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時空を超えた友情


在ポーランド大使 川田 司

 襟元の美しい淡い鶯色の着物姿の女性が、小さく切った炉の前で、黒い炭を継いでいる。

 「普段は電炉を使うのですが、今日は初釜ですので、炭を使います。やはり炭を使わないと、シュンシュンという松風のような、心を落ち着かせる、茶釜の湯の沸く音はいたしません。」

 淀みない日本語で語る茶事の亭主は、ウシュラ・マハ・ブライソン、皆からウラさんと呼ばれるポーランド女性である。ワルシャワにある裏千家支部「寸心会」の会長を務める。昨年七月にポーランドに着任して以来驚か されたのは、日本文化を深く理解し、しかも実践しているポーランド人の多いことである。茶道ばかりでなく、能を研究し、新作能まで書かれる元駐日大使のロドヴィチ女史のような方もいる。日本語を習う学生は4,500人、空手人口は40,000人と言われている。

 我が国は、そのようなポーランドと今年国交樹立百周年を迎えた。本稿では、この親日国との友好の歴史の一端を紹介したいと思う。

1. 国交樹立

 三国分割により123年間国を失っていたポーランドは、1918年11月、ウィルソン大統領の14箇条の平和原則に従い独立を果たした。1919年3月6日、当時の原敬内閣は、ポーランド国家とパデレフスキー政府を承認する閣議決定を行う。3月22日に右決定をポーランド側に通報、この日をもって両国間の外交関係も樹立された。


2. 国交以前の関係

 国交樹立以前にも、即ちポーランド「国家」が存在する以前においても、両国の関係をつなぐ人物がいた。

 明治の陸軍将校福島安正は、ポーランドを訪れた最初の日本人と言われている。当時福島は、在ベルリン日本公使館の武官を務めていたが、1892年2月11日から488日かけて、ベルリンからウラジオストクまで、愛馬とともに単騎遠征を行った。途中ワルシャワも通過し、「整然とした、騒々しく活気に溢れた、古の自由なポーランドの都」と手記に記している。

 片や、日本を最初に訪れたポーランド人は、ユゼフ・ピウスツキ、後に初代国家元首となり、ポーランド共和国建国の父と言われた人物である。日露戦争が始まると、1904年7月、当時独立運動を指導していたピウスツキは、ロシア軍におけるポーランド兵士の反乱扇動と引き替えに、日本のポーランド独立運動への支援を要請する内容の同盟案を携えて、訪日したのである。残念ながらこの同盟案は、同時期に訪日していた独立慎重派のドモフスキの反対もあり、実現しなかった。

 興味深いことに、ユゼフの兄ブロニスワフ・ピウスツキは、政治犯として樺太に流刑になったが、文化人類学者でもあった同人はアイヌの研究を行い、その詳細な研究資料が今も残されている。現地で結婚もされており、筆者もその子孫の方にお会いしたが、数十年前に教えられるまでは、ブロニスワフの子孫であるとは知らなかったとのことである。

3. シベリア孤児の救出

 余り知られていない両国関係における心温まるエピソードの一つが、1920年から1922年にかけて行われた、シベリアにいたポーランド人孤児の救出である。当時シベリアにはポーランドから多くの政治犯等が追放されていたが、戦争と革命の混乱により、孤児となった子供たちが多数いた。ウラジオストクに「ポーランド救済委員会」が設立され、同委員会から我が国外務省に子供たちの救済要請がなされた。これを受けて、日本赤十字社は、シベリア出兵中の日本軍の協力を得て、合計765名の児童を、ウラジオストクから敦賀港に運んだのである。子供たちは、日本赤十字社により手厚い保護を受け、赤十字活動に熱心だった貞明皇后も親しく接見されている。

 ポーランド側はこのエピソードを良く記憶している。昨年10月にはポーランド下院において、下院副議長及びポーランド・日本友好議連会長の主催で、本件に関するシンポジウムが開催された。また、阪神淡路大震災と東日本大震災の際には、ポーランド政府は被災児童をポーランドに招待したが、シベリア孤児救済に対する御礼の意味も込められていた。


4. コルベ神父とゼノン修道士

 ポーランドは国民の大多数がカトリックの国である。両国の関係を語る時に、1930年に長崎に到着したコルベ神父とゼノン修道士に触れないわけにはいかない。

 コルベ神父は、約六年間長崎に滞在し、「無原罪の聖母の騎士」の出版等の布教活動を行った。帰国後ドイツ軍のポーランド侵攻が始まり、ナチスに批判的とみられた同神父はゲシュタポに逮捕され、アウシュヴィッツに収容される。そして脱走を企てたとして餓死刑に処せられた者の身代わりとなって、亡くなられた。一九八二年にヨハネ・パウロ二世によって列聖される。

 ゼノン修道士は、コルベ神父の帰国後も長崎に残り布教活動を続けた。長崎で被爆するが、戦後は戦災孤児の救援活動に尽力し、更に浅草のバタヤ街等各地で社会福祉活動を行い、1982年に東京で死去された。

