「アテネ賞」を受賞して ―オリンピックの進む道を考える―


元駐ギリシャ大使
日本オリンピック・アカデミー理事
日本パラリンピック委員会評議員
望月 敏夫

「アテネ賞」とは

 「アテネ賞」と言うとアニメ映画の賞に聞こえるかもしれませんが、オリンピック関係の功労賞です。今年は日本オリンピック・アカデミー(JOA)が選ばれ、去る6月にアテネで行われた受賞式に私が出席しました。この賞は、オリンピック・ムーブメントを動かす両輪(片や五輪競技大会の実施、片や精神、文化、教育運動の推進)のうち、特に後者に貢献した人や団体を顕彰するため、国際オリンピックアカデミー(IOA)が国際オリンピック委員会(IOC)や五輪発祥地のギリシャ政府の支援の下で4年前に創設されました(注;国際スポーツ界には似たような略称がむやみに多く読みにくくて済みません)。今年はカリフォルニア大バークレー校とオーストリア・グラーツ大学の学者も表彰されました。賞金は出ませんでしたが、五輪勝者を意味するオリーブ冠の盾と賞状をもらって帰って来ました。日本の関係者は、JOA創立40周年に当たる本年、また2020東京大会までちょうど2年の時点で、権威ある賞をもらったとして喜んでいます。日本オリンピック委員会(JOC)、東京大会組織委員会、内閣官房、外務省、スポーツ庁、諸大学、メディア等の関係者からも祝辞が寄せられています。

 授賞式の来賓として祝辞を述べたパブロプロス・ギリシャ大統領や代読でしたがバッハIOC会長もJOAの内外での活動を評価してくれました。同大統領からは2020東京大会の成功を祈るとのメッセージも頂きました。なお、私からは受賞者スピーチにおいて、米、仏に次いで世界で3番目に多く五輪競技大会を開催する日本で今後も模範になるような五輪運動を推進したいと述べるとともに、少し格好をつけて、フェアプレー精神をキーワードとするオリンピック精神を複雑化する人間社会で一層広めたいと述べました。実はこれが「アテネ賞」主催者側の問題意識でもあったため、後述しますが、一種の宿題をもらうことになりました。以上の授与式の模様は式に参加頂いた清水駐ギリシャ大使から公電で報告されています。

 因みに、1961年に設立された国際オリンピックアカデミー(IOA)は、国際オリンピッ委員会(IOC)と協力して事業を行う国際非政府組織としてオリンピック憲章第1章2項に規定されており、傘下に148の国別組織を持ち日本オリンピックアカデミー(JOA)は古参メンバーのひとつです。特定非営利活動法人のJOAの活動は研究、普及、教育、刊行など多岐にわたりますが、例えば2020東京大会を控え大会組織委員会の大学連携(805大学)五輪講座に協力し、私も時々講義をしています。対外的な目玉活動は毎年ギリシャのオリンピア(聖火が採火されるところ)でその時々の最先端の課題を討議する合宿セミナー、研修会に専門家や学生を派遣していることで、累計200人近く送りました。このオリンピア・セミナー初期には与謝野秀氏(元駐イタリア大使で前回の東京五輪大会事務総長)など、日本スポーツ界のレジェンド的な方々が参加しています。

「アテネ賞」の背後にある危機意識

 4年前にこの賞を始めた動機や大掛かりな受賞式をする理由をはっきり理解しないまま、私は授賞式に臨みましたが、IOA会長による授与スピーチ、来賓(大統領、IOC会長、IOC委員等)の祝辞、記念晩餐会での会話等によって、彼らに共通する問題意識と時代感覚が私の五輪体験に符合して納得が行きました。一言で言うと「近年、五輪は問題が山積し曲がり角にあるので、皆でもっと盛り上げよう。五輪の価値でもっと社会に貢献し五輪の重要性を認識してもらおう。アテネ賞はささやかでもこの動きを後押ししたい」というものです。お祝い気分の中にも背後に五輪の現状に対する危機意識を感じました。

 折からサッカーW杯のロシア大会が始まったところで、授賞式の時も人々の話題はそちらに傾いていました。一般論としては、スポーツの醍醐味と熱狂は共有するが、単種目の世界大会には五輪のような理論化された理念と多面的目標がなく一過性に終わってしまうので、人類社会にとり五輪の方がはるかに重要であると高をくくっていられるのですが、昨今のいわゆる“五輪危機”や“五輪離れ”の時代になるとそうは言っていられなくなりました。FIFA関係者は、TVを含む単純な観客動員数ではW杯が五輪を上回ると言ってライバル意識を燃やしているという話を聞いたこともあります。

 ふつう国際的な表彰制度には「もっとやれ」というメッセージが込められていますが、今回の「アテネ賞」にも、JOA40周年へのご祝儀のほかに、2020東京大会、更にはビヨンド2020を見据えて活動を加速してほしいとの期待感があることを感じました。もとより小世帯のJOAだけで対応出来る問題ではないですが、今後どうすべきか検討するに当たり、“五輪は曲がり角”の実態とこれまでの改革努力について整理しておきます。

