エビタとホルヘ・ベルゴリオを繋ぐもの(フランシスコ法王の初心を探る)



元駐バチカン大使 上野 景文

 あの伝説的ミュージカル「エビータ」が来日、渋谷での公演が始まる(7月4日)。言うまでもなく、エビータ(以下、エビタ)とはアルゼンチンのファン・ペロン大統領(1946-55年)の夫人エバ・ペロンのことだ。美貌とカリスマ性に富み、その国民的人気で大統領を強力に支えた。1952年に33歳で早逝したが、否、それ故、その後も「聖女(サンタ)エビタ」として国民に長く慕われている。このミュージカル、秀逸な名曲が続き耳心地が良い(筆者も35年前、勤務地のNYで堪能)が、内容的にはエビタを冷ややかに眺めたところがあるため、アルゼンチン人の間では評判は良くない。それはさておき、以下本稿では、このエビタ或いはペロンとホルヘ・ベルゴリオ(後のフランシスコ法王)とは、見えざる絲で繋がれていたと解される点を明らかにしたい。

 ところで、世界を見渡すと、米国のトランプから、フィリピンのドゥテルテ、イタリアで政権に参加した「五つの星運動」、更には、この7月1日にメキシコの大統領選挙に勝利したロペス・オブラドールに至るまで、ポピュリストの政権が「一世を風靡」している。実は、ファン・ペロンの政権は、この一連のポピュリスト政権の「走り」であり、反特権層、反エリート、親労働者と言う点で、半世紀後に現れたポピュリスト諸政権の「先駆け」的存在であった。

 さて、ペロン党・ぺロン政権にシンパシーを有し、エビタを慕う人々は、ぺロニスタと呼ばれる。勿論、党員に限られる訳ではない。支持者一般のことである。このぺロニスタは、概ねブルーカラー(労働者階級)であり、ペロンは、かれらの関心を買うべく、労働組合優遇策などを通じ、ポピュリスト的姿勢を示した。ところで、移民国家アルゼンチンでは、移民1世、2世は芋づる式にぺロニスタになった。また、多くの移民がカトリックのイタリアから来たこともあり、往時には、「カトリック教徒の8-9割はぺロニスタだった」と言われている。かくして、70-80年前には、教会とペロン党は近蜜な関係にあり、ペロン党の綱領は、何とイエズス会神学校でかれらの協力を得ながら起草された由!そんな時代がかつてあったと言うことだ(今日のペロン党は「全く違う顔」を持ち、教会とは疎縁になっているが、ここでは立入らない)。

 さて、ブエノスアイレス郊外で育った少年-青年期のホルヘ・ベルゴリオの周辺は、概ねそうしたぺロニスタであった。ホルヘ青年の大学時代の友人やガールフレンドはもとより、ベルゴリオ家の面々や親戚、隣人もそうであった。因みに、ブルーカラー、移民が多数を占めたぺロニスタであるだけに、軍人を含む特権階級、エリート層に好感を持ってはおらず、このため、かれらの間では軍へのシンパシーは薄かったようだ(後述)。また、後年、神学校長になってからのベルゴリオ司祭は、折々労働組合指導者を招いて神学校で講話させたそうだが、労組幹部とは若い時分から親交があったようだ。

 つまり、ホルヘ・ベルゴリオは、反特権階級、反権威、反エリート、反軍、親労組、親エビタと言った心情に傾く人々に囲まれて、成長したものの如くだ。彼自身のエビタ観は承知しないが、周辺にはエビタを慕っていた人が多数いたものと推測される。そう、フランシスコ法王が時折見せるバチカン官僚(エリート)批判、弱者、貧困者や草の根信徒への気遣いなどの根っこには、70-80年前涵養された「初心」があるようだ。

 そのベルゴリオが最も苦労したのは、アルゼンチンの軍事政権(1976-83年)との関係であった。彼は、この軍政期にイエズス会管区長を務めたことから、左派勢力弾圧に走り、「解放の神学」系司祭にも牙をむいた軍政の圧力をまともに受けた。軍がベルゴリオの友人であったアニェレリ司教*(やはりぺロニスタ系)を殺害して以降、特に危機感を高めたベルゴリオは、イエズス会神学校を拠点に、軍が目をつけた人々を匿い、海外逃亡を助ける等のリスクを冒すと共に、軍が拉致した司祭釈放を軍政幹部に掛けあった(この点は、2年前封切られた映画「ローマ法王になる日まで」に詳しい)。

 つまり、元来司祭の政治的活動には批判的なベルゴリオではあったが、そうした聖職者を含め、かれらを軍から守ることと、軍からイエズス会を守ることとの二つの難題を抱えることとなった。ベルゴリオは、苦悩しつつも、二つの課題に応えるべく、デリケートなオペレーションを冷静かつしたたかにこなした。逆説的ながら、「過酷な軍政がベルゴリオ(のしたたかさ)を育てた」と形容したい。このしたたかさは、保守派高僧に包囲されている今日のローマでも、如何なく発揮されているようだ。

 なお、言論人の中には「ベルゴリオは軍に通じていた」と誤解する向きがある。然し、軍へのシンパシーが薄い人々に囲まれて育ったベルゴリオが、軍と通じることは考え難い。あったのは、むしろ軍への反発心だ。軍政期のある日、ベルゴリオは司祭数人とサッカー観戦に行った。そこへ、軍政の大統領ビデラ将軍が現れたことから、観衆は総立ちでこれを迎えたが、ホルヘ一行は平然と座り続けたと言う。その後新聞にその写真が載ったことで、事態を知った軍は、神学校に嫌がらせをしたそうだが、此処にも彼の「初心」が垣間見える。

 以上が、「エビタとフランシスコ法王とは、見えざる絲で繋がっていた」というお話の主要点だ。ベルゴリオの育った環境と初心につき、ぺロ二スタと言う補助線を介し、取り留めないままにお話しした次第。

 蛇足的に付け加えれば、ペロン、エビタと言うとポピュリズムを連想させるところがある。このため、ぺロニスタに囲まれて育ったフランシスコ法王についても、ポピュリスト的体質があるのではと早合点する向きがある――現に、法王就任当初、一部国際メディアは「フランシスコはポピュリス的だ」と断じた――が、的外れな議論だ。何故か。ポピュリストとは、人々の関心を買うと言う目的のためには原則を平気で曲げる人(ないし、元々原則がない人)のことを言う。とすれば、トランプやドゥテルテは典型的ポピュリストと言うことになる一方、「(キリスト教の)原則」に忠実な法王をポピュリストと言うことには無理があるからだ。もっとも、法王は家族倫理などの問題につき柔軟すぎるとの不満が保守的カトリック高僧の一部にあるようだが・・・。

 最後に一言。フランシスコ法王には、日本国政府からも、日本カトリック教会からも、日本に招待したい旨がつとに伝えられている。潜伏キリシタン関係事績のユネスコ世界文化遺産への登録が正式に決定された(6月30日)この機に、訪日が実現すれば、時宜に叶ったことと言える(2018年7月3日記)。

*去る6月9日、法王は、このア二ェレリ司教を福者に列することを正式に決定した。