第50回 日記

元駐タイ大使 恩田 宗

 「奥の細道」に元禄2年4月1日(今の暦で5月19日)日光山に参詣し「あらたうと青葉若葉の日の光」と詠んだとある。しかしその日は午前小雨午後曇りで、芭蕉がその場で詠んだ句は「あなたふと木の下暗も日の光」だった。そんなことが判るのは同行した弟子の曾良の几帳面な日記が残っているからである。

 歴史研究者は人の残した日記を読み事実の発見や確認に利用する。新聞や雑誌などがある明治以降についても政治家、外交官、軍人などの日記は貴重な史料である。しかし要人の日記にはいつか人の目に触れることがあるかもしれないという危惧?期待?から修飾、隠蔽、弁解、自慢が入るので注意が必要だという。

 少し前、そんな注意は必要のない窮極のノンフィクションだという日記が紹介された。高倉勇三郎(1853~1948、宮内省の要職を経て枢密院議長)の日記である(「枢密院議長の日記」佐野真一著)。久邇宮良子女王と皇太子殿下とのご婚約支持の怪文書に宮家サイドから5,000円(現在の1,500万円)が支払われた、貞明皇太后は昭和天皇が神事に身を入れないとしてご不満で「形式的の敬神にては不可なり、真実神を敬せざれば必ず神罰あるべし」と言っている、徳川慶久(慶喜の七男)が夫人の不行跡に嫉妬して「終に刀を以って其髪を切」った、などという話しが聞いたままに書いてあるという。見境のない記録マニアで自由な時間をあげて記述に充てていたらしい。三越呉服店で買い物などという私生活から皇族・華族の煩わしい礼法・慣例まで全てを延々と書き綴るので日記は、ノート類で297冊、翻刻すれば分厚い本で50冊という世界最大級のものになるという。ミミズ字で判読困難なためまだ2年分しか解読出来ていないらしい。何故こんな長大で読むに退屈な日記を書いたのか、佐野氏にも判らないという。奇書である。富倉は92歳まで書き続け、その4年後に亡くなった。絶筆は「午後5時30分頃、硬便中量」で日記を書くことへの執念を感じさせる。

 人は特に目的がなくても日記を書く。そして、ごく普通の場合は、その人が亡くなればいずれ捨てられる。アルバムと同じで、知らない他人にとって意味のないものだからである。人は何故日記なぞ書くのだろうか。それは、唄ったり描いたり詠んだりすることと同様の人の本性に基づく活動で「生きているから」書くということではないだろうか。