MENU
 

今アメリカが迎えている局面(2018.7.10 現在)


元駐米大使 加藤 良三

● クイック・フィックスが出来る人間への期待

 トランプ大統領が異形の大統領であることは間違いない。今、日本においてすらトランプ批判ほど容易なことはない。

 トランプ氏は、ジョージ・ワシントンが、エイブラハム・リンカーンが、マーティン・ルーサー・キングがそうであったという意味での「リーダー」ではない。

 2016年の大統領選挙で彼が勝つとは私も予想しなかった。

 しかし、選挙戦中に誰かが私にくれた、堅固な共和党員で党への献金を惜しまなかったどこかの州の有力支持者と思しき人から共和党本部に宛てた書簡のコピーには、今思えば当時の有権者の憤懣がよく出ていた。書簡の趣旨は、次のようなものだった。

 「私はこれまで共和党に資金的にも随分尽くして来た。我々は連邦の両院を共和党に与えた。その見返りは何であったか。

 これで少しは世の中がよくなると思って、安心して一寸ばかり休暇に出た。帰ってみたら自分の家の2階や地下室にネズミとタヌキ(ラクーン)が住み着いている。ガス管を食い破り、水道管を破裂させ、食糧も食い荒らしている。市役所に電話する。数人の係官が駆け付ける。がたがた調べた挙句、拱手傍観してこれは簡単に直りませんという。そこにぶらりとやって来た男が、これは私が直しますと請け合う。どうやら本当に役に立ちそうだ。その上彼はカネは要らないという。

 この男がどんな素性の男か、離婚歴3回とか、前はヒラリー・クリントンを支持していたとか、屈むとジーンズの上から尻がはみ出すとか、そんなことは二の次だ。我々が求めるのは、知らぬ間に入り込んでいたネズミやラクーンを追い出して、元通り住める家にしてくれる、そういう緊急措置(quick fix)が出来る人間なのだ。今トランプに託してみようという気持ちになっても、致し方ないではないか」ということだった。

 トランプ大統領はこうした不満(多分それは党派性を超えたものだ)の鬱積が産み出した、目に見え、動きもするが、実際の肉体を持たない「空中映像」(ホログラム)のように見える。因みに、このホログラムは2003年の愛知万博で、アメリカ館の売りだった。そこで登場していた映像は、ベンジャミン・フランクリンだった。映像の彼は「残念、自分は早く生まれ過ぎたのかもしれない」と嘆いていた記憶がある。

 実体のない映像だから、弾が当たっても血が流れない。数多の批判非難の矢玉は、むなしく通り抜けてしまう。

 しかし、実際に大統領に就任するということは、ホログラムにはとどまりえず、肉体を持った人間となることを意味するから、切られれば血も出るようになるだろうと思っていたのだが、実際のところはよく分からない。只、何か芯の通った運動(ムーブメント)のリーダーになっている気配は、相変わらず無い。共和党系の論者の中にもトランプは「ならず者の超大国アメリカ」を選択しただけだと評する向きがある。

● 疲れ知らずのはずだった超大国の臨界状況

 アメリカの歴史の中に今日と似た時代はあったのか? 人によっては、例えば1829~37年第7代大統領アンドルー・ジャクソンの時代が似ているという。ジャクソンは名称としては初代の民主党大統領で、「ホワイトハウスに泥靴を履いたままの輩が出入りする状況を作り出した元祖ポピュリスト」と学校の教科書にも書かれている。しかし、当時アメリカが世界のスーパーパワーだったわけでもなし、今日との類似性云々は、私には分からない。

 私が見て来たのはたかだか1965年から今日に至るアメリカである。

 1960年台のアメリカは相対的国力の絶頂期と言うべきか、全て光り輝いて見えた。人は鷹揚で清潔感があった。

 1960年代末からベトナム戦争の影響が出て来て、ヒッピーなどのサブカルチャーも現れ、何となくアメリカが薄汚なくなった気がした。

 しかし、その後アメリカは第2次世界大戦時の仕組みを徐々に切り替え、冷戦への対応に腐心する一方で、人種差別の問題に正面から取り組み、公民権法を通し、マイノリティ優遇制度を定着させ、ポリティカル・コレクトネス(PC=政治的適切性)、その他様々な社会規範の定着に取り組んだ。

