第60回 拓殖大学国際教育会館と日中関係
元駐タイ大使 恩田 宗
拓殖大学国際教育会館は中国と因縁のある建物で1933年に建設された時の工費38万円は義和団事変の賠償金で賄われている。鴟尾をかざした大屋根が日本を感じさせるが東京大学と同じ内田祥三の設計で3階建鉄筋コンクリート作りである。東方文化学院東京研究所(後に東京大学東洋文化研究所)のために建てられ先の大戦の後は1995年まで外務省研修所が入居していた。その後払い下げられることとなり再開発の対象になりかけたが付近の住民の保存運動で救われ今は拓殖大学が所有し保存することになっている。
義和団事変(1900年)は清朝に最後の致命的な打撃を与えた戦争だった。敗戦で負った4億5,000万両(テール)の賠償金は当時の日本政府の総予算の倍近い額である(1両=1.4円)。衰えていた清朝がとても払える額ではなかったが当時の主要な帝国主義国を網羅する11か国の連合軍の強い要求に抗しきれなかった。39年賦(年利4分)にしてもらって呑み込んだ。賠償がそのように巨額になったのは連合各国が各自の要求を持ちより調整もせず合算して丸ごと突きつけたからである。強欲なロシアが最大の1億3千万両、ドイツ9,000万両、仏7,000万両、英5,000万両だった。兵力の大半を提供した新入りの帝国主義国日本は出兵実費の3,500万両を要求した。米国も3,300万両だったが持ち帰らず現地で精華学校(米国留学への予備校)などの設立運営に当てることとした。
第一次大戦後、新生中国政府は賠償の支払い免除を各国に求めた。日本は米国に倣い免除の代わりに1922年以降の賠償金(利子とも毎年約250万円)を外務省所管の基金として積み立て(20年で5,000万円)、その運用益(毎年約250万円を想定)をもって現地で教育学芸医療等の事業を行うと約束した。北京に人文科学研究所、上海に自然科学研究所を設立、日中協力で事業を進めるため東方文化事業総委員会を組織した。然し活動開始間もない1928年の斉南事変で反日感情が沸騰し中国側委員が全員脱退したため計画が頓挫した。そこで翌年日本でも事業を行うこととし東京と京都に研究所を持つ東方文化学院を設立した。その頃になると中国では文化事業を円滑に実施できる状況ではなく同事業特別会計は歳入7~9百万円に対し歳出2~3百万円と金余り状況であった。あの建物は中国で使い道の亡くなってしまった資金の一部で建設されたものである。
拓殖大学は義和団事変の年に設立された台湾統治のための人材養成学校に始まる。今、国際教育会館は外国人学生に日本語教育をする教室になっている。100人近い学生の大半が中国人か台湾人で1年在学の後にはそのほとんどが日本の大学に進学して行くという。あの建物に心があれば日本と中国の戦争の落とし子という出自にまつわる重い霧が晴れる思いをしていると思う。