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ご退位とは何か


元侍従長 渡辺 允

 いよいよ平成31年4月30日の真夜中に天皇陛下が退位され、同時に(5月1日)皇太子殿下が新しい天皇として即位されることとなりました。歴史を遡れば退位された天皇は大勢居られますが、最後に退位されたのは江戸時代の光格天皇であり、1817年のことでしたから、天皇の退位は、現代の我々にとっては全く未知の経験であると言わざるを得ません。

 この小文は、陛下の側近にお仕えした経験も踏まえて、ご退位をめぐるいくつかの点について思うところを記したものです。

 まず、天皇陛下は、即位された時から憲法に言う「日本国の象徴」であり、「日本国民統合の象徴」であった初めての天皇であり、歴史上お手本のないまま、象徴とは如何なるもので、象徴としての天皇の責務とは何であるかを自ら模索しながら日々の務めを果たし続けるという難しい経験を積んでこられました。

 その中で比較的早い時点から、陛下は、天皇の歴史は常に国民の幸せを願うことにあったということ、また、天皇の務めは国と国民のために尽くすことであるということに言及されるようになりました。私は、この「尽くす」という言葉をうかがって、それが、「国民と苦楽をともにする」とか「国民とともにある」ことに比べて、国民のために何かをするという、より能動的な一歩を踏み出した意味を含んでいることに強く印象付けられたことを記憶しています。

 これらのごく限られた発言を除けば、陛下は、象徴としての天皇は如何にあるべきかという質問に対して、常に、そのことを模索しながら日々の務めを果たそうとしているということだけを答えてこられました。

 やがて、陛下はご退位を考え始められ、熟慮の上、そのお気持ちがはっきりしてきて、平成29年8月8日には、陛下ご自身が国民に話しかけられる形のお言葉がテレビで放映されるに至りました。

 その中で、陛下は、天皇の務めとして大切であると考えてきたこととして、次の二つを挙げられました。

 第一に、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈るということです。

 これは、天皇の歴史として陛下が述べてこられた前述のご発言と符合しますが、祈りは心の中で起こることであって、外からは見えません。ただ、長年近くでお仕えしている間に、陛下が報道や人の話に触発されてしばしば示される、高齢者や障害者、災害の被災者、拉致被害者などに対するご心配やご懸念が、人々の幸せを祈るお気持ちの具体的な表れであるに違いないことを感じるに至りました。

 また、このお祈りが外から見える形で行われるのが宮中祭祀であると言えると思います。皇居の中の宮中三殿(賢所、皇霊殿、神殿)で、日常生活とは全く切り離された形で、古来の装束を召され、国民の幸せを祈られる時間が年に二十回はあります。陛下はこの時間を極めて真剣に受け止め、お気持ちをお祈りに集中して過ごしておられます。

 「祈り」に続いて、陛下は、「事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」も天皇の務めとして大切なことであると述べられました。

 この中で、「人々の傍らに立ち」というのは、まさに、皇居の中に籠っているのではなく、人々の居る所まで行ってその人々に近づくということです。例えば、平成の御代には、雲仙普賢岳の噴火、奥尻島の地震と津波、阪神淡路大震災、新潟の地震、三宅島の噴火、東日本大震災など、多くの自然災害が発生しました。陛下は、その都度、被災者を見舞いたいという衝動と、救援活動などの足手まといになってはならないという配慮の双方から割り出した日に、自衛隊機やヘリコプターを乗り継いで、日帰りで現地に赴かれました。現地で、避難所の床に膝をついて被災者と話をされ、救援活動をしている人々に「ありがとう」と礼を言われるお姿は、報道を通じて広く国民の知るところとなりました。

 次いで、「その声に耳を傾け」とはどういうことか。ある被災地の町長の経験では、被災者が自分の辛い経験について堰を切ったように陛下に訴えるのを、陛下は言葉をさしはさむことを全くなさらず、最後までじっと聞いておられたということです。これが、まさに、「その声に耳を傾け」ということだと思います。陛下に自分の思いのたけをお話しして、陛下はそれを全部聞いてくださった。これが被災者にとっての最大の慰めなのではないでしょうか。

