エチオピアが何故いま熱いのか【アフリカと日本】
在エチオピア大使 松永 大介
1. 注目の原因
いまエチオピアに注目が集まっている。2桁の経済成長を過去10年以上ほぼ毎年続けてきたのは、サブサハラ・アフリカでは、異例のことだ。この結果、1990年から現在までで、GDPは倍増した。人口では、ナイジェリアに次ぐアフリカ第2の大国であり、GDPの規模(2018年IMF統計)では、サブサハラ・アフリカでナイジェリア,南アに次ぐ第3位である。ナイジェリアが産油国であることを考慮すれば、非産油国としては第2位となる。もっとも、エチオピアが現在注目されているのは経済成長だけが理由ではない。昨2018年4月に就任したアビィ・アフメッド首相が大胆に政治や社会の改革を進めていることも、もう一つの注目点になっている。筆者が当地赴任後、内閣改造が行われたが、閣僚の半数が女性で占められることになった。また、新たに女性の大統領(象徴的に国を代表する)が指名され、その後最高裁長官にも女性が任命された。エチオピアでは、現在新しい風が吹いている。アビィ首相がノーベル平和賞のショートリストに入っているとの報道もなされている。本稿では、これらの改革の背景と現状について概観するとともに、エチオピアという国のアイデンティティがこれによってどのような影響を受けるかについても考察してみたい。
2. 政治・経済の変遷
日本でも有名なハイレ・セラシエ皇帝が廃位されたのは1974年であるが、その後を継いだメンギスツ政権は、強権的な共産主義政権であり、こうした政権にありがちな無理な計画経済政策を採用し、その結果は惨憺たる経済の停滞であった。それだけではない。今でもエチオピアという国名から多くの外国人が連想するのは、飢饉に打ちひしがれ小枝のように痩せ細った人々であるが、こうした事態が招来された背景には、旱魃という自然災害もさることながら、農業生産の停滞と流通の麻痺があったと言われる。
メンギスツ政権は、1991年に転覆される。その主力になったのは、ティグライ民族解放戦線(TPLF)であった。ティグライ民族(2007年国勢調査で総人口の6%)は、エチオピア北部とエリトリアにまたがる地域を本拠地とする人々であり、従兄弟とも言うべきアムハラ民族(2007年国勢調査で総人口の23%)と古来からのエチオピア正教に基く文化的伝統を共有する人々である。もっとも、TPLFのゲリラ運動に加わったのは、社会主義思想を奉じるインテリ青年たちが多かった。思想的には、打倒すべき敵であるメンギスツ政権に通ずるものがあったのである。ティグライ州の州都であるメケレには、TPLF博物館があり、ゲリラたちが学習していたガリ版刷りの書物が展示してあるが、その多くはマルクス・レーニン主義の教科書であった。
TPLFがメンギスツ政権打倒に成功したあと、政権の座に就いたのは、ゲリラ闘争でも中心人物の一人であったメレス氏であった。メレスが首相になってまず直面した課題は経済の再建であった。それまでマルクス・レーニン主義が理想としてきた計画経済のもつ欠陥は、メンギスツ政権の失政で明らかではあったものの、新政権は、当初はやはり国家による経済への積極的な介入を志向した。零細的な農業の生産性をあげることで余剰を作り出し政府主導による工業化を図るという発想である。しかし、この政策は思い描いたようにはうまく行かなかった。農業の生産性は停滞し、工業(製造業)のGDPに占める比率は伸び悩んだ。
国家による積極的な介入がうまく行かないとすれば、選択肢としては当時から世界を席巻していた新古典派的な市場放任型自由主義があり得るが、それにはエチオピア経済は脆弱すぎる。そこで、メレス首相が採用したのが、基本的には市場経済を活用しつつ政府が産業育成に積極的に関与する産業政策であった。政策研究大学院大学の大野健一教授は、メレス首相の信任を得て彼に政策をアドバイスするが、メレスは,探し求めていた第3の道(計画経済でもなく自由放任主義でもない道)を歩む参考意見を聞きたかったのだと筆者は考えている。
3. アビィ政権による改革とその背景