 国で最重要のポストである大統領に、1960年アイリッシュ・カトリックのジョン・F・ケネディを、そして2008年には黒人のバラック・オバマを選出した。次いで2016年には、殆ど女性大統領が誕生しかけた。その間一貫してアメリカの人口は10年間に3000万人超のペースで増え続けた。その多くは移民人口である。アメリカ人になりたい外国人が引きも切らないということであろう。

 アメリカは疲れ知らずかと思ったが、2016年の選挙にはアメリカの長年の疲れが出た様な気もする。疲れという表現がアメリカに相応しくないとすれば、前述のアメリカの「前進」の裏で蓄積されて来た「この国を作った者の子孫である我々が割を食っている」、「もう偽善には辟易した」、「イナッフ・イズ・イナッフ」の類の感情が臨界状況に達した感じを受ける。

● 「匿名への情熱」が希薄になっていく社会では

 冷戦終了後の「地球のフラット化」、「グローバリゼーション」等が決して福音とはならない巨大な人口層がアメリカにもあるのだろう。十分な教育を受け、時代の恩恵に浴した「エリート」層の思想や行動も、20世紀時代のものと変わっているのかもしれない。

 私の好きな言葉に「匿名への情熱」(パッション・フォア・アノニミティ)というものがある。アメリカでこの言葉が出来たのは、フランクリン・ルーズベルトからハリー・トルーマンの時代だったと記憶するが、自己宣伝のためのマイクロフォンやスポットライトには関心を持つことなく、自分より大事な“何か”のために、黙々と本分を尽くして仕事をする精神とでも言うべきもので、これこそが当時、アメリカの大統領に補佐官を置くことになり、また、現在の国家安全保障会議(NSC)事務局設置に繋がった。それが、今の世の中で「匿名への情熱」などと言ったら、SNSなどの匿名による罵詈讒謗、人身攻撃と勘違いされやしないかと心配になる。

 進んで納税、兵役の義務を果たし、損得抜きで自分より大事なものに奉仕する「高貴な精神」(ノブレス・オブリージュ)や「匿名への情熱」が希薄化するような世の中となっていくに連れて、そういう国では、「教育」が本来の意味を失ってくることがありはしまいか?

 今頃になって思い出すのだが、冷戦未だ酣の1980年代半ば、あるアメリカの有識者が、民主主義側に対する挑戦は二つあると言った。一つは外からの軍事侵略(aggression)の脅威、今一つは内からの浸食(erosion)である。後者の例として安直なパシフィズム、核廃絶の主張や民主主義の本旨である自由な創意に基づく経済・科学・技術の不断の進展を妨げる類の運動を挙げた。そして結論は、民主主義がこの挑戦に打ち勝つには決して「教育の結果としての無能力」(Educated Incapacity)に陥ってはならないということのようだった。

 「教育欠如の故の無能力」と違って「教育の結果としての無能力」とは、教育の結果人間が学問的知識を積み上げた挙句に却って決断力が鈍り、リスク回避志向が強まり、保身に身をやつすようになることへの警告かなあと当時思ったものである。

 根拠薄弱な見方かも知れないが、高貴な精神・匿名への情熱の欠如、教育の結果としての無能力の兆候は、冷戦の勝ち組の中に蔓延しているようだ。

 アメリカではエリート層におけるその兆候が、非エリート層をいら立たせている如くである。

 たまさか提供を受けた最近のギャラップ調査によるとアメリカ国民が信頼する対象は1位が断然軍人で74%、大統領37%、メデイア23%、議会11%とあり、大企業は25%、中小企業67%となっている。この種の数字は固より継続して見ないと意味が無いが、何となく私が感じているところと符合する。

