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第57回 梶原景時

元駐タイ大使 恩田 宗

 大田区馬込の万福寺は開基が梶原平三景時で彼を祀った立派な墓がある。景時は、頼朝の死の翌年の正治2年(1200年)、京に逃亡の途中静岡で敗死した。

 景時は頼朝なき後の幕府を支える重臣13人の一人であり侍所別当という要職に就いていた。その彼が何故没落したかについて「吾妻鏡」はこう書いている。正治元年10月28日、景時が結城朝光を謀叛の心ありと頼家に讒訴したとの噂が立ち、かねて景時に不満・怨恨を抱き朝光に同情する有力御家人66人が連名で景時糾弾の訴状を書いた、頼家は訴状を景時に回し弁明を求めたが景時は何も言わず相模国一之宮の所領に引きこもった、12月18日影時は鎌倉追放の処分を受け彼の屋敷は没収され、次いで播磨の守護職も解任された、景時は翌年1月20日一族引き連れ西に逃亡したので追罰された、と。

 景時は歌舞伎では悪役である。実際威張ったり讒訴癖があったりして人に嫌われたらしいが武勇の誉れが高く緻密な頭脳と爽やかな弁舌の持主で実務的行政能力もあった。頼朝の信頼を得て重用され鎌倉幕府の創建に大きく貢献した。彼は頼家にも頼朝に対すると同じ遣り方で忠勤に励んだが庇って貰えなかった。18歳の頼家には北条時政他の宿老を押え込む力が無く、又、親譲りの謀臣を失うことの危険を理解していなかった。この後、頼家自身が修善寺に幽閉され暗殺される。

 景時は京に別の主を求め関東を脱出しようとしたらしい。当時の武士はリアリストで自分の能力や働きに応じた対応をしてくれないと分ると平然と主家を見限ることが少なくなかったという。主従の関係は双務契約的なもので相手の力量や気持ちを見極めつつ使い仕えるというドライなものだった。その点忠の理念で教化されひたすら主君に尽くした近世の侍とは違っていた。主に仕えるのは今の官僚も同じだが、公の理念と誇りを失わずに身を保つには仕える政治家との間合いの取り方に工夫がいる。

 新井白石は、将軍家宣御進講のため書いた「読史余論」の中で、北条時政は北条氏にとり邪魔な景時をいつか排除したいと考えていたが御家人達が景時の年来の不当行為を糾弾しただけで抹殺する訳には行かず、又それでは刑殺の権限が下部から発することになる、問題の解決を急がず本人が進退極まり明らかに謀叛となる行動を取るのを待って追討の命令を下した、その悪知恵は恐るべきものだ、と書いている。景時程の才知のある男も頼朝という後ろだてを失なうと追い詰められて自滅した。運命というものだろうか。