第55回 鑑真和上と遣唐使

元駐タイ大使 恩田 宗

 国宝の鑑真和上坐像の摸像が公開されている。写真でみると鮮やかな緋色の上衣をまとい彼がもたらした盛唐のまばゆい文化を象徴するような装いである。

 鑑真は出国禁止の唐から日本への密航を五度失敗しその間に失明した。崇拝者の多かった高僧で造船等の経費調達はできたらしい。彼を唐に留めたい人達による密告や座礁・漂流で挫折したのである。当時東シナ海の横断は危険で遣唐使船でも成功率は七割五分だったという。鑑真渡来が実現したのは名僧招請のため入唐した日本人僧侶の熱意と鑑真の強い決意があったからである。加えて遣唐使の果断な決断がうまく当ったことも幸いした。

 鑑真が渡日を試みて12年目になる753年、遣唐大使の藤原(ふじわらの)清河(きよかわ)は鑑真招聘の許可を玄宗に求めた。然し呑めない条件をつけられ撤回せざるを得なかった。鑑真はその時既に66歳。そこで清河は帰国する遣唐使船団に密かに便乗するよう勧誘し自分の船以外の3隻に鑑真とその随行者24名を分乗させた。ところが官憲に察知されたとの情報が入り問題化することを恐れ一行を下船させてしまう。鑑真研究者の安藤更生は「官僚根性・・伝統的な日本外交官の弱腰」と清河に手厳しい。しかし彼は光明皇太后の甥で藤原氏直系の大臣(だいじん)級の人物である。唐朝廷での行動も立派だった。15年から20年に一度の国家的大事業(要員約500人)の統括者として慎重を期して当然である。その時の詳しい事情は不明だが安全策に傾いたことを一概に非難できない。

 副使の大伴(おおと)古麻呂(ものこまろ)は長安での元旦朝賀の席次が新羅は東列第一席で日本は西列第二席だと知ると憤然と抗議し席につくことを肯んぜず遂に日本と新羅の席を入れ替えさせた剛毅な武人である。出帆5日前の夜、独断で鑑真一行全員を自分の船に収容した。

 政治家は結果で判断され官僚は行為の法規・命令への適合性が問われる。ユダヤ難民に査証発給した杉原領事は「(訓令違反だったが)私には何千人もの人を見殺し」にできなかったと述べている。政治に近く働く外交使節はそうした窮極の選択を迫られることが有る。

 不思議な巡り合せで大使の船は安南に漂流してしまい清河は阿部仲麻呂と長安に戻り唐朝に高官として仕えた。6年後日本から迎使が来たが帰国を許されなかった。18年後の次の迎えには現地で得た娘の喜娘(きじょう)を渡し自分は唐土で客死する。

 鑑真は幸運にも副使古麻呂の船で日本に安着し日本仏教の礎を築いた。古麻呂は帰国の4年後反藤原の陰謀(クーデター)に加担し捕えられ拷問の杖下で絶命した。この最期について「天平の甍」の井上靖は「古麿らしい運命であると見られないこともない」と言い淀んでいる。人の一生は色々でそれの評価は難しい。