5. 大戦中の関係

 第二次大戦中、日本とポーランドは形式上敵対する陣営に属することになったにも拘わらず、両国間には奇妙な友好関係が存続することになる。

 1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、在ポーランド日本大使館は事実上存続不可能となり閉鎖されたが、駐日ポーランド大使館は存続し、ポーランドのパリ亡命政府、パリ陥落後はロンドン亡命政府との外交関係が存続した。しかし、ドイツの対ソ戦が開始されるに至って、我が国は、日独伊三国同盟に従い、ソ連と対独共闘協定を締結したポーランドとの外交関係を断絶せざるを得なくなり、1941年10月に駐日ポーランド大使館の閉鎖を通報する。当時の天羽英二外務次官は、大きな痛みをもって日本政府の決定を伝達する、今般の戦争がかくも不快なる状況をもたらしたと述べたらしい。

 真珠湾攻撃とともに太平洋戦争が勃発すると、1941年12月11日ポーランドは米英とともに日本に宣戦布告した。しかし、その後も、小野寺信駐ストックホルム武官がポーランド情報将校リビコフスキー少佐を通じて集めた所謂「ブ情報」により、ポーランドとの協力関係は続くことになる。小野寺武官は、ドイツが対ソ戦開始後間もなく劣勢に転じたこと、ヤルタ会談でソ連の対日参戦が決まったこと等の情報を得て、東京に打電している。

 戦後は、ポーランドがソ連圏に組み込まれたため、両国間の国交回復は、1957年2月まで待たねばならなかった。

6. 民主化支援

 レフ・ヴァウェンサ(ワレサ)率いる「連帯」による民主化運動が、1989年2月に始まった「円卓会議」に結実し、一連の東欧革命の口火を切った。我が国は、ポーランドの体制転換を積極的に支援した。

 体制転換に伴う混乱から生じた危機的状況に対し、緊急食料援助(2,500万ドル相当の小麦)を実施し、また通貨安定化基金設立のために円借款(1億5,000万ドル)を供与した。更に市場経済への円滑な移行のために技術協力を実施し、2008年に終了するまで総額約90億円に上る協力を実施した。技術協力は種々の分野における研修員受け入れ・専門家・青年協力隊の派遣等多岐にわたったが、最も注目すべき協力は日本情報工科大学プロジェクトであった。これは食料援助見返り資金を活用し、大学を設立、プロジェクト方式で専門家派遣・研修生受入れ・機材供与を行い、実践的IT専門家の育成を目的とした。同大学は順調に発展し、現在学生数は四千人を数え、歴代大使は入学・始業式に祝辞を述べる慣例になっている。

7. 両陛下の御訪問

 2002年7月、天皇皇后両陛下は、ポーランドを御訪問された。両陛下は帰国後のご感想において、ポーランドの過去の苦難の歴史に言及され、「そのような状況の中で各国の人々が文化を大切にし、また、その文化により人々が支えられてきていることに心を打たれました」と述べられている。

8. 時空を超えた友情

 現在両国関係は、政治的・経済的・文化的に極めて緊密な関係を築いている。

 2013年に安倍総理が来訪し、2015年にはコモロフスキ大統領が訪日し、「戦略的パートナーシップ」に関する共同声明が発出された。昨年七月には河野大臣が来訪し、同パートナーシップの具体化について確認された。

 現在ポーランドには約300社の日本企業が進出している。ポーランド経済は自由化後順調に発展し、2004年のEU加盟時からGDPは倍増し、現在も約5%の経済成長を続けている。日本企業は自動車産業など製造業が中心であるが、各社とも労働者の質及び技術者のレベルを高く評価し、依然として投資意欲は盛んである。

 冒頭述べたが、ポーランド人の日本文化に対する造詣には、脱帽である。ポーランドの古都クラクフには、アンジェイ・ワイダ監督が、京都賞の賞金を原資に建てた「日本美術技術博物館(通称マンガ館)」、があり、20世紀初頭の日本美術愛好家ヤシェンスキの収集した膨大な量の浮世絵・美術品が展示されている。

 本年1月、額賀会長を始めとする衆議院日本・ポーランド友好議連一行が来訪され、100周年のオープニングを行っていただいた。このオープニングに合わせて、当館では、百年の歴史を写真で紹介するパネル展示を、首相府の前にあるワジェンキ公園野外展示場で開催した。題して、時空を超えた友情。我が国がシベリア孤児を救済し、それに応えてポーランドが被災児童を招待したように、遠く離れた日本とポーランドで、今後とも長く友好関係が続くことを願っている。

(後書き)

 本稿を寄稿するに当たって、ルトコフスカ氏とロメル氏が資料とインタビューに基づいて詳細な調査を行った成果である、共著「日・ポーランド関係史」を参考にしたことを申し添える。