アイルランド社会の変貌


駐アイルランド大使 三好 真理

[ アイルランド史上最年少の首相の誕生 ]

 2017年6月14日、アイルランド史上最年少の首相が誕生しました。欧州版TIME誌の表紙を飾り(7月24日号)インタビューを受けたレオ・ヴァラッカー首相は当時、マクロン仏大統領より1つ年下の38才。それまで6年間首相を務めたエンダ・ケニー首相は、EUの首脳の中で最年長でしたから、一挙に平均年齢を下げることになりました。加えて、同首相の父親はインド人医師(首相本人も医師免許を有する)、母親はアイルランド人で、移民2世の首相の誕生です。また同首相は、2015年の同性婚の是非を問う国民投票実施の際、自らが同性愛者であることを公表し、カトリック教徒が人口の約8割を占める当国において三重の壁を乗り越えた、ということが言えそうです。

 同首相は、党首選挙に向けた動きが水面下で激しくなっていたと見られる2017年4月、当地「日本祭り」である2万人規模の「エクスペリエンス・ジャパン・フェスティバル」に主賓として出席し、日アイルランド外交関係樹立60周年を念頭に両国間関係の歩みと現状を祝賀するスピーチを行ったほか、5月の党首選挙(サイモン・コーヴニー現副首相兼外相との一騎打ち)勝利後の記者会見(テレビ中継)では、日本人記者の質問に「こんにちは」「ありがとう」と日本語で応じるなど、知日派の側面をのぞかせていました(2013年3月に、運輸・観光・スポーツ大臣として初来日)。

 そのヴァラッカー首相が、就任直後に明らかにしたのが、2018年半ばには、妊娠中絶についての憲法改正に関する国民投票を行う、ということでした。                

[ 中絶の合法化にかかる国民投票 ]

  アイルランドにおいては、1983年、第8回憲法改正により、第40条3項3号(母体と胎児に同等の権利を認める)が盛り込まれ、中絶が非合法化されました。奇しくも1983年当時の司法長官は、今年1月に71歳の若さで亡くなったピーター・サザーランド氏(その後、競争政策担当欧州委員やWTOの事務局長等歴任)で、首相はホーヒー首相からリベラルなフィッツジェラルド首相に交替した直後のことでした。フィッツジェラルド首相は、後に回想録の中で、国民投票を実施したこと自体を後悔しており、第8回改正は政権の命取りになりかねない機微な問題として認識されてきました。

 1992年と2002年にも国民投票が実施されましたが、本条項の削除には至らず、1992年に中絶を目的とした海外渡航や中絶にかかる情報を「知る権利」を制限しない憲法規定が追加されたのみで、胎児の先天的異常やレイプによる妊娠等の中絶も認められない状況が続きました。

 すでに、エンダ・ケニー前首相の下で、市民議会が設置され提言が出されていましたが、ヴァラッカー政権発足後、超党派の国会特別委員会において市民議会での議論や提言についての審議が行われ、2017年12月には(1)同憲法条項の削除(2)妊娠12週以内の無条件の中絶容認、(3)12週以降の例外的な中絶容認、を骨子とする勧告が特別委員会から政府に提出され、2018年1月末には同条項の削除に関する国民投票を実施することが閣議で決定されました。国民投票での質問内容が確定されると共に、憲法が改正された場合の中絶合法化に向けた法改正案の大枠も提示されました。

[ 圧倒的だった投票結果 ]

  国民投票は、5月25日金曜日に実施されました。事前の世論調査では、約20%が賛成・反対の立場を決めかねていると回答していたことから、立場を決めきれない人々が現状維持に流れ、反対票を投じるのではないか、その結果、中絶が容認されるとしても僅差ではないかと予想されていました。が、ふたを開けてみると投票率は64%、憲法条項の削除支持(中絶容認)が66.4%、反対が33.6%で賛成派が2対1で圧勝しました。中絶という概念自体に個人的には否定的であっても、女性が中絶を選択する権利が認められず、中絶が犯罪化されている現状は改められるべし、との考えが共有されていたものと考えられます。ヴァラッカー首相やコーヴニー副首相兼外相自身も、最初は反中絶であったのが、女性の話や専門家の様々な意見を聞くうちに、中絶を容認する方向に意見が変わっていったことを明らかにしています。

 教会を中心とする反中絶派のキャンペーンは、カトリック教会の教義を盾に全ての命はかけがえのないもので中絶は殺人である、という論法を繰り返しつつ、街頭のポスターには生々しい胎児の写真を掲げ、テレビの論争でも中絶容認派を激しく非難する等見るに堪えない場面もありましたが、国外(主に英国(北アイルランド以外では合法))に渡航し中絶手術を受けるアイルランド人女性が年間3000件を超え、また国内で適切な医療処置が行われず死亡する例も散見されるなどの現実を通して、人々の気持ちは、女性の健康や権利の尊重、そして中絶合法化を求める動きへとつながっていったのでした。

 2015年の同性婚を認める世界初の国民投票が可決された時の祝賀ムードとは対照的に、今回は、「中絶」がアイルランド社会で長年タブー視されてきたことを背景に、第8回改正条項の呪縛からようやく解き放たれた、という安堵感に近い感情が国民の間で共有されていたように思います。開票結果の判明した5月26日、ヴァラッカー首相は、これを「静かな革命」と呼んでいます。

  今秋には、国会において中絶の合法化に向けた法改正が審議される予定です。今次憲法改正に反対していた反中絶の議員らも、今回の投票結果を受けて、民意を尊重し法制化をブロックすることはしないと明言しており、憲法改正から法制化までのプロセスは順調に進むことが予想されます。

[ 39年ぶりのローマ法王の訪問 ]

 今年の8月25日と26の両日には、フランシスコ・ローマ法王が「世界家族会議」出席等のため、アイルランドを訪問する予定です。前回、ヨハネ・パウロ2世がアイルランドを訪問した1979年には、ダブリン、ドロへダ、ゴールウェイ、リムリック、ノック等各地で行われたミサに、総人口340万人のうち270万人が参加して熱狂的な歓迎をしたと言われています。その後、神父が子どもの父になっていたというスキャンダルや神父による児童に対する性的虐待、修道女たちが関わって強制労働を強いていたマグダレン洗濯所の事件等が明るみに出て、カトリック教会に対する信頼が失われていった中で、今回ローマ法王がいかなるメッセージを発するかが注目されています。

(7月31日脱稿。本稿における見解は筆者の個人的なものです。)