第51回 日本と西洋
元駐タイ大使 恩田 宗
福沢諭吉は日本を「如何でもして西洋流の文明強国にしたいという熱心」から洋学塾を設立し、「西洋流の一手販売・・とでもいうような役を勤め」たと書いている(「福翁自伝」)。
しかし次の世代の夏目漱石は日本の西洋化ということ自体に極めて悲観的だった。漱石は「日本の開化」と題した講演でこう述べている。日本の「開化を支配している波は西洋の潮流で・・日本人は西洋人でないのだから・・其中で食客(いそうろう)をして気兼ねしているような気持ちになる」、しかし開化の動きを止めれば「立ちゆかないので」「涙を呑んで上滑りに」西洋の後追いを続けざるを得ない、と。
それから半世紀後の1957年堀田善衛はインドでアジアの人々と出会い、自分が学んで身に付けた尺度(規矩)や考え方は西洋起源のものであり、彼等のそれとは全く合わないことを思い知らされ、これまでの日本や自分の努力は「ひょっとすると方向をとりちがえ」ていたのではないかと悩んでいる(「インドで考えたこと」)。
江戸時代にも日本の知識人は大和心と漢(から)心の葛藤に直面したがアイデンティティーの揺らぎは日本古来の持病と言える。
堀田がインドに行った同じ年、外務省は外交白書第一号を刊行し「国際連合中心」「自由主義諸国と協調」「アジアの一員としての立場の堅持」を外交三原則として表明した。
翌年の第二号によれば、三原則は相互に矛盾する、実行不可能だなどの厳しい批判を受けたという。しかし、それ以後もその三点は外交の基本的立場だとして引き継がれ並列的に言及され続けた。その為外交の現場では実利の繋る西洋(突き詰めれば米国)と出生元のアジアとの間にあってその二重性にしばしば苦しめられた。
文化を共有し強い連帯感で結ばれるような仲間を持たず孤立している事は日本の国家としての特色で独立自尊の気概さえあれば懸念する必要はないとの主張もある。現実を冷徹に見つめればそういうことになるのかもしれない。
ただ、アジアの開化も急速に進みその中にいて堀田が書いている程の違和感はなくなりつつある。特に東アジアの人々とは見かけが似ているだけでなくその文化の根を深いところで同じくしている。時間軸を長くして構えればより親しい付き合いが可能になると思う。更に遠い先、地球が一層小さくなり文明の境界が重なり滲んで融合し、そこに多元的で包容力のある新しい世界文明の形が見えて来れば、日本の長い努力が報われることになるのではないか。