小渕恵三先生の思い出


元外務事務次官 齋木 昭隆

 明けましておめでとうございます。
 皆様のますますのご多幸をお祈りいたします。

 平成最後の正月を迎えるにあたり、霞関会事務局から新年号の「霞関会会報」に何か書いてほしいと依頼を受けましたので、秘書官としてお仕えした小渕恵三外務大臣に関するエピソードを中心に思い出すままに書くことにしました。

 小渕先生といえば「平成」と墨書きされた額を掲げながら、新元号を官房長官として発表した時の写真があまりにも有名です。政治家として謂わば「全国デビュー」を果たした瞬間とも言える極めて重要な歴史の大きな節目に居合わせた訳です。

1.大臣秘書官の拝命 

 その小渕先生が第二次橋本改造内閣の外務大臣として入閣されたのは、平成9年(1997年)9月11日のことでした。そして、その前日に突然、堂道総務課長から私に電話があり「海外出張中の小松人事課長に代わり内示する。大臣秘書官を発令する。」と伝えられました。その時、私は経済局で日欧経済関係を担当する課長でした。突然の内示に大変びっくりしましたが、人事に関する事でありお断りするなどは勿論出来ませんから、「承知しました」とお答えするだけで精一杯でした。その時堂道さんが「いやぁー、事務当局は君でない別の人を秘書官として内々推薦したんだが、小渕大臣からは君のことを逆指名してきたんだよ。びっくりだよ。君は小渕さんと親しいの?」と訊ねてきました。私は「いや別に。昔ワシントンに在勤していた時に、小渕さんが大平総理訪米の同行議員団長として来られ、団長を担当する通訳を務めたぐらいですけど・・・。」と答えましたが、本当にそれ以外の接点は思いつかないほどの間柄でした。

2.大臣との握手

 翌日、正式に外務大臣として外務省に初登庁された小渕先生は、大臣室で柳井次官以下の幹部からの挨拶を受けられたり、記者会見をされたりと目の回るような忙しい日程を次々にこなされた後、ようやく大臣室で大臣と私が二人きりになる瞬間がありました。

 その時、小渕大臣が「齋木君、これからよろしく頼むな。握手しよう。」と右手を差し出してきました。日本人同士の握手というものに若干戸惑いつつも、私が大臣の右手を握り返すと、大臣は満足そうな表情で言いました。「よしっ、君の握手は力がこもっていていいぞ。あのなぁ、齋木君。俺は何十年も政治家をやってきて、選挙のたびに色んな人達と握手するんだが、握手しただけでその人が俺に票を入れてくれるかどうか直ぐに分かるものなんだ。票を入れてくれる人の握手は力がこもっている。入れてくれない人の握手は軽く握るだけだ。君の握手は君が俺をきちんと支えてくれる意思表示だ。これから頼んだぞ。」

 それを聞いて私は「政治家っていうのは、握手のやり方ひとつで敵か味方かを見分けるのか。凄いなぁ」と感心しつつ、遠慮して軽い握手で済ませなくて良かったと一瞬ヒヤリとしたことを今でも覚えています。

 小渕さんは外務大臣になったことを、ご自身とても喜んでいました。日程の合間に、よく大臣室で8階の食堂から出前した野菜蕎麦を一緒にズルズルと啜りながら、こんなことを言っておられました。「俺はなぁ、総理府総務長官と官房長官をやったけど、外務大臣と違ってこんなに大勢の部下もいなければ、こんなに立派な部屋もなかった。外務省はさすがだな。」褒めているのか皮肉を言っているのかよく分からないままに私は「はぁ、そうなんですか。」と曖昧な相槌を打つだけでした。でも小渕先生は、いわゆる「主要閣僚」の中で何よりも外務大臣への就任を強く希望されていたことは確かです。それは若い頃、まだ早稲田大学の学生の時に、沖縄から始まって世界各国への放浪の旅をした経験から、外交の重要性を強く意識されてきたからだと思います。

3.対人地雷禁止条約

 小渕外務大臣の功績の一つに挙げられるのが、「対人地雷禁止条約」への加入です。大臣就任直後の記者会見で、いきなりこの条約に日本も加入すると宣言したのですが、事前に何も聞かされていなかった事務当局はびっくり仰天です。当時の防衛庁は、日本の海岸線を守る手段としての対人地雷を非常に重視していたためです。しかし、小渕大臣は、対人地雷を海岸に無数に埋設するような戦術は時代遅れのものであるとして、事務当局からの説得に対して全く首を縦に振らず、自らの信念に基づいて橋本総理大臣と久間防衛庁長官を説得して、条約加入の政府方針の決定に導いていきました。

