奇縁でつながったブッシュ大統領と義父


在エチオピア大使 松永 大介

 ジョージ・ブッシュ大統領(父)が昨年11月30日に亡くなった。ワシントンの国立大聖堂(National Cathedral)で国葬が営まれ、その死を悼む番組がCNNやBBC等で長時間流された。多くの人々が故大統領を偲んでいることがうかがわれた。ブッシュ大統領に直接接した人は限られているかも知れないが、人柄は世の中に伝わるものなのだなと思った。

 実は、わが家にはブッシュ大統領(父)との奇しき縁が存在している。今回の追悼番組でも何遍も録画が流されていたが、ブッシュ大統領は、戦争中、小笠原諸島の父島沖で日本軍に搭乗機を撃墜され、奇跡的に近くに浮上した米軍の潜水艦に救助されている。

 この搭乗機には、もう二人乗組員が乗っていた。この二人の消息は分かっていない。この二人のことが一生ブッシュの脳裏につきまとったことは今回の追悼番組でも繰り返し述べられていた。政界入りしたブッシュ氏の政敵たちは、この事実を利用することを忘れなかった。ブッシュ氏に「自分が助かるために戦友を見捨てた卑怯な男」という汚名を着せようとしたのである。

 しかし、この一部始終を目撃していた人物がいた。他ならぬ我が義父(妻の父)である。義父は、ブッシュが搭乗機から脱出したのが、着水の寸前であったこと、早々と戦友を見捨てて自分だけ外に逃げたのでないことを見ていた。後年(2002年)、ブッシュと義父は一緒に父島を再訪する機会を得るが、ギリギリまでブッシュが機内にとどまっていたことを証言したことで、ブッシュはとても喜んでいたそうである。卑怯者でなかったことが立証され、積年のわだかまりが晴れたからであろう。

 ジョージ・ブッシュ大統領(父)とは、自分も海部総理の英語通訳として、その人柄に触れる機会があった。最初の機会は、1990(平成2)年の8月、イラクがクウェートに侵攻した直後に訪れた。電話会談が行われる草分けのような時代であり、通常の親子電話を設定して、海部総理がワシントンのブッシュ大統領と通話した。当時の総理秘書官は、後に在英大使を務められた折田正樹大使であった。その後海部総理とブッシュ大統領の間で頻繁に電話会談が行なわれるようになったため、マスコミがプッシュホンをもじって面白おかしくブッシュホンと書き立てるようになった。その含意として、アメリカ側が日本に軍事的経済的な支援を強要してくるというニュアンスがあったが、電話越しのブッシュ大統領は、いつも紳士的であり、日本にはあくまで可能な範囲で協力をしてもらえれば有難いという柔らかいトーンから外れるものではなかった。

 1991(平成3)年の夏、ブッシュ大統領(父)が海部総理をブッシュ家ゆかりの別荘であるメイン州のケネバンクポート(Kennebunkport)に招いた。ブッシュ大統領(父)は、お客さんがいることで家族内の会話を変えることのない人で、当時ほぼ90歳であった実のお母さん(ケネバンクポートの敷地内の別棟に住んでいた)の朝の様子がどうであったかを、日本からのお客たちが横にいることなど全く頓着せずに、何くわぬ調子で訊いていた。「元気でしたよ」と家族が返事すると、「それは良かった」と本当に安心するような口調で答えていた。こうしたやり取りは、おそらく毎日決まって行われていたのだろうと思われる。ブッシュ大統領は優しい人なのだなとつくづく思った。

 冒頭述べた太平洋戦争中の目撃についてだが、義父である岩竹信明が、戦後数十年たって、なぜブッシュ大統領(父)と親しくなったかを付言しておきたい。義父はハワイ生まれの日系2世であったが、太平洋戦争勃発前のハイスクール卒業後、家庭の事情で日本に帰っていたところを学徒出陣で軍隊に召集され、小笠原諸島の父島で米軍の無線傍受の仕事をさせられていた。若き日のジョージ・ブッシュが撃墜され潜水艦に救助されたのを目撃したのもこの時この場所においてであった。

 義父から既に話を聞かされていた私は、1992(平成4)年お正月のブッシュ大統領(父)の訪日の際に、在京米大のプレス担当者としてまだ在勤していた義父がこの話をブッシュ大統領に伝えられるよう在京米大の次席であったブリアー公使にお願いして快諾を得ていた。しかし、首相官邸で行われた晩餐会においてブッシュ大統領が倒れてしまったため、予定されていた大使館職員との懇親会はキャンセルされてしまい、義父は大統領にこの話をする機会を逸してしまったのである。

 再びその機会がめぐって来たのは、もう一人の米軍兵士と義父との友情のエピソードが、硫黄島の闘いについての本を出した著述家であるJames Bradley 氏の目にとまり、彼がブッシュ大統領に義父を引き合わせたことによる。ブッシュ大統領は、ハワード・べーカー駐日大使と共に、2002(平成14)年の夏、父島を再訪するが、これに義父も同行していた。ブッシュ大統領に直接、墜落ギリギリに脱出したことを改めて伝えられたのもこの時であったと思う。

 ブッシュ大統領がベーカー大使と共に、小笠原への旅に出たことを引退後のセンチメンタル・ジャーニーのように受け止める向きもあったように記憶するが、ご本人にとっては、戦友を悼み過去を整理する上でも重大な意義を持つ再訪であったと私は理解している。ブッシュ大統領のご冥福を祈ってとりあえず筆をおくこととしたい。