生き残りと発展の為、徐々に他のヨーロッパ諸国、イタリア、ギリシャ等南ヨーロッパ、そしてドイツ、オランダ等中部ヨーロッパ、さらに共産主義が広がった東部ヨーロッパから来た移民や避難民を受け入れ、そして1960年代、70年代以降アジア諸国(ベトナム、中国、インド、日本、等々) からの移民を次々に受け入れることによって国としての生き残りと発展を図っていく。かくて第二次大戦はオーストラリアに大きな変化、変革をもたらした。

「日本軍の」ダーウィン空襲の新聞記事

 第二次大戦を通じ豪州は、日本軍による空襲や海からの砲撃等は受けたが、上陸による侵略は辛くも逃れた。しかしこの「恐怖」の経験から、戦後、その国防と国家発展の為イギリス系に加えてイギリス系以外のヨーロッパ人労働者の受け入れ拡大へ方向転換する。イギリスからの移民だけでは豪州の人口が十分に増やせないと考えられた。”Populate or perish”! もっと速く白人の人口を増やさなければ豪州はアジア人に呑み込まれ、消滅(perish)してしまうとの危機感を表した1935年の政府のスローガンである。1935年当時の人口はわずか670万人であった。このスローガンは戦後の1947年頃になっても堅持されていた。世界大戦で疲弊したヨーロッパに較べ侵略を免れた豪州は戦後の建設ブームに沸いていた。(スノーウィー・マウンテン計画と称する巨大な水力発電プロジェクトの為だけに世界30カ国から10万人の労働者が集まったとされる。)

 このように豪州は第二次大戦後大規模な移民受け入れを開始した。これが現在の「多文化国家オーストラリア」の事実上の始まりと思われる。1945年戦争が終わった時点で、オーストラリアの人口はわずか700万人。1935年当時からの10年間で僅か30万人しか増えていない。ところがその後1985年までの40年間に420万人もの多数の移民を受け入れるのである。しかもそのうちアングロ・ケルテイック(イギリス・アイリッシュ系)は4割に過ぎず、残り6割はそれ以外のヨーロッパ人およびアジア人だった。

 1950年代の初め以降、豪州政府は、オランダ人、イタリア人、ギリシャ人、ドイツ人, トルコ人、そして東ヨーロッパから共産主義を逃れてくる難民達にも次々に門戸を開いていった。1958年のオーストラリア政府の選挙向けパンフレットにこう書いてある。「困難なプロジェクトに必要な労働力として非熟練の非英国系の(ヨーロッパ)移民が求められている、これらは豪州人や英国系労働者には受け入れられない過酷な労働である。」 1970年代からはベトナム戦争の結果としてのベトナム難民の受け入れを始めとしてアジア系の受け入れすらも許容するよう舵が切られ、アジア系移民が急増し始める。そして1983年英国系移民の数が初めてアジア系移民の数に追い抜かれる。

[ではそもそも白豪主義とは何で、それはどこに行ったのか?]

 白豪主義の経緯、背景を考えたい。

 1851年、金(ゴールド)がビクトリア州で発見される。これによって、当時、豪州全体でわずか40万人の人口のところにイギリス人、アイリッシュ、ドイツ人、他のヨーロッパ人そして中国人が大量に入国して来た。このゴールドラッシュにより多くの国から大量の自由移民が入国し、豪州はそれまでのイギリス人の「囚人の流刑植民地」から世界各国からの「自由人の集まる地」へと急速に生まれ変わって行った。

 こうして1851年の人口40万人から20年後の1871年には人口が170万人、4倍あまりに膨れ上がった。中国からはその同じ20年間に4万人の中国人男性と9千人の中国人女性が移住してきた。これらは主に金(きん)目当ての鉱夫であるが、一部は金採掘業者になったりして、中にはビジネスで成功するものも出てくる。

