キエフ・ルーシーvs第三のローマ -正教会からみたウクライナとロシア
前ウクライナ大使 角 茂樹
昨年12月5日夕刻、キエフのインターコンチネンタルホテルに於いて恒例の天皇誕生日の準備を進めているとペチュルスカ大修道院の主教が他のゲストに先駆けて私のところに近よって来た。そしてその主教は陛下の誕生日の祝辞を述べるとともにウクライナに於いてモスクワ総主教座に属する教会が迫害を受けているので助けて欲しいと述べたのである。この発言の意味を理解するためにはウクライナの複雑な教会の歴史を知る必要があるので教会からみたウクライナとロシアの問題ついて語りたいと思う。
1.歴史的背景
東スラブのキリスト教化は、988年にキエフを首都としたキエフ・ルーシー公国の大公がビザンチン帝国の司祭により洗礼を受けたことが始まりとされている。ただし4世紀にエウセビウスという人が書いた「教会史」には、キリストの弟子のひとりである聖アンドレアがキエフを訪れたとの記述があり、ウクライナの教会は、それよりもっと早く聖アンドレアによって設立されたこととされている。このキリストの使徒によって作られた教会であることは、カトリック教会及び正教会においては重要な意味合いを持つ。ローマ教皇の権威はキリストの第一の弟子とされる聖ペトロの後継者であることに由来しているし、現在においてもコンスタンチノーブル、アレキサンドリア、アンテイオキアそしてエルサレムの総主教が正教会の内部において高い地位を占めているのもこれらの教会が使徒によって作られた事実に由来する。それはともかく現在のロシアを含む東スラブのキリスト教化の中心は10世紀以来長い間キエフであった。13世紀にモンゴル帝国によってキエフが陥落すると、キエフの府主教も主教座をウラジミールそしてモスクワに移していったが、モスクワ公国が正教会の庇護者であることを自認し始めた(モスクワは第三のローマでありキエフ・ルーシー公国の後継者との主張)のは、15世紀にビザンチン帝国が滅亡した後の事であり、モスクワがコンスタンチノープルの総主教より完全に独立した総主教座の地位を獲得したのは、オペラで名高いボリス・ゴドノフの時代の1589年の事である。そしてロシアがウクライナの支配を強めた1686年になってようやくキエフは、モスクワ総主教の管轄に置かれることをコンスタンチノープルは認めたのである。なお16世紀の終わりにはカトリック国であるポーランド王国がキエフ以西を統治しておりその影響もあって多くの正教会の指導者が東方典礼を維持しつつもローマ教皇の首位権を認めるギリシャカトリックを誕生させるということが起こっている。ソ連の成立により多くの教会が弾圧を受け、歴史的建造物が壊されただけでなく司祭の多くが殺されたりシベリアに送られるとの苦難を味わったことはよく知られているが特にギリシャカトリックに対する迫害はソ連が崩壊する直前まで続いたことはあまり知られていない。
2.ウクライナ正教会の独立の動き
正教会の組織は、ローマ教皇を長とするカトリック教会と異なり同じ信仰によって結ばれつつも各国が独立した組織を持つことで成り立っている。これは、カトリック教会が聖ペトロはキリストの弟子中にあって筆頭の地位を占めており、その後継者がローマ教皇であると考えるのに対し、正教会は、使徒の間においては優劣はなく各国の教会は、それぞれ使徒の後継者である主教によって収められるべきであると考えるからである。それに従えばウクライナに於いても1991年に独立した時点でモスクワ総主教座から独立した教会を造るべきとの考えが当然出てきてもおかしくない。事実、独立後一部の正教会の聖職者は、キエフ総主教座を設立しコンスタンチノーブル総主教に対しそれを認めるよう求めた。残念なことにこの願いは認められず各国の正教会もキエフ総主教座の設立を認めなかった。さらにモスクワの総主教は、このような動きをみせたキエフ総主教座に属する聖職者を全て破門に処した。セルビアの在ウクライナ大使などは、私に対しキエフ総主教なるものは教会法上違法な存在であり、単なるNGOの代表に過ぎないと言ってはばからなかった。在ウクライナの教皇庁大使も他の正教会が認めていないキエフ総主教との公の接触は避けていた。
