エストニアの「独立宣言」100周年と日本


前エストニア大使 甲斐 哲朗

エストニアの「独立宣言」100周年

 今年、すなわち2018年は、エストニアが第一大戦後、独立宣言をしてちょうど100年である。その後第二次大戦中ソヴィエトに組み込まれたものの、エストニアはそれは事実上のこととし、1918年の独立宣言はその後も継続的に有効であるとしている。その点に関し、わが国始め多くの国の理解は異なるが、1918年の「独立宣言」自体は事実であり、各国の理解に齟齬はない。

 従ってエストニアの独立記念日は当然ながら年一回である。1918年に独立したときの2月24日だけである。そこには、長年大国の狭間の中で生き延び、初めて獲得した民族としての独立の喜び、そしてそれを守り抜こうとする強く、ひた向きで一途な姿勢が見てとれると個人的には考える。その点は普段の行動にも反映され、例えば、NATOメンバーとしてトランプ政権が問題提起するはるか以前よりきちんとGDPの2%を防衛費に回し、また事実上「無借金経営」で、堅実な経済運営を行っている。

 独立か独立宣言かはともかくとして、エストニアが重視するその100周年の今年、日本とエストニアとの関係においても特筆すべき出来事があった。第一に、安倍総理(1月)、小野寺防衛相(当時、5月)と続くエストニア初訪問である。第二は、9月にエストニア人のパーヴォ・ヤルヴィNHK交響楽団主任指揮者と「歌う民族」エストニア人を代表するエストニア国立男声合唱団との共演が日本で初めて実現したことである。

安倍首相、小野寺防衛相(当時)のエストニア初訪問とIT・サイバー

 今年前半、安倍首相、小野寺防衛相のエストニア初訪問が相次いで実現したが、なぜだろうと不思議に思われた方も多いと思う。その成果は公表資料をご覧いただきたいが、ポイントはIT・サイバーである。

 この分野でのエストニアの先進性は欧米では広く知られている。例えば、EUのIT戦略の陣頭指揮を取っているのは、元エストニア首相のアンシップ副委員長である。余談になるが、エストニアは、もともと100周年の今年前半にEU議長国を務め,IT諸政策を推進すべく、周到に準備を進めていたが、英国のEU離脱というハプニングのため議長国の順番が早まり、昨年後半に務めた。

 日本とエストニアとの間のIT・サイバー協力の元年は、2013年である。同年春、民間から乞われて移籍した経済省のターヴィ・コトカ次官補(IT政策の総括責任者で親日家)が訪日、その夏には経団連欧州委員会、衆議院内閣委員会(平井委員長)調査団、西村内閣副大臣が相次いでエストニアを訪れた。これを契機に両国の官民の要人往来が一気に活発化し、その年の暮れには、IT・サイバーの政府間政策協議も立ち上がった。

 その後も要人の往来が相次ぎ、日本で「マイナバー」が導入される2016年までの間だけでも、2014年には山崎参議院議長、自民党IT戦略特命委員会、新経済連盟、2015年は山口内閣府特命担当大臣、平井・日本エストニア友好議連副幹事長、左藤防衛副大臣、大阪商工会議所、甘利経済再生大臣、中部経済連合会、山田外務政務官のエストニア訪問があった。他方、エストニア側からは要人の訪日がコンスタントに続くなか、コトカ次官補の訪日は「日常化」し、2014年3月にイルヴェス大統領、2016年4月にロイヴァス首相がそれぞれ初訪日した。数年前までの北欧の静かな日々は一変し、その変化は今も続いている。

 このような過程を通じ、当面の日本の課題であった「マイナンバー」導入では、先行体験を有するエストニアから貴重な助言が得られ、またサイバー面でも有益な情報交換が行われた。2007年にエストニアがおそらく世界で初めて組織的サイバー攻撃を受け、その経験やノウハウを生かすべく、翌2008年にNATOサイバー・防衛センター(CCDCOE)が首都タリンに設立された。実践的訓練成果やノウハウをまとめた、同センター発行の「タリン・マニュアル」は専門家を中心に広く活用されている。

 今年の総理、防衛相の訪問は、このように積み上げられた相互交流の成果を評価・再確認し、東京オリンピックなどを睨みつつ、更に今後のIT・サイバー面での協力関係の強化・推進を図ることであったと考えられる。なお、小野寺防衛大臣の訪問の際、日本のNATOサイバー防衛・センターへの参加が正式に決まった。

なぜエストニアでITが?