 実はその時の面白いエピソードがあります。

 或る夜、小渕大臣は久間防衛庁長官を赤坂にある小料理屋に呼び出しました。秘書官である私は、襖を隔てた隣室で、防衛庁長官の秘書官と二人で簡単な弁当を食べながら待機していました。すると襖の向こう側から両大臣の会話が聞こえてきました。我々が思わず耳をそばだてて聞いていると、「派閥の会長である小渕先生が決められたことですから、私は全力を挙げてお支えします。早速防衛庁・自衛隊の幹部たちに対して、速やかに地雷撤去に取り掛かるよう指示します。ご安心ください。」「いやぁ、久間君、色々迷惑をかけてスマン、スマン。ありがとう。よろしく頼むよ。」のやり取りが聞こえてきました。これですべて決まりでした。我々二人の秘書官はお互い顔を見合わせて、政治が物事を決定する瞬間を目の当たりにした思いで頷きあいました。その後、隣室では二人の大臣が上機嫌な様子で酒を酌み交わしながら、様々な政治向きの話で盛り上がっている様子でした。そして小渕大臣は、その年十二月にオタワで「対人地雷全面禁止条約」に署名するに至りました。

4.外務大臣から総理大臣に

 平成10年(1998年)7月に行われた参議院議員選挙で自民党は手痛い敗北を喫し、橋本総理大臣はその責任を取って退陣、自民党総裁選挙が行われました。

 小渕恵三、梶山静六、小泉純一郎の三人が総裁の座をめぐって闘い、「凡人・軍人・変人」の戦いと揶揄されましたが、結果的には当時の最大派閥「平成研」会長の小渕先生が圧勝しました。

 総裁選の投票は、7月24日(金)午後行われました。その日の早朝、私はいつものように北区王子にある大臣の私邸に向かいました。揺れる車内で日課となっている朝刊6紙に次々と目を通しながら、大臣に報告すべきニュースがないか探していた私は、ふと東京新聞の最後のページに毎日掲載されている十二支別の「運勢」欄を見た途端、目が釘付けになりました。小渕大臣の丑年の欄です。そこには「自分を捨てるコツをおぼえたり。本日天下無敵の大吉祥」とあります。私は思わず「これは縁起が良い」と黄色のラインマーカーをポケットから取り出しその個所を塗りつぶしました。

 そして私邸から大臣公用車に一緒に乗り込み、隣席で眠たそうに欠伸を繰り返している小渕大臣に対して、前の晩以来の様々な外交上の重要事項や主なニュースなどについて報告しているうちに、車はやがて霞が関に近づいてきました。報告が一段落したので、私は鞄の中から先ほどの運勢欄を取り出して「今日の大臣の運勢です」と言ってお見せしました。すると大臣は新聞を手に取って黄色いラインマーカー部分を一読、それまで眠たげだった表情が一変して喜色満面となりました。「君、いいものを見つけてくれたな。ありがとう、ありがとう。」と言いながらその運勢欄の箇所を破り取ってスーツのポケットに大事そうにしまいました。

 後刻誰かに教えてもらいましたが、小渕大臣はその日の派閥総会の「決起集会」の場で、この運勢欄をポケットから取り出して、「私の秘書官が今朝見つけてくれたものだが」と言いながら「本日天下無敵の大吉祥」を読み上げたところ満場から拍手喝采を受けたとのことで、圧勝が確実とされていても政治家はやはりゲンを担ぐものなんだなあと、私も少し嬉しくなったものです。

5.初代の内閣副広報官として

 その後、小渕先生は第85代内閣総理大臣として政権を担うことになりましたが、総理大臣就任まであと数日となった日、いつものように大臣車に同乗して、外務省から自民党本部に向かっている時でした、大臣がふと私の方を向いて尋ねました。「君は秘書官を辞めたあとはどうなるんだ?」それに対して私は「分かりません。秘書官を務め終えたら、どこかの課長ポストに発令されると思いますけど。」と答えました。すると大臣は「ふーん、そうか」と呟いてからいきなり「君は俺と一緒に官邸に来い。」と言うなり、車載電話を取り上げ「もしもし小渕恵三です。古川官房副長官に繋いでくれ。」と、どうやら官邸の電話交換手らしき相手に指示を出しました。程なく電話口に出た古川副長官に対して「小渕恵三です、これからよろしく頼みます。そこで早速だが一つ。秘書官部屋に机を一つ追加で入れてくれ。俺の外務省の秘書官をそっちに連れていくことにしたから。」と伝えました。横にいた私はびっくりしましたが、電話に出た古川副長官はもっと驚いた筈です。先方からの質問に対して小渕先生は「いいんだ。それは分かってる。肩書はこれから考えるから。じゃ、よろしく。」と言って電話を切ってしまいました。そして私の方に向き直ってこう言いました。「あのな、君も知っていると思うが総理秘書官には海老原君を内定している。だから君は海老原君を補佐する仕事をしてくれ。肩書と仕事の内容は俺が今から自民党本部で役員人事を相談している間に考えて、後で報告してくれ。」車は自民党本部に到着し、小渕先生は総裁室に消えていきました。