3.モスクワvsキエフとモスクワvsコンスタンチノーブル
2014年にマイダン尊厳革命がおこりヤヌコビッチ大統領がロシアに逃亡、親西欧を掲げる政権がウクライナに誕生するとロシアはクリミアを違法に併合し、東部ウクライナに軍事進攻を行った。当然このことはウクライナ国民の間にウクライナの教会が敵国であるモスクワ総主教座の管轄下にあることはおかしいとの疑問を生じさせることとなった。私は、東部武装勢力より解放され3年ぶりにキエフに帰還したウクライナ人元捕虜と対談する機会があったが、モスクワ総主教座に属する神父が捕虜収容所を訪問したのは復活祭の時だけであったと述べていた。そもそも正教会においてはカトリックやプロテスタントにおける政教分離の考えは確立しておらず、ビザンチン時代よりの政教調和という考えが今日でも根強い。この事からウクライナにおいてモスクワ総主教座に属する教会は、プーチン大統領によるウクライナの内政に干渉の道具となっていると信じる人達が多い。ヤツヌーク前首相は私に対し、モスクワ総主教系の修道院や教会はロシアのスパイの巣窟になっており、ウクライナ教会の独立は、安全保障の観点からも必要であると明確に述べていた。モスクワ総主教座の対外関係を担当するヒラリオン主教がロシア政府の一員でもないにもかかわらずロシアの外交官旅券を有していることは、ロシア政府とモスクワ総主教との緊密な関係を示す一例としてあげられる。こうした中コンスタンチノープルのバルトロメオ総主教とキリル・モスクワ総主教との間でどちらが正教会を代表すかとの争いが表面化してきた。先に述べたように正教会においてはローマ教皇のような絶対的首位権を有する者はいないが、それでも「新しきローマ」であるコンスタンチノープル総主教が全地総主教の称号を有し正教会の中で第一の席次を占めるとされてきた。これに対しキリル・モスクワ総主教は、モスクワはロシアのみならずウクライナ、ベラルーシ、モルドバの正教会を管轄する最大信徒を有する第三のローマであるとしてコンスタンチノープルと同等の地位を主張するようになってきた。何年もかけて準備した2016年のクレタ正教会大会議をモスクワ総主教はボイコットし、バルトロメオ・コンスタンチノープル総主教の顔に泥を塗った事は良く知られている。ボイコットの理由の一つがウクライナ正教会独立問題が議題となったことであった。又同年キリル・モスクワ総主教は、キューバに於いてフランシスコ教皇と歴史的会談を行ったがこれも正教会の代表は、コンスタンチノープル総主教ではなく自分であることを世界に示すためであると取る人たちが多かった。さらに昨年4月、米国によるシリア攻撃後にキリル総主教が教皇フランシスコに呼び掛けてシリアに関する共同声明を発出したが、これに関しても内容は教皇の意図に沿ったものであり当初案にあった米国非難は全く含まれていないが、教皇の条件であった正教会を代表するコンスタンチノープル総主教を共同声明発出者に加えるとの意図は全く無視された。これら一連の出来事がいかにバルトロメオ総主教を苛立たせたかは想像に難くない。こうしてウクライナ政府とコンスタンチノープル総主教は、モスクワ総主教の権威を弱めるためにはウクライナ正教会の独立が重要であるとの意見を共有するに至り、それが本年1月6日、正教会のクリスマスの前日にコンスタンチノープル総主教よりのモスクワより独立したキエフ府主教座の設立を認めるトモス(公文書)の発出につながった。この動きを阻止すべくロシア政府とモスクワ総主教座は、すさまじいばかりのの外交攻勢を見せた。昨年8月末にはキリル・モスクワ総主教自身がコンスタンチノープルに乗り込みウクライナ正教会独立に断固反対するとの立場を伝えたのをはじめとし、ヒラリオン対外担当主教は教皇のみならず各国の宗教指導者に独立阻止を働きかけた。