黒海とジョージア
駐ジョージア大使 上原 忠春
ここに額に入った10枚の古地図のコピーがある。
先日、ジョージア文芸博物館に展示されている古地図の一部を館長にお願いしてコピーさせてもらったものだ。地図の大きさは様々だが、大きいものは横2m・縦1mほどもあり、ユーラシアの歴史を概観するパノラマを提供している。こうして大使公邸の壁にかけて毎朝出かける前に眺めていると、各々の古地図からジョージアという国の歴史ドラマが飛び出てくるようで楽しくなる。
お気に入りの古地図は、カスピ海と黒海に挟まれて窮屈そうながらも虚勢を張っているように見えるコーカサス地方の地図だ。向かって右端には駿馬が立ち上がって嘶いているようなカスピ海が控え、左側には安定感のある栗型の黒海が横たわっている。この地図では、黒海の名前は”Noir Kara Degniz”(フランス語とトルコ語で「黒い・黒い海」)ならびに”Mer en Turc”(フランス語で「トルコの海」)と併記してある。時代は黒海をオスマン帝国が支配していた17世紀のもので、フランス人が作成したもののようだ。カスピ海については沿岸5か国の合意が最近成立したが、日本外交における戦略的位置づけに関しては、「一帯一路」との関係で今後十分な検証が必要だろう。一方、「一路」の連結性の観点から、日本にとっては遠い存在であった黒海についても改めて今日的視点から検討が必要になっていると思う。ここでは外交戦略上の課題について記述する趣旨ではないと思うので、民間出身の外交官として、好奇心でジョージアと黒海の立ち位置を覗いてみた感想について少しだけお話ししてみたいと思う。
黒海・・・。ジョージアの相撲取りで小結まで昇役し、2012年に引退したレヴァン・ツァグリアの四股名でもある。彼は1993年のアブハジア紛争で家を失い、家族共々ジョージアの首都のトビリシに逃れて相撲を始め、2001年夏場所で初土俵を踏んだ。2012年に引退した後は、ジョージアに戻って事業を営む傍ら、現在はジョージア相撲協会の会長として活躍している。6月初旬に栃ノ心が新大関としてジョージアに凱旋した際には、マルグヴェラシヴィリ大統領表彰、クヴィリカシヴィリ首相(当時)との会談、日本大使公邸での表彰など、一連の栃ノ心祝賀行事に付き添い、栃ノ心と仲の良いところを見せて人気を博していた。彼の故郷であるアブハジアは黒海に面する美しい地域で、彼は「黒海太」と言う四股名に強い誇りを持っており、ジョージアと日本との懸け橋になりたいと語ってくれた真摯な姿勢に共感を覚えた。
ちょっと話がはずれてしまったが、ほとんどの日本人にとってカスピ海や黒海といった海だか湖だか判然としない水域は、中学生の時に習った世界史でわずかに記憶している程度の奇妙な存在ではないかと思う。カスピ海については、「世界で一番大きな湖は何?」というお決まりのクイズで名前を聞いた人も多いと思うが、カスピ海が「湖」なのか「海」なのかで四半世紀も論争が繰り広げられ、最近、結局はそのどちらでもないという曖昧な結論に至ったのは素人的にはすっきりしない。一方、構図的に安定感のある容姿の黒海は、古来、世界史の中では文明の十字路として極めて重要な機能を果たしてきたにもかかわらず、日本人にとっては何となく馴染みが薄いのは少し残念な気がする。
紀元前一千年紀頃に始まるギリシア人の入植、紀元前7世紀頃に遊牧民族スキタイの侵入に悩まされて黒海の北沿岸からトルコのアナトリアに逃避したキンメリア人(クリミアの語源と言われる)の悲話、ローマ帝国軍の駐屯、タタール、オスマン、ロシアといった文明圏や勢力圏の錯綜する黒海は、欧米人の歴史にとっては、馴染みが深いというより戦略的なピボットだったことは容易に想像できる。