 そもそもなぜエストニアでITが発展したのか、である。1991年、ソヴィエトから分離独立した際、エストニアの若い指導者はいち早く西側の一員になることを目指した。しかしながらエストニアの置かれた当時の状況は厳しいものがあった。まず、国土は九州より多少広いぐらいだが、人口は約130万と極めて少ない(例えば、オランダやデンマークはエストニアより面積は狭いが、人口はそれぞれ1700万人、580万人)。経済的には林業(国土の半分は森林に覆われている)ぐらいで、経済を牽引する基幹産業は存在しなかった。伝統的なモノ経済に依存する限り、西側諸国並みの経済発展や先進国的な行政サービスの提供は困難であった。そこで若い指導者が鳩首協議の結果、達した結論がITの推進である。真面目で勤勉なエストニア人の気質やソヴィエト時代の理数系研究所関係者の残留も幸いした。

 早速、政府は下準備としてコンピューターの普及に取り掛かり(年配者も図書館に集めて指導、校舎の雨漏り対策よりは生徒へのパソコン配布を優先、全国無料wifiの導入など)、1998年には、「電子政府」を中心とする総合的なIT化戦略を採択し、以降着実に実施している。技術的だが、IT化の基盤は既存のデータベース(現在、官民含め約900ある)の連結(connecting)である。全体を再構築するのではなく、それぞれの既存のデータベースを繋ぐシステム開発(Xロード)に注力した点が画期的だった。これによりIT化のコストは相当廉価となり、サイバー攻撃からのリスクも低減した。このデータベース網の上に利用者の個人認証システム(エストニアID、これが日本の「マイナンバー」の参考となる)を確立し、所要の法制度を整備した。

 現在、エストニアでは社会全体の効率化、ペーパーレス化が進み、全人口130万人だが、年間で節約するペーパーの量は積み上げるとパリのエッフェル塔の高さぐらいとなり、個人の労働時間は年平均で一人当たり1週間程度短縮していると言われる。例えば、納税5分(その前提として超簡素化された税体系の存在)、会社設立が30分で済むし、結婚・離婚と不動産登記を除き行政当局への届出はすべてインターネットでできる。北緯59度のエストニアの厳冬時に外出せず、諸届出が短時間で完了することがどんなに素晴らしい行政サービスであるかは容易に想像できるであろう。また、インターネットによる国政レベルの選挙が実施されているのは世界中でエストニアだけだし、閣議はペーパーレスで、海外出張中の閣僚もスカイプで閣議に参加できる。なお、スカイプは現在マイクロソフト社に属するが、もともとエストニアで開発され、その研究機関は今もエストニアにある。

 このようにIT化を積極的に推進したエストニアは、1991年から20年間のうちに、NATO、EU(2004年)、OECD加盟やユーロ導入(2011年)を成し遂げ、完全に西側の一員となった。タリンにあるエストニア・ITショールーム(e-Estonia Showroom)に行くと、IT化の全体像がよくわかり(インターネットでもアクセス可能)、日本人来訪者が急増している。

 IT化が進んだエストニア社会だが、その街並みはどうだろうか、どこかにIT企業の入居する超近代的な建物でもあるのだろうかと想像されるかもしれないが、首都タリンの中心部は中世の街並みや雰囲気を残す世界遺産だし、その周辺は平均的な東欧諸国の街並みである。そこでスマートフォンやパソコンを開くと、先駆的なIT化社会が広がっていく。その新旧のコントラストが何とも興味深い。

 この項の締め括りとして、 IT化の質問に対するエストニアの要人の反応は示唆に富むので、代表的なものを紹介しておきたい(括弧内は質問)。

(1)(IT化により個人情報・機密は守れるのか)一言でいえば、パソコンのlogの保全により追跡可能性が高まり、法整備と相まってより安全である。

(2)(率直に言って、エストニアは「小さい」から、ここまでIT化を成し得たのではないか)膨大な情報や数処理はコンピュータの得意分野であり、人口が多いか少ないかはあまり関係なく、大事なのは強い政治的意思ではないか。

