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日本ベネズエラ交流史


駐ベネズエラ大使 岡田 憲治

1.初めに

 ベネズエラは、南米カリブに面した人口約3,000万人の国である。その象徴は世界一の埋蔵量(約3,000億bll)を誇る原油、58歳の若さで亡くなった反米左派の指導者チャベス前大統領である。首都カラカスの気候は高地に位置することから快適であり、また日本人の持つ規律の良さ、勤労、時間の厳守を評価するなど国民は親日的である。政治面では、今年5月実施された大統領選挙で、マドゥーロ大統領が再選され、来年1月から、第二次マドゥーロ政権が発足する。今年8月には、大統領をドローンで狙った事件も起こり、世界でも大統領襲撃にドローンが使われたのは初めてであることから、日本国内でも報道された。経済面では、食料・医薬品の不足に加え、今年に入ってからは通貨の単位を10万分の1に切り下げるデノミの実施、政府による仮想通貨ペトロの発行、ハイパー・インフレーションなど経済の実験場とでもいうべき様相を呈しており、それに関したニュースが報じられることが多い。なおハイパー・インフレーションといっても、第一次大戦後のドイツのように荷車一杯にお札を積み上げることはなく、キャッシュ・レスとして殆どカードでの決済が行われている。マスコミで報じられているベネズエラのイメージと実態とはギャップがあるということのみ言及させていただいて、今年が日本・ベネズエラ外交関係樹立80周年、ベネズエラへの日本人移住90周年という節目の年にあたることから、両国の歴史的関係につき説明させて頂く。

2.交流の概要

 先ず日ベネズエラ交流の概略を述べ、その後に各時代の特徴を示したい。

 最初の日本人移民は1928年、外交関係樹立は1938年。

 外交関係は樹立後、太平洋戦争を契機に僅か3年後1941年12月31日に中断した。再開は戦後サンフランシスコ平和条約で日本が国際社会に復帰するまで待たねばならなかった。これに対し、日本人移民は1928年に始まり、その後も太平洋戦争下での地方への疎開(自主抑留)という苦難を経て、戦後、1950年、60年と続く。しかし1960年代後半からの日本の経済成長のもと、新たな移民の動きは減少する。移民に代わって、戦後、ベネズエラが石油開発により経済発展したことを背景に日本企業がビジネスを求めて漸次ベネズエラに進出し始めた。特に1970年代は日本の経済成長と石油危機を背景に両国経済関係は黄金時代を迎える。外交関係樹立50周年である1988年には、ベネズエラ大統領による初めての訪日が実現、1999年から始まるチャベス政権下、同大統領の外交の多極化政策により同大統領は1999年、2009年と二度訪日を果たした。

3.初期の外交関係樹立

 外交関係の樹立が南米の他の国は19世紀の末から20世紀の初めであるのに比し (ブラジルとは1895年、アルゼンチンとは1898年、ペルーとは1873年、コロンビアとは1908年に外交関係樹立した。)、ベネズエラは1938年であり、遅いことが特徴である。修好通商条約締結への動きも、ブラジルやチリに比べて遅い。両国政府間で修好通商条約締結に向け初めて接触がなされたのは、1910年、珍田捨巳駐独大使とサントス・アニバル・ドミニチ駐独ベネズエラ大使との間であった。当時、交渉の障害になったのは有色人種の入国を禁ずる移民法であり、日本政府は、ヨーロッパ人種と同様の待遇を日本移民に保証するように求めた。1938年、ベネズエラに日本公使館が設置され、外交関係が樹立されるが、山形清初代特命全権公使は、両国間の懸案事項であった移民問題と貿易収支不均衡問題の解決に向け努力した。1939年ヨーロッパでの第二次大戦勃発時ベネズエラは中立維持を宣言した。しかし、1940年ハバナでの第二回米州外相会議での「米州一国に対する攻撃は、他の締約国すべてに対する攻撃とみなす」との宣言が発せられ、1941年12月7日、真珠湾攻撃後、12月31日日本との外交関係を断絶することとした。

4.初期の日本人移民

 ベネズエラへの移民は、ブラジルやペルーにおける政策移民とは異なり、個人的になされたが、大きくパナマからの移民とペルーからの移民に別れる。

 パナマからの移民の先駆けは1928年油田調査を目的にパナマ経由でベネズエラへ渡った、矢澤清治郎氏といわれる。矢澤氏は石油を開発し日本の海軍省へ売り込もうとしたが、日米関係の緊迫化により頓挫した。帰国の途次パナマへ寄った際、苦境に立たされていた日本人漁師10数名を引き連れてベネズエラへ再渡航、漁師の何人かがベネズエラに移住することとなった。因みに矢澤氏は、柔道の猛者と誤解され、懸賞金付きの公開試合に駆り出されるなど逸話の多い人物であった由。