昨年、首都大学の前田弘毅先生の監訳で出版されたCharles Kingの「黒海の歴史」では、黒海の海流は反時計回りで真ん中に北と南に向かう両移動水勢が存在するとか、黒海の200m以上の深層部は無酸素状態であるために有史以来黒海を航行して沈没した5万艘以上の船が腐食せずに原型のまま海底に沈んでいるとか、黒海の北側には長寿の民が奇跡を行うと考えられていたり、その近くには金を巡って闘争する一つ目のアリマスポイ人やオオカミに変身する種族とヤギ足を持つ種族が住んでいたり、ドナウ川・ドニエストル川・ドニエプル川(不思議なことにDで始まる川が多い)などの遠くの昔に小学校で習った世界の大河の多くが黒海に流れ込んでいるとか、ローマ陥落の危機に即してビザンチウムに首都を遷した東ローマ帝国の興亡だとか、第4次十字軍(1202-04)に攻略されてコンスタンチノープルを落ち延びたビザンツ帝国の残滓が海流を回るようにコーカサスに近いアナトリアのトラブゾンに帝都を移しジョージアのバグラティオニ王家の庇護を受けていたとか、ビザンツ皇帝たちが黒海の商業利権をジェノバやヴェネチアの代理人に委ねた苦渋の政治的背景だとか、東ローマ帝国が盛衰を繰り返す中でオスマンが到来するまで東方キリスト教会の世界は拡大し続けたこととか、スキタイ族・フン族・タタール族などの騎馬遊牧民族にとって中央アジアの平原(ステップ)は中央アジアと欧州を結ぶ高速道路だったとか・・・・・、想像力を駆り立てられるような話が多くてとても興味深い。文明の十字路とされる南コーカサスが面する黒海は、人種、宗教、習慣、因習といった様々な文化的側面が錯綜して影響しあい、興亡を繰り返してきた場所なのである。こうした遠い昔の黒海を歴史のロマンあふれる場所だと感じるのは本使だけではないと思う。
翻って、近代の黒海を俯瞰してみてもその歴史は実に興味深いが、黒海の地政学が現在の外交課題と直結している事実は、ただ「興味深い」というだけでは済まされない問題を内包している。18世紀以降のロシアの南下政策は黒海を巡ってオスマントルコとの対立を激化させ、19世紀の黒海は「クリミア戦争」の舞台となった。結果的には、それぞれの思惑でオスマン帝国を支援した英仏連合国側の勝利で終わるクリミア戦争終結の「パリ講和条約」は、黒海の権益を単一の国に独り占めさせないという西欧列強の意図を反映させたものだったようだ。そして、その取り決めは国際法上の問題に発展し、「航行の自由を保証」するという動きに加えて黒海の国際化につながった。このあたりの動向は、その置かれている状況は全く異なるものの、日本が提唱する「自由で開かれたインド太平洋戦略」のコンセプトを連想させる。その後再び、黒海はロシア黒海艦隊の重要な戦略地域になるが、もはや黒海の一国支配は望むべくもなく、NATO加盟国とワルシャワ条約機構(WTO)加盟国が黒海地域を二分していた冷戦の終焉やソ連の崩壊にともない、ロシア、ウクライナ、ジョージア、トルコ、ブルガリア、ルーマニアの6カ国のみならず、黒海経済協力機構(BSEC)、黒海フォーラム、GUAM、民主的選択共同体(CDC: Community of Democratic Choice)など、黒海地域を結ぶ地域機構・組織が創設されはじめ、黒海を巡る経済回廊の連結性に係わる国々の思惑が錯綜しながら、様々な協調的取り組みが模索されてきた。
こうした中で、ジョージアはユーラシアの東西南北を結ぶ物流回廊のハブ戦略を唱道しインフラ整備を推進している。とりわけ、日本が円借款を供与するジョージアの東西ハイウエイのフェーズ1・2は中国から欧州に至る主要経済回廊であり、多くの国々が裨益する安全で開かれた経済回廊として機能することが重要である。
近年のエネルギー政策の観点のみならず、黒海が東西物流のハブとしてその連結性が見直され、国際社会が共通の利益を享受し活用できる「安全で開かれたプラットフォーム」として新しい歴史が刻まれるよう期待したい。