 白人鉱夫は低賃金を厭わず働き、彼らの職を脅かす中国人鉱夫の成功を妬み、彼らへの反感が暴動の形で何度も起きるようになった。結果、1875~88年の間に全ての豪州植民地はこれ以上の中国人の移民受け入れを規制する法律を制定し、これが1895年には南太平洋島しょ国からの移民を含む全ての非白人を対象とする規制へと拡大された。

 これが1901年(6つの各州植民地委が統合して結成された)オーストラリア連邦の成立と同時に移民制限法が制定された背景である。発端はゴールドラッシュの際の中国人の大量の入国だったようだ。そしてそれが、非イギリス系、非白人の移民の制限になっていく。国家誕生と同時に「ホワイト・オーストラリア」ポリシーの開始が決定され、第二次大戦まで強化されていく。こうして第二次大戦までの当初の40年間は、白人、中でも英国系とアイリッシュ系が優遇された。しかし戦後になってメンジス政権とホルト政権は1949~67年の間に20年かけて白豪主義の撤廃を段階的に進めていく。最後に1973年に至りウイットラム政権は法律により人種は移民受け入れの際の要素として考慮されないことを決定した。今からわずか45年前のことである。これで白豪主義が正式に終了する。白豪主義の大きな要素は人種的偏見であったが、これに加えて、白人労働者の生活水準を脅かす低賃金労働者の受け入れ拒否であり、低い生活水準の受け入れ拒否だった側面があったことが興味深い。この考え方は実は現在の移民受け入れの考え方にも通じるものがある。低賃金労働と低い生活水準は豪州では非常に嫌がられるのである。

 他方で、1919年第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本は人種平等、人種差別撤廃を追求する。しかし、白豪主義を採っていた豪州のヒューズ首相はこれに強く反対した。そして1930年代日本のアジアと南方への武力進出、拡大政策に対しても豪州は警戒感を高め反対を続けていく。ヒューズ氏は1935年に、オーストラリアは「人口を増やさないと消滅することになる」と警告。さらに第二次大戦中、日本からの攻撃を受け、このままでは侵略されるとの恐怖感が生まれ、大人口国のアジア諸国に囲まれた小さな白人国家豪州の脆弱性が”populate or perish” という切実なスローガンを豪州全土に拡散させていった。オーストラリアをヨーロッパ人で埋めるか、さもなければ、圧倒的多数のアジア人に呑み込まれてしまう危険があるというものである。第二次大戦中、豪州兵はアジア各地で日本軍と戦った。シンガポール、マレーシア、インドネシア、ニューギニア、珊瑚海海戦等々等々。1万人近いオーストラリア兵が日本との戦闘中に死に、同じくらいの数の豪州兵捕虜が病気や過酷な労働で死んだとされる。

1942年 日本軍によるダーウィン空襲等
桜元信子(別名チェリー・パーカー)さんは広島県呉市でメルボルン出身のオーストラリア兵ゴードン・パーカーさんと出会い日本で結婚し、2人の子どもをもうけた。第二次世界大戦直後、白人国家を目指して白豪主義を掲げていたオーストラリアに日本人妻第1号として移住。

  1942年2月日本軍はイギリス領シンガポールを攻め陥落。そして早くも1942年2月19日にはダーウィンを空襲、3月2日に西豪州のブルームを攻撃、3月14日クイーンズランド州の木曜島を爆撃と立て続けに北部オーストラリアへの空からの攻撃を続けた。これは、連合軍がこれらの街を日本の東南アジアの拠点を攻撃する為の基地として使わせない為の攻撃であった。1945年、日本は敗北し、日本からの脅威は去ったが、反日感情は強く残った。その中で早くも1949年にホルト移民大臣は800人の非欧州系難民の永住を認め、1952年日本人戦争花嫁に対して豪州への移住を認めた。1956年までの5年間に650人の日本人戦争花嫁が豪州兵の夫からの請願によって豪州に受け入れられた。(注:日本人戦争花嫁とは第二次大戦後の連合国駐留軍の一部として広島県の呉市に駐留した1万人を超える数のオーストラリア兵がそこで日本人女性と出会い、結婚する。勿論白豪主義を採用しているオ-ストラリア政府はこれを受け入れるのに消極的だった。しかし夫の豪州兵たちが請願してようやく彼女たちの入国が認められることになる。日本人戦争花嫁は白豪主義に風穴を開けた最初の日本人グループだったと言える。)