近年の経済成長の背景にはこうした産業政策がそれなりの功を奏した事実があると思われる。しかし、経済成長の実現は社会の不安定化をもたらすことが多い。急速な都市化の伸展、成長にうまく乗れたものと乗り遅れたものとの間の格差拡大、そして今日の社会特有のソーシャルメディアの発達による現状への不満の組織化が起こってくる。それは、建前上は四民族のアンブレラ組織でありながら事実上はTPLFが牛耳る政権の実体に対する不満と批判の広がりという形として現れ、2015年頃から頻繁に反政府活動が起こるようになり,2016年10月には非常事態宣言が発出され政治的な不安定は深まっていった。これは、TPLFを中心とする現政権内で既得権益化が進み、権力の濫用や汚職が一般大衆の許容範囲を越えたためと思われる。これ以上混乱を続かせることは国家・社会のためにならないと判断したハイレマリアム首相(メレス首相の死去に伴いその後任として南部諸民族州の出身でありながら2012年に首相に就任)は昨2018年2月に急遽辞意を表明し、その後を多数派であるオロモ民族(2007年国勢調査で総人口の37%)出身のアビィ首相が引き継いだ。一説によれば、このままでは国家・社会が取り返しのつかないアリ地獄に陥ってしまうと考えたハイレマリアム首相がオロミア州選出の国会議員であり、与党EPRDF構成政党であるオロモ人民民主組織(2018年9月にオロモ民主党に改名)の党首でもあったアビィ氏と手を握り、TPLFの虚をつく形で政権を握ったものだとも言われている。
アビィ首相は就任以来、内政・外政の改革を進めている。内政面では、前政権に対する抗議運動で投獄されていた多くの人々が解放されている。海外に逃れて反政府活動をしていた人々も続々帰国している。また、前政権の中にいて弾圧や人権抑圧(不当な拘禁・処刑・拷問など)を行った疑惑のある者たちが逮捕されている。その中には、巨大国営企業であるMETEC社の幹部の汚職容疑による逮捕も含まれる。
前政権の間に対外債務が大きく膨らんだことは無視できない。アビィ首相は、これについても新たな政策を打ち出し、政府自身及び国営企業による非譲許的借款を一切認めないことにした。また、債務負担軽減のため、アディス・アベバ-ジブチ間鉄道に関わる対中債務の返済期間を10年から30年に延長させることに成功している。旧政権時代に中国からの借款が大きく増えたこともあり、現政権は中国との間にはある程度の距離を置きつつ、先進諸国やドナー諸国(エチオピア人は、パートナー諸国という言葉を好む)とのつながりを深めることで対外関係を多様化しようとしている。アディス・アベバ市内を走る軽便鉄道(LRT)のCEOは「現政権に変わってから、中国の鉄道建設会社の態度がガラッと冷ややかになっている。例えば、以前なら部品が壊れたと口頭で言うだけで直ぐに代わりの品を送ってきたが、今はそうではない。直接部品メーカーへ接触することを認めず建設会社を通せとも要求してくる。」と述べていた。
なお、アビィ首相の改革は外政にも及んでいる。1993年の分離独立以来、紛争の絶えなかったエリトリアとの和解がその最も注目される例である。エリトリアとの和解は、経済的にも大きな意味を持つ。エリトリアの分離独立以来、内陸国としてジブチをほぼ唯一の海へのアクセスとしてきたエチオピアが、アッサブ港とマッサワ港という代替的なルートを確保できる希望が生まれたからである。物流ルートが増えることは、外貨不足と並んで日本企業を含む外国企業進出の最大の障害とされる物流コストの高さの是正につながることが期待される。
欧米諸国や世界銀行は、アビィ政権の推進する改革路線を定着させるべくこれをテコ入れして行こうとの姿勢を示している。欧米諸国は従来、TPLFを中核とする前政権を人権、民主主義、法の支配の面で問題ありとしてきたのに対し、アビィ首相がこれを反転させて改革を進めているのを後戻りさせてはならない、との立場からである。 世界銀行は、通常のプロジェクト支援に加えて12億ドルの財政支援の供与を決定した。世銀の支援は何らかの経済の自由化政策を条件とすることが多いが、主要な国営企業(エチオピア航空、エチオテレコム、エチオピア運送ロジスティクス社等)の民営化が打ち出され、PPP(官民パートナーシップ)による従来の公営部門への内外の民間参入の道が開かれ、長年据え置かれてきた電力料金がコストに見合う水準に近づけるべく引き上げられた。世界銀行は、これらの施策を経済自由化へ向けた十分な意欲と姿勢の現れとして、財政支援が正当化できると判断した訳である。
アビィ首相による改革が実を結び、エチオピアが目標とする2025年までの中進国入り(一人当りGDP1,000ドル以上)が実現すれば、政治の民主化と経済の自由化が成長と安定を確実なものにする実例が東アフリカに誕生することになる。それは、後に続こうとする国々に対する前向きなメッセージとなるであろう。筆者は、我が国も90年前の1930年まで遡る友好関係に基づき、経済協力を含む種々の方策を通してアビィ首相の改革を全面的に支援していくべきであると考える。
4. 新たなアイデンティティを求めて