“五輪は曲がり角”とは何か

 近代五輪の創始者クーベルタンが生きていた時代から、大会の肥大化等で危機は始まったと言われます。その後もアスリートの不祥事やスポーツ団体のガバナンス欠如等の内部矛盾が続きます。他方で国民国家の下で五輪の社会的価値が高まるにつれて、外部の社会的勢力(政治権力、商業主義、メディア等)やナショナリズムの力が、自己の利益のため五輪を利用し、しばしば五輪価値を棄損する事件が起きました。五輪が“欲望と思惑の空間”と呼ばれる所以です。テロ事件も増えています。このような内圧と外圧から来る脅威は「伝統的な脅威」と呼べますが、ここ数年、「新しい脅威」が生じています。それは国家ぐるみのドーピング問題と一般国民の五輪離れ傾向であり、五輪危機は新段階に入りました。

 「新しい脅威」が厄介なのは、その背景に、最近の国際情勢を特徴づける二つの大きな動き、即ち大国間の権力闘争の再来(自国国益中心、国威発揚、メダル至上主義)と、各国に広まるポピュリズム(短期的視野、教育や福祉等の身近な利益重視、排外主義)があるからです。007の映画張りのドーピング隠し工作が発覚してもプーチン政権はこれを認めず、ロシアは五輪に正式代表団を派遣出来ません。いったん手を挙げながら地元住民投票等で反対され撤退を余儀なくされた立候補予定都市はここ数年で10都市を超え流行のようになりました。冬季五輪では北中欧都市、夏季五輪ではハンブルグ、ローマ、ブタペスト、ボストン等です。民意が反映されにくい強権国家の都市のみが候補に残ったこともあります(2022年冬五輪の北京とアルマトイ)。バッハ会長個人へのダブルパンチと言われるのは、出身地ミュンヘンの撤退とローザンヌのIOC本部から車で1時間のスキーの本場シオン市の撤退です。「シオンよ、お前もか!」と叫んだかどうか分かりませんが、IOCは直ぐに声明を出し「五輪のネガティブ面でなくポジティブ面を見て欲しい」と訴えました(本年6月11日)。私には声明よりも悲鳴に聞こえました。札幌市も二度目の冬季五輪招致を検討中で既にIOCと予備協議を始めていますが、成功して欲しいですが微妙な問題もあるようです。独特の五輪人気がある日本でも明日のチャレンジとして意識の中に入れておく必要があります。

五輪改革

 五輪の歴史は改革の歴史と呼ばれるほど、歴代のIOC会長を始めとする五輪ファミリーは、自己改革(「守り」)と外部勢力への働きかけ(「攻め」)に精力を注いできました。その典型は、ロゲ前会長提案の「ユース(若者)オリンピック」(スポーツ競技に加え文化、教育活動が必修)と、バッハ会長提案の「オリンピック・アジェンダ40項目提案」(五輪活動の全般的見直しや社会貢献キャンペーンを提唱)です。特にバッハ会長就任から今日までの5年間は五輪危機が深刻化したため、矢継ぎ早に「攻め」の改革を打ち出しています。特に“Together We can Change the World”キャンペーンの名の下、社会貢献・世直し運動として、地球的規模問題(環境、人権、ジェンダー、民族和解、難民等)にスポーツ(五輪)の力を使う施策を強化し、国連諸機関との“共闘”にも乗り出しています。

 一般国民の反乱という「新しい脅威」に対しては、五輪の存続にも関わるとしてバッハ会長は荒療治とも超法規的措置とも言える措置を取っています。五輪招致プロセスの合理化、東京大会後の開催都市二つの同時決定(24年パリと28年ロスで、有力2都市に逃げられないためです)、大会経費大幅削減、広域開催、若者向けや都市型五輪競技の導入などです。これらは難民選手団の五輪参加を含め、厳密には現行の五輪憲章にそぐわない措置が含まれていますが、元フェンシング金メダリストから弁護士に転じたバッハ会長は、法律家は法を破ることに意義を見出すと言ったと伝えられています。私は2度の東京大会招致活動に参加し(1敗1勝)、6年間で60ヶ国余を訪問し投票権者のIOC委員にロビー活動をしましたが、当時彼らの多くが「五輪をやらせてあげる」であったのが、最近は「五輪をやって頂きたい」との態度に変わり隔世の感があります。