● トランプを生んだアメリカが追う後始末の責任

 トランプを作っているのは今のアメリカであり、その逆ではない。

 トランプに対しては強烈な反発、殆ど憎悪に近いものもあるが、日本はこの政権と付き合っていかなくてはならない訳で、トランプ批判に明け暮れても意味が無い。

 トランプを生んだアメリカは基本的に内政志向のアメリカで、国際関係を律して行く上での原則の有無も判然としない。点は見えるが線は分からない。

 中間選挙に向けて、トランプは「実績」を挙げているように見える。減税効果、GDPアップ、失業率ダウン等々。しかし、全方面喧嘩外交をしてNATOにまで噛みついている一方、ロシアとの接近を大統領自身は計るなど、民主主義の側が70年に及ぶ冷戦を戦い抜いて勝利したのは何のためだったのかと訝らせるようなアクロバットも演じている。

 それは結局アメリカ国民がそれを許容しているからおきていることであり、その後始末の責任はアメリカ自身が負うことは自明である。

● アジア太平洋を向いたアメリカの顔と日本

 結局日本にとって必要なことは、トランプを生み出したアメリカの動向を綿密に分析しつつ、トランプ政権と巧みに付き合うことである。それは決して小手先、手練手管の問題ではない。

 私はしばしばアメリカの3つの顔という比喩を用いて来た。大西洋を向いた顔、太平洋を向いた顔、西半球(ラ米)を向いた顔であるが、勿論その基底にはアメリカ自身を向いた第4の顔がある。

 大西洋を向いた顔は底堅く侮ることは禁物であるが、時代の趨勢から見てこれ以上成長する顔だとは思えない。西半球を向いた顔は人口動態の変化からして重要度を増すであろうが、多くの部分は第4の自分自身を向いた顔、即ち、アメリカ内政の要素として溶け込んでいくのではないか?

 アメリカが孤立主義に向かうモメンタムは僅少だと思う。超大国の味を知り、世界秩序を自分なりに構築してきたアメリカが、それらを一気に放擲すると考えるのは、想像力が過ぎると思う。

 諸々の状況を考慮すると、アメリカが繁栄を続けていくために、日本、中国を含む太平洋、加えてそれに連結するインド洋にその将来はあるのだ、とアメリカ自身も思っているだろう。

 これは抽象論ではない。

 ましてトランプ自身は負けず嫌いのようだ。相手に負けた、騙された、翻弄されたといった類の批判が、耐え難いタイプの人間に見える。

 太平洋で日本を見捨てるアメリカは、全世界でのクレディビリティを失墜するアメリカであることを、今の政権も本能的に分かっていると思う。台湾に関する動きに照らしてもそのような感性の一端が窺がわれる。

 但し、このことは固より絶対的な保証を意味するものではない。アメリカが、日本が太平洋で最も信頼性の高いパートナーであると考えるための前提は、日本がアメリカにとってそれだけの魅力と他国には代替の効かない価値(卑近な一例はアメリカの前方展開戦略を支える戦力投入プラットフォームとしての在日米軍基地の提供)を有し続けることである。その中身をどうするかは日本が正面から考えるべきことであるが、根本は、日本がアメリカとの同盟を引き続き前提としつつも、同盟の核心は結局相互防衛にあることを見据えて自らのハードパワー、ソフトパワー、総和としてのスマートパワーを理性的な論議を通じて整備することであろう。そのことは必然的により自立性を高めた日本の構築を意味しよう。

 その際、議論にタブーがあってはならない。民主主義の基本的柱の一つは、法の支配であり、法は民主主義の手続きの下で制定され、万人に平等に適用されることを意味する。しかし、法治主義は「特定の法が人間より常に賢く、絶対的に正しい」ということは意味すまい。それは寧ろ教条主義の類であって、実態がそれにそぐわない緊急の事態に遭遇した際「超法規的」措置に走る誘因になろうからである。