 ペルーからの移民は、ペルーに渡っていた日本人移民である米倉雄三氏に始まる。米倉氏はペルーでの排日機運の高まりから、いったんはベネズエラ北部沿岸沖にあるオランダ領キュラソー島への移住を志すも、国際情勢の悪化によりキュラソー島での営業許可が撤回され、1937年ベネズエラに移住を決めたといわれる。

 この二つの流れからの移住を先駆けとして、ベネズエラの日系移民は、商業に従事し生活基盤を確立していった。ベネズエラは1920年代から石油開発を本格化させ、農業国から石油産油国へと大きく変化を遂げようとしていた時期であった。

 1941年12月日本が真珠湾攻撃を行い太平洋戦争が勃発すると、ベネズエラと日本との外交関係が断絶した。日米開戦後、しばらくすると日本人の経営する商店への閉店解散が宣告され、戦争が終結するまでの1-2年間、日系移住者は、自主的にカラカスを離れ近郊の農村に疎開し、自主抑留生活を送ることとなった。

5.戦後の歩みーチャベス政権以前

 戦後、1952年サンフランシスコ平和条約締結後、日本が国際社会に復帰、ベネズエラとの外交関係が再開した。また、日本人移住の流れは1950年代、60年代と続くが、60年代後半、日本の経済成長を背景に移住は減少した。移住に代わって石油生産国として発展していたベネズエラでのビジネスを求めて三菱商事、三井物産等の商社、トヨタ、ホンダ等の自動車会社などの日本企業の進出が進む。特に1970年代は両国経済関係の黄金時代ともいわれ、1975年には福田副総理兼経済企画庁長官のベネズエラ訪問、1979年には園田外相のベネズエラ訪問が実現した。1975年、ベネズエラにおいて、日系企業の親睦団体である二水会やカラカス日本人学校の設立も行われた。外交関係樹立50周年にあたる1988年には、ルシンチ大統領が、ベネズエラ大統領としては初めて国賓として日本を訪問した。ルシンチ大統領は、訪日の際、天皇陛下との御会見、竹下首相との会談、財界、日本・ベネズエラ友好議連等との会談を行い、また両国の外相により日本・ベネズエラ技術協力協定の署名が行われた。大統領訪日直前の日本経済新聞には、「ベネズエラ超重質原油、来年商業生産へ、埋蔵量最大、販売に商社協力」との記事が掲載されているのは興味深い。日本からの要人訪問の観点では、1992年、皇太子殿下がベネズエラを御訪問され、大統領、国会議長、カラカス市長との各会談、シモン・ボリバル生家、ナショナル・パンテオン御視察を始めベネズエラで盛大に歓迎された。

6.チャベス政権下の交流

 1998年の大統領選挙で勝利したチャベス氏は、1999年大統領に就任、2013年に死去するまでの14年間、大統領としてボリバル革命、21世紀型社会主義の標榜のもと様々な改革を実行した。外交面でも、多極化が図られ、日本にも1999年と2009年の2度訪問している。

 1999年の訪日の際には、天皇陛下との御会見、小渕総理との会談、JBIC、JICA、JETROの代表との会談などを行い、両国の経済関係の強化につき話し合われた。訪日の際、青年海外協力隊の派遣が、チャベス大統領から要請がなされ、翌年両国の間で青年海外協力隊派遣に係る取極が締結され、実施されることとなった。

 2009年の訪日においては、麻生総理との会談、経団連との会合等をもった。麻生総理との会談では、エネルギー、投資、貿易を中心とした二国間強化で合意した。なお、チャベス大統領は、時間については無頓着であり、記者会見には3時間以上も遅れたが、麻生総理との会談には時間を守ったとのことであった。

 チャベス政権下、わが国としては、青年海外協力隊員の派遣、草の根・人間の安全保障無償資金協力、文化無償資金協力などのJICAや大使館による経済協力を通じ、ベネズエラの医療・教育・文化・防災などの分野で貢献を果たした。経済協力とともに、JBIC(旧日本輸出入銀行)を通じた資金協力により、ベネズエラの石油関連産業や交通インフラ整備を支援した。

7.最後に

 以上、ベネズエラと日本の外交関係、ベネズエラへの日本人移民について概要を記した。

 両国の関係には、大戦期を挟んで、厳しい時代もあり、しかしながら、移民の方はその間も苦難に耐えながら、ベネズエラ国民との間で信頼を勝ち得た。両国の交流の歴史において、日系移民の方々が、陰に陽に両国関係促進に貢献しておられたのであり、外交関係樹立80周年と日系移民90周年とは不即不離の関係にあることを指摘させて頂く。例えば、現在においても、日系移民2世のイシカワ駐日ベネズエラ大使や、日系移民3世のミヤサカ日本・ベネズエラ商工会議所(CAVEJA)会長は、両国の外交、経済関係促進のために貢献して頂いている。ハスイケ・ベネズエラ日系人連盟会長、ダリ・ヤザワ同副会長はじめ日系人連盟の方には文化交流等の分野で協力して頂いている。自分としても、日系人の方と協力し、両国国民の友好親善に努めたいと考えている。