昨年10月28日、イスタンブールで行われたシリア内戦収束に関する独露仏トルコ会議の場においては、プーチン大統領は、メルケル首相に対しシリア問題はそっちのけでウクライナ正教会独立が如何に危険であるかについて長々と述べた由である。そしてウクライナ教会の独立阻止が避けられないとみられた昨年10月、モスクワ総主教座はコンスタンチノープル総主教座との関係を断絶するとの発表を行った。ロシアが政府と教会が一体となってウクライナ正教会の独立にこれほど強く反対する理由としては次のことがあげられる。(1)モスクワ総主教は、使徒アンドレアによって設立されたキエフ府主教座の後継者であると主張してきたが、ウクライナ正教会が独立すればその根拠が失われる。(2)大ロシアの再建を掲げるプーチン大統領にとって正教会はその実現のための大切な道具であるがその正教会を通じたウクライナに対する影響力を失うことになる。(3)世界最大の正教会を自認するモスクワ総主教座にとってウクライナを失うことは信徒の三分の一以上を失うことになる。(4)ウクライナにはキエフのペチュルスカ大修道院(11世紀に創立された聖地)をはじめ多くの正教会の聖地があるが今後これらの大修道院の管轄が新生ウクライナ正教会に移管されればモスクワ総主教座は多くの聖地を失うことになる。
4.ウクライナ正教会の指導者
私は、ウクライナ在勤中正教会の多くの指導者と緊密な関係を築いてきたが指導者の横顔は次のとおりである。モスクワ総主教に破門されながらもキエフの総主教として君臨してきたフィラレート総主教とは大使公邸で度々食事を共にしてきたが大変なカリスマの持ち主である。一昨年ウクライナの日本年記念事業の一環としてミハエル黄金ドーム大聖堂に置いて桜の植樹式を総主教を招いて行った時など、それまで降っていた激しい雨が総主教が現れた途端、晴天に変わったのには私も家内も驚いた次第である。フィラレート総主教はロシアのクリミア併合、ドンバス介入に関し、これはカインによるアベル殺しにも匹敵するものであるとしてロシア非難を繰り返して来ており、ロシアも、フィラレート総主教の権威を失墜させるための批判を行ってきている。今回の新生ウクライナ正教会の誕生で名誉総主教のタイトルを授与された。御年90歳ながら長時間にわたる奉神礼をこなされていることにはいつも感心している。新生ウクライナ教会のトップに選ばれたエピファニー府主教は、これまで私とフィラレート総主教との昼食会にはいつも同行していたのでよく知っている。39歳という若さにもかかわらず新生ウクライナ正教会を率いていくに相応しい指導者である。私と家内がウクライナを去るにあたっては、チョトッキと言われる数珠と女性の正教徒が頭に被る美しい刺しゅう入りベールを下さった。今回最も微妙な立場に立たされているのはモスクワ総主教座に属するペチュルスカ修道院を拠点とするオヌフリー府主教であろう。オヌフリー府主教は敬虔な祈りの人で知られており、政治的意味合いの強い今回のモスクワとキエフの対立に心を痛めていた。事実、モスクワ総主教がコンスタンチノープル総主教に絶縁状をたたきつけた昨年10月には、祈りに行くと称してギリシャのアトス山にしばらく閉じこもってしまった。今後ロシア正教徒にとっても最大の聖地とされるペチュルスカ大修道院の帰属問題をはじめとする多くの難題に直面されることになろう。そしてこれが冒頭で紹介した天皇誕生日のレセプションにおいてペチュルスカ修道院の主教が私に訴えた理由である。
今回誕生した新生ウクライナ正教会の今後の課題として世界に14ともいわれる独立正教会の承認をどれだけ得られるか、ローマ教皇庁の承認を得られるか(これまでのローマ教皇庁の公式の立場は、この問題は正教会内部の問題であるというもの)、そしてウクライナ国内の各地の教会で起こっているモスクワ総主教座とキエフ府主教座の管轄権を巡る対立をどのような形で平和的に処理するのかということがあげられる。まさしく正教会の動きを見れば複雑なウクライナ問題が理解できるのである。(2019年3月脱稿)