 事態の予想外の急展開に面食らった私は、総裁室の隣の小部屋に一人ポツンと座り、小渕先生からの宿題に取り掛かり、そこにあった「国会便覧」の首相官邸や総理府のページを大急ぎで開いて思考を巡らせました。そしてその時あることを思い出し、一案が頭に浮かびました。それは数日前に大臣室を訪ねてきたウシオ電機の牛尾治朗会長が小渕先生に語った言葉です。「小渕さん、今の総理官邸は海外向けの発信が殆どゼロだよ。あなたはそこを強化したらいいと思うよ。」
 
 私は「これだ」と思いました。そして、総理府にある内閣広報室とこれを指揮する内閣広報官のポストに着目し、新たに「内閣副広報官」のポストを設けて対外発信を主たる任務とするとの案を作り、総裁室にいる小渕先生に報告しました。小渕先生は「それはいいな。牛尾さんも言ってたしな。」と満足げにコメントし、その場で電話を取って古川副長官、そして外務省の官房長か誰かにそのことを伝えました。私の官邸勤めはこうして始まることになったのです。私はその数日後に、官邸の総理秘書官室に入り、大先輩の海老原秘書官や他の秘書官たち(当時は財務、通産、警察)と、小渕先生に長年仕えている腹心の部下である古川政務秘書官、そして秘書官室で歴代政権に仕えてきているベテラン職員の大塚和子さんに挨拶して早速仕事を始めました。

 外務省から海老原さんと言う正規の秘書官が任命されたことに加え、突然もう一人外務大臣秘書官を前日まで務めていた私が総理秘書官室に入り込んできた事態に当初、他の秘書官たちには戸惑いもあったようです。しかし、私の役割は、それまで誰も担当していなかった「海外マスコミ」担当であること、また海老原秘書官は外交のサブ、私はロジを副次的に担当することが明確にされたので、私も秘書官室での一員として可愛がってもらえることになりました。

 小渕総理は初日に私に次のように言いました。

 「君は新しい仕事である外国プレス対策を自分の好きなように、思い切りやって良い。でも失敗したら責任を取れ、骨はちゃんと拾ってやる、いいな。」

6.小渕官邸のこと

 小渕官邸には総理の人柄を反映して独特の優しさが漂っていたと思います。旧官邸でしたが総理が官邸を出入りするたびに取り囲む若い総理番の記者たちにも足を止めて丁寧に応対し、総理も記者たちも楽しんでいる様子でした。

 私の仕事は次第に範囲が広がり、総理主催の晩餐会の招待客の席次プランや総理スピーチの手直しなど、いわゆる「サブロジ」的なことやあの有名な「ブッチホン」と言われる総理からの電話をかける際の、まさに電話番号を押す係とかもやるようになりました。小渕総理の面白いのは、相手が電話を取る寸前に私から受話器を奪い取り、相手が「もしもし」と言った瞬間に必ず「もしもーし。私、小渕恵三です。」と語りかけていたことです。

 小渕総理はG7サミットを沖縄で開催することを決めて発表しました。その経緯について私は当時詳しく知る立場にはありませんでしたが、沖縄でサミットをやることが決まった後、総理は執務室に私を呼び入れて次のように言いました。「齋木君、サミットの実質的な議論は海老原君が準備してくれる。君は首脳晩餐会の準備をやってくれ。どんな料理を出し、どんなワインを出せば首脳たちも沖縄の人たちも、国民も喜んでくれるかしっかり考えてくれ。」私はその命を受けて、早速ソムリエの田崎真也さんを始め、何人かの方々と相談しながらサミット晩餐会の準備に取り掛かりました。しかし残念なことに総理は病に倒れ、帰らぬ人となってしまいました。小渕総理の後は森喜朗総理が沖縄サミットを引き継がれ、晩餐会も含めて当初予定された通りのシナリオでサミットは成功裡に終わりました。その時私は既に外務省に戻り、経済局総務参事官としてサミットのロジ分野の総括責任者を務めましたが、達成感と寂寥感の入り混じった感情で、会議場となった万国津梁館を立ち去ったことを記憶しています。

7.終わりに

 小渕先生には、外務大臣秘書官として11ヶ月、内閣副広報官として1年11ヶ月ほど直接お仕えしました。私にとっては、「人柄の小渕」と言われた政治家に間近でお仕えし、厳しさと優しさ、清濁併せ呑む指導者に魅了されるばかりの貴重な毎日でした。

 思い出は尽きませんが紙幅の関係上、以上を以て区切りと致します。

平成の元号を発表する小渕恵三官房長官(当時)