第58回 通詞
元駐タイ大使 恩田 宗
日本は、鎖国の間も、中国とオランダを通じ貿易と海外文化の摂取を続けていた。それを支えたのは唐通事と阿蘭陀通詞でそれぞれ約30家が世襲しその教養と語学力は高かったらしい。司馬江漢の日記に大通詞の家の四歳位の「小童」が「馬をパールドと云ひ」薩摩芋を「レッケル(旨い)、レッケルとて食ひけり」とある。幼児の頃から教育していたのである。
幕末、日本近海に英・露・米の船が出没するようになり幕府は1808年阿蘭陀通詞の全員に英語とロシア語の学習を命じた。然しオランダ訛りが抜けず実用にならなかったという。幸い、1848年、米国人マクドナルドが日本に漂着した。森山栄之助、堀達之助など通詞14名は「マ」の半年あまりの幽閉期間中彼のもとに日参して懸命に生きた英語を学んだ。中では森山が特に覚えが早かったという。ペリー来航に間一髪間に合った。
ペリー来航の時浦賀に配置されていたのは堀であったが船に向かってI can speak Dutch と叫んだだけで後は全てオランダ語で通訳した。ペリーは海軍大佐で東インド艦隊司令官としての称号がCommodoreであった。しかし、艦長アダムス中佐は日本人がコモドーは何か理解しないのでやむを得ずアドミラルと言ったと後に述べている。ペリーが久里浜で日本側に出した漢文書簡では「天竺中国日本等海水師提督大臣」と名乗っている。日本側の情報不足を見込んでの肩書詐称である。
その翌年の日米和親条約交渉の通訳には森山が起用された。米側通訳ウイリアムズによれば「ほかの通訳が要らなくなるほど英語が達者」だったという。しかし、条約の第11条の英文は日本訳と違い米国は領事を下田に駐在せしめることができることになっていて2年後のハリス着任の際ひと悶着した。森山の誤訳だったとされているがハリスはその人柄を信頼し森山はその後の日米折衝に深く関わった。
通訳は文化の違いの克服という難しい作業を含む仕事である。日本が開国外交を種々の問題を残しながらも何とかこなすことが出来たのは通詞(事)という技能者集団がいたからである。維新後も彼等の多くが新生外務省で活躍した。元唐通事の柳谷謙太郎桑港領事(明治9~15年、後農商務省局長)もその一人である。
今、日本人の英語力は国際的に見劣りすると言われている。すでに小学校でも英語教育を始めたというので成果を挙げるよう期待したい。早くから外国の文化や言葉に馴染んだ子供達の中から日本外交を支える人材が育って欲しいと思う。