エチオピアにちなむ伝説として有名なのが、シバの女王とソロモン王の出会いの物語である。古代ユダヤのソロモン王の智恵は遠くエチオピアまで聞こえており、一目会いたいと思ったシバの女王は、長旅の末ユダヤ王国に到着する。聞きしにまさるソロモン王の智恵にシバの女王は感銘を受けユダヤ王国にしばし滞在し、その際に一子を身ごもる。その後エチオピアに帰国後産まれたのが、メネリク1世であり、歴代のエチピア皇帝は、皇位の正統性の根拠としてメネリク1世の子孫であると主張するようになる。
この物語は、エチオピア正教会の信仰にも密接に結びついている。22歳までエチオピアで成長したメネリク皇子は、父親のソロモン王に会うため、母のシバの女王と同様ユダヤ王国まで旅したことになっている。一目で自分の息子であると覚ったソロモン王は、メネリク皇子がユダヤに止まるよう説得を試みるが、皇子は自分はエチオピアに帰ると譲らず、それどころか密かに、神が十戒を刻んでモーセに与えたと言われる石板を入れた聖櫃(arkともtabotとも呼ばれる)をエチオピアに持ち帰ったとされており、それは今でもアクスムの教会に安置されていることになっている。また、その聖櫃は年1回、1月19日のティムカット(公現祭)の前日に戸外に出され、アクスム市内をパレードされることになっている。全てのエチオピア正教会には、聖櫃の複製があり、本物同様に大切にされ、ティムカットの際に担がれてパレードされる。
何故、筆者が政治・経済を論ずる本稿でこのことに言及したのか? それは、以上の伝承を自らのアイデンティティとしているのが、ティグライ系の人々とアムハラ系の人々に限られるからである。もちろん、エチオピアのその他地域にも、エチオピア正教の教会が建てられている。しかし、これらは北方民族をバックグラウンドにする皇帝の権力がその他地域に支配力を及ぼしていく過程において建立されたものであり、他の諸民族にとっては外来のものと意識されている。
現在、オロミヤ州や南部諸民族州等において、プロテスタント,特に福音派教会の勢力が伸長している。かく言う筆者の自宅の周辺でも福音派の教会によるロック調の賛美歌や絶叫調の説教が日曜日になると聞こえてくる(注:首都アディス・アベバは、オロミヤ州の真ん中に位置する比較的新しい首都である)。過去10数年に及ぶ2桁成長は、他の国の場合と同様に貧富の差を生み出しているが、こうした状況は、新興の宗教にとってまたとない肥沃な土壌を提供する。
エチオピア国内では、イスラム教徒の数も増えている。2007年の統計によれば、イスラム人口は34%であり、全人口の3分の1を占めているが、現在ではもっと大きな割合になっていると思われる。プロテスタントは同じ統計で18.5%であるが、この割合も増えていよう。言い換えれば、当時の統計で43.5%のエチオピア正教がイスラム人口とプロテスタント人口の拡大の割を食って比率を減らしていることが予想されるのである。2007年以降国勢調査(census)が行われないできたのは、以上の事実が白日の下に明らかになることを従来の政権が避けてきたためである、との説も囁かれている。次の国勢調査は4月に実施される予定であるが,民族・宗教については記入しない選択肢が与えられており,これらが国内の統一と安定にとって微妙な問題であることを示唆している。(その後3月18日に,4月に予定されていた調査の期限なしの延期が提案された。)
エチオピア正教は、いわば伝統的な支配階級であったティグライ系やアムハラ系の政治エリート(注:あえて「政治エリート」と限定するのは、ティグライ系やアムハラ系の貧しい農民や大衆が存在するからである)を宗教的に支える作用を果たしてきたが、ティグライ中心であった与党EPRDFが人口で多数派のオロミヤ系のアビィ首相を輩出するに至り、今後何をエチオピアとしてのアイデンティティを荷わせる物語(narrative)とするかという問題が浮上してこよう。
ところで、人類の祖先といわれる猿人ルーシーの化石人骨が、1974年にエチオピアで発見されている。この年は奇しくもハイレ・セラシエ皇帝が廃位されたのと同年である。現在、ルーシーが人類の祖母として、公に喧伝されることが多い。先日も、通常は首都の国立博物館に展示されているルーシーの化石人骨をエチオピア全国の主要都市に巡回させる催しの式典があった。何年か前からルーシーが政治的にも強調されるようになっている背景に、エチオピア正教の背景にあるシバの女王の伝承に代わって国を統一する物語(narrative)が必要とされているとの事情があるのではないだろうか。エチオピアへの観光を奨励するポスターの標語も”Land of Origins(起源の国)”となっている。ルーシーを意識した標語とも思われるが、やや抽象度が高いとの感も免れない。政治・経済の改革を進めつつ、エチオピアは、新たなアイデンティティへの模索を続けていくものと思われる。