 最後の「思いに寄り添う」のも、容易に出来ることとは思えません。上に述べたように、陛下は、被災者を助けに来ている人たちに「ありがとう」と礼を言われます。「ご苦労様」ではない、つまり客観的な第三者としてではないのです。また、皇后陛下は、東日本大震災が発生した時のお気持ちを問われて、あのような「不条理」に遭遇して「ともすれば希望を失い」「無力感」にとらわれたということを答えておられます。これも、ほとんど、当事者すなわち被災者から出た言葉とすら思われます。そういう被災者に限りなく近いお気持ちで、被災者の悲しみ、辛さ、大きな不安などに、ただただ「耳を傾け」るのは、それ自体お辛いことであり、どんなにかお心のご負担にもなることかと思います。

 ある所まで「行く」ことを大切に思われたのは、被災地のお見舞いに限りません。戦没者の慰霊についても、国内では、戦後五十年に当たって、激戦地であった硫黄島と、戦争の惨禍の最も激しかった沖縄、長崎、広島、東京の下町まで、それぞれ赴かれて追悼の意を表し、その後、国外で戦没者の慰霊をなさりたいとのご希望を、二十年をかけてサイパン島、ペリリュー島まで赴いて実現されました。陛下は、沖縄の人々に対して特別の思いを持ってこられましたが、十一回にわたる沖縄県ご訪問では、例外なく、那覇空港に到着されると直ちに南部の戦跡に向かわれて戦没者の慰霊をされた後、他の用務に向かわれました。

 その他、全国のハンセン病療養所、西表島や利尻島などの離島、満蒙開拓団の引揚げ後の国内開拓地を始め、陛下が現地を訪れて、そこに居る人々に会おうとされ、その目的を何年もかけて達成してこられた例は枚挙にいとまがありません。

 陛下は、このようにして、全身全霊をもって象徴の務めを果たそうとしてこられましたが、近年、年齢も進まれ、身体の衰えが次第に進むことも意識されるようになって、これからどのように身を処していくべきかを考えられるようになりました。

 日本の社会の高齢化が急速に進んでいる中で、これはご自分だけの問題ではなく、将来、天皇も皇太子も現在以上に高齢になってから皇位の継承が行われるような事態となることは決して望ましいことではありません。

 象徴天皇の務めが常に途切れなく安定的に続き、望むらくは、国民と皇室が相携えてこの国の未来を築いていくためにも、国民全体にこの問題を考えてほしいというのが、陛下のメッセージであったと思います。

 その後、昨年の12月23日の天皇誕生日に、陛下は天皇としては最後の記者会見に臨まれました。

 そこで、初めて、この三十年の間になさったことをいくつか具体的に振り返られましたが、そこで言及されたのは、陛下が特に関心を寄せられた、沖縄、戦没者慰霊、自然災害、障害者スポーツなど、ごく僅かなものでありました。この三十年間になさったお務めは余りに膨大であって、その全てを網羅して、平成の御代の陛下のお務めの全体像を示すのは、決して容易なことではないと思います。

 さて、この文章は、天皇陛下のご退位を主題とするものであるため、これまで皇后陛下にはほとんど言及しませんでした。勿論、そのことは、平成の御代における皇后陛下のお役割を無視することでは全くありません。

 皇后陛下は、伝統のある実業のお家の出で、深く広い教養を身につけられた上で、公のことが私のことに優先するという伝統的な家庭観の青年の誠意に打たれて結婚され、その青年に「私の心に窓を開けた」と言わしめ、潤いのある家庭を築かれ、天皇陛下となられた青年の最も良き理解者であり、ご相談相手となっておられます。理想的なご夫妻であり、陛下がそのご献身を心から労いたく思うとおっしゃったのもむべなるかなであります。同時に、皇后陛下が、皇位にあるお立場の天皇陛下と、その配偶者であるご自分とは、対等ではない、全く異なる立場にあるというお考えを堅持してこられたことも、特記しておきたいと思います。

 このような皇后陛下のお支えは、平成の御代が現在のように明るく、国民との相互信頼関係の上に立った形を築きあげるために無くてはならないものでありました。