第54回 解体新書と国際共通語

元駐タイ大使 恩田 宗

 「解体新書」は日本の西洋文化摂取を始動させた記念碑的な本である。だだ漢文で訳されているので今の人が読むには難しい。あの時代の医者や学者や武士は漢学の素養があり権威ある書籍は皆漢文で書かれていた。オランダ語からは漢文に訳すのが当然の選択だったのだと思う。杉田玄白は後年「この本が支那にも渡るかもしれないから…漢字で書いた」と述べている。当時の知識人は漢文を共通語とする文化的空間に生きていて本を出すのに大陸の人達をも意識に入れていたらしい。

 欧州での共通語は中世から近世前半はラテン語でニュートンもデカルトも多くをラテン語で著した。ニュートンと微積分法の発見者としての地位を争ったライプニッツは自然哲学をラテン語で書き政治問題はその頃宮廷での共通語になりつつあったフランス語で論じている。    

 今、世界の共通語は英語で今後も変わらないだろう。しかし日本の識者で(物理数学などの科学者は別として)政治外交社会文化について英語世界の主要な雑誌新聞テレビ等に頻繁に登場し論を張れる人は少ない。政治家実業家官僚も諸外国のカウンターパートと英語で直接意見交換できる人はまだ多くない。

 日本の指導層の英語力の弱さは誰もが嘆くことだがこれは明治以来のことで今に始まったことではない。日本人は開国後も欧米の言語をうまく使いこなせず彼等の仲間に入りきれない疎外感に悩まされてきた。先の戦争もそうした疎外感からくるフラストレーションの暴発だとも言えないことはない

 日本のエリートの教養の基礎は明治以後も長く漢学であり続けた。旧制高校の学生(昭和5年で同世代人口の0.9%)の読書は和書(含漢籍?)53%翻訳書43%洋書5%である。彼等の西洋文化への尊敬と憧憬は強かったが翻訳書による吸収が主で欧米語による高い発信能力は身につけられなかった。

 文科省は「英語を使える日本人」育成のため小学校での英語教育を始めた。国民全員が英語を使えるようになればいいとは思う。しかし国として緊急に必要なのは日本を発信すべき1%にも満たない人達の英語力の向上である。今の教育界ではエリート教育は禁句らしいが資質があり外国語習得の労苦と犠牲を厭わぬ意欲ある少数者に対して高度な英語教育を施すこととしてはどうかと思う。

 解体新書の現代語訳をした酒井シズは原書と照合すると誤訳が多く驚いたと書いている。訳本の出版を急いだ玄白もそれは承知していて「蘭学事始」に「…人はさぞ誤解のみといふべし。首(はじ)メを唱(とな)ふる時にあたりては中々後の譏(そし)りを恐るるやうなる碌々(ろくろく)たる料簡にて企事(くわだてごと)は出来ぬ者なり」と回想している。事を成すには批判を恐れていては駄目だとの忠告である。英語のエリート教育も批判を恐れずに進めて欲しい。