(3)(エストニアでは賄賂もなく、ビジネス環境も良好と聞くが如何)コンピュータは賄賂を受けとらない。

NHK交響楽団とエストニア国立男声合唱団の共演

 9月21,22日、NHKホールにてパーヴォ・ヤルヴィ主任指揮者のもとNHK交響楽団とエストニア国立男声合唱団(団員約50名)との共演が実現した。この共演は欧米であればともかく、東京で、かつ100周年の今年実現したのである。画期的であると思う。まず、エストニア人(国籍は米国)指揮者のパーヴォ・ヤルヴィ氏の存在が大きいが、彼は現在世界中で引っ張りだこで、最も多忙な指揮者である。彼が2015年9月、N響主任指揮者として赴任する直前、タリンの公邸で会食をした際日本で働く以上、両国のために何かをしたいと静かに、でも力強く語っていたことを昨日のことのように思い出す。また、1944年に創設されたエストニア国立男声合唱団は、世界有数の合唱団であり、パーヴォ・ヤルヴィ氏との共演の一つは2003年にグラミー賞の最優秀合唱演奏に選ばれている。当日の人の入りを少々心配したが、ふたを開けてみるとNHKホールは満席であり、聴衆はシベリウスを満喫した。

 エストニア国立男声合唱団の初来日には、実は悲しい話もあった。一人の日本人が長年この合唱団のメンバーで、その名は西村氏。彼も合唱団の訪日実現の立役者であり、それ故、彼の故郷・松山での公演も組み込まれた。

 個人的にもエストニア大使だった当時お世話になった。合唱の盛んなエストニアなので、ナショナルデーのレセプションでの国歌は合唱団が歌うところが多かった。着任した最初の天皇誕生日レセプションの準備では、適当な合唱団が見つからないためテープに切り替えることも検討されていた。そこで念のため担当者が彼に相談したところ、「自分が同僚数名を連れて行きます。ギャラは結構です。レセプションのお寿司を食べさせて頂ければ、それで充分です。」と快諾。それから在勤中の4回の天皇誕生日レセプションには毎回彼と同僚が来てくれたが、やはりプロの歌い手による国歌は迫力があった。

 その最後のレセプションから暫くして、彼が病気治療のため一時帰国したが、その後国立男声合唱団の訪日が決まり、再びエストニアに戻ったと聞き、安堵していた。しかし、今年春、治療のためまた帰国したという。最後の知らせは、本年8月末ガンのため亡くなった、である。合唱団の東京や松山公演のちょうど1か月前である。無念だったと思う。

 今回の公演中、天皇誕生日レセプションで彼とともに国歌を歌ってくれた10名位の同僚と再会でき、一緒に彼の冥福を祈った。

最後に両国を繋ぐ3つのS

 ITから合唱へ話が飛んだが、個人的には余り不思議ではない。日本とエストニアは、意外と身近なところに共通点があり、思っているほど遠く離れてはいないのではないか、その共通項は3つあり、すべてSで始まる、とよく話していたし、会報でも以前書かせて頂いた。一つ目のSは相撲で、今年春帰国した元大関の把瑠都は日本でも人気があったが、本国でも知名度は高く、来年の議員選挙での当選が期待される。2つ目のSは、エストニアが開発したスカイプであり、それに象徴されるエストニアのIT水準の高さは前述の通り日本でも役立っている。3つ目のSはSingingで、エストニア国立男声合唱団に代表されるように「歌う民族」エストニア人の合唱好きは言うまでもない。これに対し日本人もカラオケを発明したぐらいで歌うことが好きであると説明すると、なぜか受けた。明年7月には、5年に1回の「歌の祭典」(ユネスコ無形文化遺産)がタリンで開催され、合唱団と聴衆併せて約10万人がひとつの会場に集う。

 この3つのSの観点からも、100周年の今年、両国の交流は一層深まったし、エストニアITショールーム、タリン旧市街の世界遺産、来年の「歌の祭典」を目指し、更に日本人訪問者の増加が見込まれ、交流の輪が広がることが期待される。 (了)