 その間、豪州は多くの南欧州からの移民を受け入れた。イタリア、ギリシャ、ユーゴスラビア王国等々。豪州は早くも1950年にはコロンボプランによって、アジア諸国から豪州大学への学生受け入れを始める。1958年、当時の移民法にあった移民を規制するためのヨーロッパ言語の書き取りテストdictation testが廃止され、1959年アジア人配偶者の受け入れが許可された。1966年ベトナム難民の受け入れが開始される。(ちなみに、南豪州の現総督ヒュー・バン・リー氏は1977年ボートピープルとして妻と40人のベトナム難民とともに豪州に入国、その後アデレード大学で学び、MBAを取得し公認会計士になり南豪州の副総督を務め最終的に2014年に総督に登り詰めた。豪州ではマルチカルチュラリズムの象徴的人物である。)

 [では白豪主義を捨てたオーストラリアの次の方針は何だったか?]

 それが「多文化主義」。1973年に正式にWhite Australia Policy が廃止されたが、その2年後の1975年オーストラリア首相と野党党首が超党派で「多文化主義(Multiculturalism) 」 が与野党問わずオーストラリアの主要な政治の優先事項であると合意し、宣言する。これが「多文化国家」オーストラリアの政治的始まりだと思われる。これ以降何度となく繰り返し、「マルチカルチュラリズム」という言葉が出てくるようになる。そして2009年に中国が移民出身国として英国、NZを抑えて初めて首位に立った。2015年ターンブル首相はオーストラリアのことを”most successful multicultural society” 、今や「200カ国から移民を受け入れている」と豪語していた。

  ただこうなると一部に異論、反発も生じてくる。1996年には多文化主義に対する反動で、極右とされるポーリン・ハンソン女史(一つの国家、民族を標榜するワンネーション党)が投票の9%を獲得、当選。議会スピーチで、「このままだと我々はアジア人に呑み込まれてしまう」と人種差別的なスピーチ。多文化主義に公然と反対する。アジアからの移民は独自の文化や宗教を持っているのでオーストラリアに適応できないという趣旨の演説をし、多文化主義を推進する国民の間で物議を醸した。ハンソン議員の主張は豪州国内からの強い反発を受け、20年間議員を落選していたが、2016年の選挙で再び当選し現在国政に戻った。今でも一定の共感と支持を得ているとみられる。(ただし、このハンソンさん,日本については尊敬しており、好きだと言い、私の日本大使公邸にも二回も来た。)

 [白豪主義から多文化国家への転換は何を意味するか?]

 ここで多文化主義への転換がオーストラリアにとって何を意味するか考えてみたい。

 イギリスからの移民はオーストラリアにとって国の成り立ちそのものである。言わばオーストラリアの根幹である。しかし、「多民族、多文化国家」を標榜するようになると「英国系オーストラリア」というコアすら絶対ではなくなる。誰でもオーストラリアの市民権を認められれば、れっきとしたオーストラリア人になる。

 移民としてオーストラリア人になるに当たり移民は「良きオーストラリア市民」になることを誓約する。そして市民権を貰えば、あとは他のオーストラリア人と同じ権利を有する。それが「移民国家」というものである。

 ただ、その分これまでのイギリス系オーストラリアという「アイデンティティ」はどうしても薄まってくる。文化も、伝統も、宗教(キリスト教)も、そして歴史ですら同じ国民の間で完全な共有も、絶対視もできなくなる。白豪主義から多文化主義への移行、転換に伴い、伝統、文化、宗教、そして歴史の相対化が進む。これが今後どこまで進み、どこに行き着くむのか、注目される。壮大な国家的実験がオーストラリアで進行中である。