五輪が生き延びる社会構図

 結論から言うと、新旧の脅威に対抗する改革努力が試行錯誤を繰り返しつつ多角的になされ、様々な処方箋が提示され実行されているお陰で、姿を変えつつも五輪の価値や魅力は維持されているのが現状と言えます。近年の改革は、例えば原理主義的なアマチュアリズム信奉からプロ化の容認や商業資金の導入など、時代の流れに抗さずこれに乗る現実主義が特徴です。バッハ会長も機を見るに敏で、従来は五輪の対抗勢力に見られていたスポーツ外的勢力(政治、商業主義、メディア等)に対しても、現代社会での彼らの強力な力を与件と認め共生を図る努力をしています。例えば平昌大会のお陰で南北間や米北朝鮮間の対話が成立したと関係者は一様に述べ、バッハ会長も平壌まで乗り込み五輪の平和構築力をPRしました。しかし同じようなケースは過去によくありましたが、政治の当事者達が自己の思惑で五輪の「機会」をうまく利用したに過ぎない演出です。五輪に平和構築の実体があると信じるほどのナイーブな人はいないと思いますが、それを知りながらメディアを含め皆が五輪の力のお陰だと褒めそやす何かが五輪に備わっています。米国NBCの放映時間帯に合わせて決める競技実施時間(例えば北京大会や東京大会の競泳は通常やらない午前中)は商業主義の典型とされていますが、NBCが払う巨額の放映料に五輪が依存している事情は現在も変わらないため、見直し提案は出て来ません。過激なナショナリズムやこれを煽る国家権力が五輪に悪影響を与えた事例は枚挙にいとまがありませんが、国旗と国歌が代表するナショナリズム無くして五輪の醍醐味はありません。この度日本オリンピック委員会(JOC)が東京大会で金メダル30個取る目標を掲げましたが、これまでの最多記録が16個ですので(前回の東京大会とアテネ大会)、期待は大きいと思います。大会期間中の楽しみは朝起きて国別メダル獲得表を見ることですが、五輪憲章は大会関係者がこれを作成することを禁じています(第5章57項)。五輪は国家間でなく個人間の競争だという建前からですが、メディア等がこれを作ることは違法とされず今も黙認され続けています。

 社会の主要勢力(特に政治権力)が暴力的に五輪価値を棄損した事例(例えば大会ボイコット)はかつて多く見られましたが、現在は互いに折り合いをつけて「持ちつ持たれつ」の構図になったと言えます。これは五輪サバイバルに有利です。この状況の理論的説明のため、イギリスのスポーツ社会学者P.マッキントッシュによる「協力的競争cooperative competition」の概念やフランスの社会学者P.ブルディユーによる「象徴力pouvoir  symbolique」の概念が援用されることがあり、半可通の私も参考にしていますが、私の授業では社会の主要勢力と五輪との間に相互依存の「スポーツ共同体」が出来上がったと説明しています。

社会貢献とフェアプレー精神運動の勧め

 今後は、6月のIOC声明のとおり、五輪という巨大な社会現象の負の側面のみを見ずにプラスの側面を見て、これを伸ばす努力が五輪発展の鍵になります。この意味でバッハ会長が進める「攻め」の路線である社会貢献・世直しキャンペーンは、一般国民が最も心配する五輪の後の問題、いわゆるレガシー問題への対応にも繋がるので、五輪離れ対応として効果的です。

 現に2020東京大会を控える日本では、IOCの指針に沿って、東京大会の実施体(大会組織委員会、JOC、JPC、東京都、自治体、国)が、五輪への全員参加とレガシー重視を掲げて社会改革事業を具体化しています。例えば組織委員会の「アクション&レガシープラン」や国連SDGs(持続的開発目標)に沿った改革プランは、五輪を契機に日本社会の広範な分野を改革しようとするものです。国は東京当選の公約である「スポーツ・フォー・トモロ―」計画に基づき主に途上国を支援中です(既に200ケ国で3,000件余の事業を展開中)。東京都の五輪教育プログラムも実施中です。これらは各分野の専門家集団が作成していて時折話を聞くと、ハードとソフトを含む質の高い包括的な計画であることが分かります(詳細は各事業のHPをご参照下さい)。工程表に沿って確実に実施されればパリ大会やロス大会の模範にもなり、五輪に背を向けた各国の国民層にも評価されると思います。もっともその前提として、スポーツ界自身の自己規律と改革努力が不可欠ですが。

 一方、私は授賞者スピーチでオリンピズムを体現する最も分かりやすい概念として公正、公平、合理性を核とするフェアプレー精神を取り上げ、その拡大、浸透の重要性を強調し、同じことは来賓のスピーチでも言及されました。当然これは五輪教育等の東京大会関連事業に含まれていますが、メリハリをつけるために特にフェアプレー精神をピックアップし、五輪大会に限らない精神運動と社会改革運動の形にすると、一般国民の支持を得やすいと思います。授賞式の際も、ドイツの名車メーカーの社長が排ガス規制問題で逮捕され話題になっていましたが、日本でも政、官、財、学、スポーツ界で毎日のようにチート(ごまかす)事件が報じられているからです。このような精神運動はもともとJOAの中心任務であり、またアテネ賞に込められた期待でもあるので、他の組織と連携して活発化していきたいと思います。

 なお、この関連で足元の身近な問題ですが、外務省の関連部局や地域局と日常接していると、残業等の勤務環境が昔よりも厳しくなっていることに気付きます。仕事の質や量の変化や国会との関係もあるでしょうが、これも公正と合理性を旨とするフェアプレー精神により、真の働き方改革が実現することを祈りたいと思います。

(了)